第16話 母親の気持ちを理解した日
俺の魂が未亜の体に憑依して、もうどれくらい経っただろうか。女子としての振る舞いも板に付いて、未亜もあまり小言を言わなくなった。
日常生活で自分の顔は見えていないから、美少女だということはあまり意識していない。でも、胸の膨らみは見えているから、否が応でも自分が華奢な少女だということを実感させられる。俺が未亜になったからと言って性格が変わるものではないが、女らしさに日々抵抗がなくなっているような気がする。
どうすれば、未亜は生きる気力を取り戻してくれるのだろう。このままでは、俺が桐生未亜として生きて行かなければならなくなってしまう。
「未亜は将来の夢とか、あったんじゃないのか?」
バスタブで湯船に浸かりながら聞いてみた。初めの頃は美少女の全裸を見られて、興奮とまでは行かなくても、それなりに楽しみはあった。しかし、そんな気持ちはすぐに消え失せた。自分の裸を見て喜んでいる姿を想像するとアホらしくなるし、この体を傷一つ付けずに返さなければならないという義務感の方が強くなってしまった。
(やだ、そんなこと恥ずかしくて言えない)
「未亜の人生を全て俺にくれるって言ってなかったか?」
返事がないので、もう一度同じことを言う。
「未亜の人生を全て俺にくれるって言ってなかったか?」
(分かったわよ。私は服飾デザイナーになりたかったの。将来は自分のブランドを立ち上げるのが夢だった)
「母親がやってること、そのまんまだな。血は争えないってことか」
(何よ。葉月が私の代わりに、夢を叶えてくれるつもりなの?)
「鈴花が必要とされるようになりたいって言ってたのは、そういうことか。余程、未亜のことが好きなんだな」
(鈴花さんは家族が居ないから、私のことを家族だと思ってくれてるのよ)
俺はバスタブから出ると、ヘアクリップを外して髪を洗う。こんなことも普通に出来るようになってしまった。
未亜は長い間、母親には会っていなかったからアパレルの会社を経営していることを知らなかった。親子だから、やりたいことが同じなのは偶然と言うよりは必然か。
母親との関係さえスムーズに行けば、叶わない夢ではないだろう。俺がそこまで踏み込むのもどうかと思うが、もう少し母親と仲良くしてほしいという気持ちもある。
髪を濯いでから体を洗うのが未亜の手順だ。先に体を洗うと、シャンプーが体に残ってしまうそうだ。
一通り洗い終わって浴室を出ると、体重計に乗ってからバスタオルで体を拭いて、次に長い髪を拭く。これも未亜に教えられた、いつもの手順だ。
「未亜、一つだけ約束してくれないか?」
(話しだけは聞くけど)
この言い方は、俺が広瀬君に言った言葉を未亜が真似たものだ。
「俺に黙って、あっちの世界へ行かないでくれ」
(うん、分かった。約束する)
俺には未亜の姿が見えないから、黙っていると不安になる。これで約束を守ってくれれば、少しは安心できるというものだ。
毎朝、裏門で広瀬君に会うのも日課になったが、彼が遅れても待ち続けたりはしない。30秒だけ待って現れなかったら、さっさと校舎へ向かう。それ以上待ったところで、学年が違うから校舎に入れば別れてしまう。短い距離を並んで歩くために待っていても時間の無駄だ。
15秒遅れてやって来た広瀬君が自転車を降りて手で押しながら歩き、途中の駐輪場に自転車を停めてから、校舎までは二人で肩を並べて歩いて行く。そんな意味もない時間が結構楽しかったりする。
教室へ入り自分の席に着くと、東條さんがやって来て声を掛けられる。広瀬君を待つ時間の分が遅くなったせいか、最近では廊下で声を掛けられることは少なくなった。
「未亜ちゃん、モデルの撮影の続き、まだやってないの?新号に間に合わないんじゃない?」
「催促はされてるんだけどね。別に私じゃなきゃいけないってことでもないし」
「坂上さんに、私ならいつでもOKって言ったのよ。そしたら、未亜ちゃんは身内だから現物支給でも問題ないけど、私に無給で労働させるのは問題があるって言われちゃった」
「バイト代貰ったら、停学になるしね」
「と言う話しをして、未亜ちゃんをその気にさせてほしいと坂上さんにお願いされましたとさ。めでたし、めでたし」
「完結しちゃったね」
母親との関係で、未亜が行きづらいことを分かっての裏工作だろうか。それとも、何としてでもモデルに使いたいのか。その両方だろうけど、俺としても母親に会う口実が出来て有り難い。
「モデルが必要なら、うちのお客さんに声掛けてもいいよって坂上さんに言っといて。バイトがOKな学校の子も居るし、何ならママがヘアメイクをやってもいいくらいの勢いだから」
東條さんがモデルをした時の写真はまだホームページに掲載されていないが、話しくらいはしているだろう。彼女の両親は美容師だから、ファッション関連に乗り気なのはよく分かる。
「坂上さんが喜びそうな話しだね」
「じゃ、これ。うちのママの名刺だから、坂上さんに渡しといて」
そう言って、制服の胸ポケットから出した名刺を渡された。伝達事項が出来て結局、東條さんは坂上さんの裏工作に協力したことになる。
学校が終わってから、そのまま鈴花の運転で母親の会社へ行けば、電車に乗らなくて済む。
その場で俺はスマホを取り出して、坂上さんにデザイナーの仕事に興味があるから今日行ってもいいか、という内容のショートメッセージを送った。即座に返事が返って来る。
【モデルの続き、やってくれるよね。やってくれるよね。撮影の用意して待ってるから】
そんな内容だ。デザイナーの仕事については特に触れていない。素人の高校生が興味を持っても、頑張って勉強してね程度のことなんだろう。
(本気で私の代わりに、夢を叶えてくれるつもりなんだ)
いや、未亜が生きる気力を取り戻すためにやってるんだが、俺自身はさほど興味はない。ただ、未亜の言う人生の全てを俺にくれるという言葉は、そういうことなんだろうなと頭の片隅にはあった。
学校が終わってから、迎えに来た鈴花が運転する車で母親の会社へと向かった。鈴花ももう場所は覚えているので、会社の駐車場へ車を停める。
迎えに来る前に鈴花にお願いしておいたのは、母親が選んでくれた洋服を着て来るということだ。頂いた物を着て見せるのは礼儀だろう。
鈴花と共に会社の中へ入ると、挨拶する間もなく坂上さんがすっ飛んで来て、俺の手を握って事務所の方へ引っ張って行く。
「メイドさん、うちの服着てくれてるんだ。超似合ってる」
「恐縮です」
相変わらず事務所は女性だらけだが、今日は専務の兵頭さんの姿もある。この人との関係も何とかしないといけないなと思っていたら、誰も座っていない空いているデスクに連れて来られた。
「未亜ちゃんがデザイナーの仕事に興味があるって言うから、専用のデスクを用意しておいたよ。ちょっと座ってみて」
デザイナーの仕事の話しはスルーされたから、油断していた。高校を卒業するまで一年以上もあるのに、こんなことまでするとは思わなかった。
一応、キャスター付きの椅子に座ってみると、斜め前には母親のデスクがある。
「この暴走チーフを誰か止めないの?」
「私は服飾デザインには疎いから、自社ブランドの方は全面的に坂上さんに任せてるのよ」
「え、好きでやってるんじゃないの?」
「通販サイトの方はね。でも自社ブランドは、娘に尊敬されるような母親になりたいと思って立ち上げたのよ。だって未亜は、小さい頃からデザイナーになりたかったでしょう」
親子だから、やりたいことも似通っているのかと思っていた。母親は未亜の服飾デザイナーになりたいという夢を知っていて、この仕事をやっているということか。だから撮影の時はただ見守っているだけで、一切口を出さないのか。
「お母さんにとって、会社経営は
「そうね。未亜に申し訳ないことをしたとは思ってるわよ。でも、これで私のことを見直してくれると信じてたから、今日まで頑張って来れたの。家族が仕事の原動力になるのは、誰だって同じでしょう」
「普通の親なら、そこは『理解してくれると信じてた』じゃないの?」
「親の都合を子供に理解しろなんて、ただのエゴでしょう。私は不器用だから、こんな誠意の見せ方しか出来ないのよ」
精神的な愛情が不足している分を、物理的な愛情で補おうとするのは父親と同じだ。それが親として正しいのか、俺にはよく分からない。
重たい空気に耐えられなかったのだろうか。俺の後ろに立っていた坂上さんが、頬ずりしそうな勢いで顔を近付けて話しに割り込んで来る。
「高校を卒業してから、本格的にデザインの勉強をすればいいから。それまでは空いてる時間に顔を出してもらって、雰囲気だけでも味わうといいかな」
「坂上さんのデスクはどこ?」
坂上さんは、真正面のデスクを指差した。
「やっぱり…」
「美少女の顔を見てたら、創作意欲が湧くのよ。もう、居てくれるだけで経営が上向くから」
「誰かこの暴走チーフを止めて」
そうは言っても、もうスタッフの半分くらいは撮影の準備のために席を立っている。俺は忘れない内に、東條さんから預かった名刺を差し出した。
「夏海ちゃんの両親がヘアサロンを経営してるから、モデルが必要ならお客さんに声掛けてもいいよって」
「ちょっと、有名店じゃない。さすが名門校の生徒だけあるわね。コラボ企画とか考えたら、アクセス増えそうじゃない。そうだ、ヘアメイク特集やろう。美少女の処世術で、注文殺到だわ」
「もう、好きにして」
ようやく俺は席を立って、坂上さんに手を引かれながら撮影のために二階へと向かう。振り返りながら鈴花には、
「その席に座ってて」
と声を掛けた。
「分かりました」
当たり前のように母親も一緒で、坂上さんは引いていた俺の手を母親へと渡す。特に嫌がる様子もない俺に、母親は嬉しそうな表情を見せる。
人間関係が希薄で、誰にも相談できずに自殺を選択してしまった未亜だ。他人の俺から見れば、こんなにも恵まれた環境に居るのに自分自身は、それに気付いていなかった。
要らない人生なら、俺が代わりに天寿を全うしてやろうか。そんな気持ちになっていた。
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