第36話 がくがくのぶるぶるだよお……
在さんと共に会長についていくと、六畳くらいしかない狭い洋室に連れて来られた。部屋の中央には細長いテーブルがあり、それを挟むように二人掛けの革張りのソファが二つあった。テーブルの上にはガラスの重そうな灰皿があった。かっとなって撲殺するのに使われそうだった。縁起でもない。
会長はソファの中央に身を投げ出すように座り込んだ。黒地に複雑に絡み合う銀色の蔓草の模様が入った着物のお蔭で、とぐろを巻く大蛇に見えた。僕と在さんは彼の向かいのソファに座った。
会長は僕ら二人を無言で見つめた。窓から入り込んだ強烈な雷光が、会長の人生の苛烈さを表すような深い皺を際立たせた。出かかった悲鳴を呑み込んだ。しかし、会長は僕の異変に気付いちゃったようで、軽く笑った。
同時に自分の懐から煙草入れを取り出した。更に銀色の延べ煙管を取り出した。火皿に刻み煙草を詰め、吸い口を咥えてマッチで火を点けた。工程ごとに場の空気が強制的に弛緩されていった。
会長は煙を味わうと、穏やかに目を細めて頷いた。
在さんがスーツの懐からシガレットケースを出し、紙巻き煙草を二本取り出した。一本は僕に差し出された。
僕は愛煙家ではないので、少し困った。でも、受け取った瞬間、煙草に触れた指先から安心感に浸っていった。
在さんはいつものようにジッポライターで火を点けた。控えめに桜の枝が彫ってあるそれは、桜刃組初代組長のものだ。
会長が深く息を吸い、小鼻が膨らんだ。
在さんが流れるようにジッポを持った手を差し出した。渡すというよりも、点けてあげようとする動作だった。それに従うと、会長が落とすように息を吐いた。
会長は視線を斜め下にやり、顎を三度揉んだ。それから、在さんへと掬うように目を動かした。
「きっぱり本題から入ろうや。鵜塚の坊はどうや?」
「橘は、機嫌よくやっていますよ」
在さんの返事に会長はゆっくりとソファーからずり落ちかけた。僕も緊張状態でなければ、似たようなリアクションで遊んだかもしれない。
会長は姿勢を戻しながら、幼稚園の先生か、と呟いた。在さんが返事しかけると、舌を鳴らした。高い音が雨音に負けじと響いた。
在さんは一瞬僕に視線をやってから、会長に応えた。
「……最も重要なことよ」
突然の敬語のパージに反射的に飛び出そうになった声を抑え込んだ。顔にも出ないようにしようとしたが、そもそも正解の表情が分からない。仕方がないから顔を覆うようにして煙草を吸った。便利な代物だ。
会長は口を窄ませて、唸った。在さんが言葉を続けていく。
「最終的には自分で選んでくれた道だもの。悔やませたくないの」
会長が相槌とも唸り声ともとれる声を数度出した。あわせて、太い指が煙管を揺すり、煙が奇妙に動いた。
「とりあえず、それは一旦横に置いといて」
会長は煙管を持っていない方の手を外側へと払った。置いておくというより、手の届かない所まで飛ばしちゃってないだろうか。
「桜刃組を視点としたメリットやらデメリットやらをなあ、儂は聞きたいねんなあ」
ねっとりとした会長の声に対し、在さんはあっさりと答え出した。感じないのかなあ、この圧迫感。
「人懐っこい上に度胸もあるのは良いと思うの。お蔭で桜刃組と匣織市の人間に対して上手くやっている。他の裏社会の人間対してもそうだと十分期待できる。……桜刃組には欠けていた点だからありがたいことよ」
ね、と在さんが僕を見た。
在さんは殆どの人に対して強固な壁を作るし、奏君はどうやら人見知りというか人間苦手だし、奈央子ちゃんは僕と同じで臆病だし、猪沢さんはフレンドリーだけど度胸が無い。ついでに時也さんは、度胸は有り余っていて溢れ出していて調子に乗ると物騒な関係を築きたがった。清美君の逸材っぷりを噛み締めずにはいられない。――というようなことを緊張が解れていたら喋っただろうけど、無理だよ。会長の無言の威圧の前には頷くことしかできなかった。
在さんは会長を見てゆったりと瞬いた後、更に話した。
「後は、頭の良さとか英語が堪能なこととか、貴方もきっと把握しているだろう経歴から分かる事もメリットよ」
会長は煙管を吸い、煙と共に言葉を吐き出した。
「デメリットは何やの」
そうね、と在さんは相槌を打って、僅かに眉を顰めた。一瞬だけの表情の変化だった。すぐに変わらない調子で坦々と話した。
「頑固さ、かしら。特に自身に対して。意図的に盲目的な態度でいようとするきらいがある」
「それは、今は桜刃組に尽くす方向で動いとるんとちゃうんか?」
「ええ。だから、心配なの」
会長は顎を擦ってから話を促した。
「桜刃組でこれから起きることの全てが、彼の理想や許容に反しなければ問題は無いの」
けれど、という三音と共に在さんは僕を見た。
突如別種の恐怖が降りかかった。鼓動が早くなる。僕が知っていることを彼はやっぱり把握しているのだ、と確信させた。同時に、在さん本人はその災厄を未だ進める気であることをも。
堪らず目を逸らすと、在さんは会長に向き直って言葉を続けた。
「いつかは彼が傷付くことが必ず起きてしまう。逃げ道を自分で塞いでいるから、真正面に苦しむことになるのでしょうね」
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