第7話 心に雨が降った日
その日は朝から雨が降っていた。窓にポツポツと当たる雨音を聞きながら、俺は机に突っ伏して目を閉じていた。
眠いし低血圧だし冷え症だし、おまけに生理痛だ。未亜にナプキンの使い方を教えてもらいながら、俺は何をやっているんだと自己嫌悪に陥る。
(一番きついのは二日目なんだから、その程度で落ち込んでどうするのよ)
そりゃあ、未亜は肉体的な苦痛からは解放されているから、何とでも言えるだろう。本来なら俺の方が、そっちの立場だった筈なのに。
「未亜ちゃん、よく眠れなかったの?」
目を閉じているので見えていないが、藤森さんの声が聞こえた。
「昨日は用事があって、遅くまで起きてたの。ラベンダーのお陰で寝落ちしたから、これでもマシな方」
「そう、良かった」
今日は片側サイドアップすらしていなかった。近付いて来る足音が聞こえたので、東條さんならお願いしようかと思い顔を上げた。しかし、そこに居たのはクラス委員の
「杉浦先生から伝言よ。桐生さんに昼休みになったら、校長室へ来てほしいって」
杉浦先生というのは先日、このクラスの担任になったばかりのベテラン教師だ。呼び出すなら普通は職員室だと思うのだが、校長室とはどういうことか。
「なんで校長室?」
「知らないわよ。特別待遇なんじゃないの?」
「今日、女の子の日だから体調悪いのに…」
「関係ないでしょう。ロキソニン持ってるから、飲んで行きなさいよ」
「ありがとう。武藤さんって、優しいんだね」
「ちょっと取って来るから、待ってて」
自分の席の方へ行く武藤さんを見ながら、藤森さんはクスッと笑った。
「なんか未亜ちゃん、変わったね。嫌味言われても凹まないし、人付き合いが上手になったみたい」
「人生観が変わるような出来事があったんだよね。空白の三日間に」
「事故に巻き込まれたってやつ?怪我しなくて良かったよね」
「そう言ってくれる人が居て嬉しいよ」
すぐに武藤さんが、錠剤を持って戻って来た。
「はい、これ」
「至らないことが多くて、ごめんなさい」
「至らないのは知ってるから、大丈夫よ」
錠剤を受け取ると、武藤さんは顔を少し赤らめて、片手で胸を押さえながら
「どうかしたの?」
「美少女の笑顔にやられた…」
彼女は一言多くてとっつきにくいのだが、悪い人ではなさそうだ。
昼休みに俺は、弁当も食べずに校長室へやって来た。生徒が校長室へ呼び出されるなんて、余程のことだろう。未亜が黙っているのは、何か心当たりがあるのかもしれない。
ドアをノックすると返事が聞こえて、俺はドアを開けて中へ入る。そこには担任の杉浦先生の他に、年齢から言って校長だと思われる人と、人相の悪い男女の二人組がソファーに座っていた。
「桐生さん、こちらへ」
杉浦先生に促されて、俺もソファーの空いている所へ座った。
「これから、ここで話すことは絶対に他言無用よ。約束してもらえる?」
「はい、分かりました」
「こちらは警察の方よ。前任の小松崎先生のことで調べているの」
「刑事さん…?」
刑事は二人一組で行動するらしいが、一人が女性なのは相手が女子高生だからだろうか。思った通り、女性刑事の方が口を開いた。
「小松崎を売春斡旋の容疑で調べていたの。ギャンブルで多額の借金を作って、生徒に売春をさせてたみたいね。数日前に行方をくらましたので、家宅捜索をしたところメモが見付かってね。そこに桐生さんの名前があったから、知っていることがあるなら話してほしいんだけど」
「私の名前が…」
未亜に売春の容疑が掛かっているということか。これはもう、未亜の助けなしでは対処できない。
(私の言う通りにして。こんなことで、葉月の人生を台無しにしたくないから)
未亜の人生だろうとツッコミを入れたいところだが、今は言われた通りにするしかない。
「小松崎先生に、援助交際の話しを持ち掛けられました。でも、絶対にそんなことはしてません。そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシです。私の体を調べてもらえれば分かると思います。まだ男性経験はありませんから」
涙目で訴える俺に対して、女性刑事は隣りへ移動して来て肩を寄せる。やはり、このための女性のようだ。
「そんなことしなくても信じるわよ。こちらの調べでは小松崎が売春の相手を用意した日に、あなたは事故に巻き込まれて三日間意識不明になってる。誰にも相談できなくて苦しかったでしょうけど、早まったことだけはしないでね」
「うっ…」
「どうしても断れない理由があったのね。最近、他校へ転校した
「ごめんなさい…」
「いいわ、調べれば分かることだから。でも、これだけは言っておくけど、日向さんの名前も小松崎のメモにあったの。あの子は売春とは別に、小松崎からお金を受け取ってるるのよ。それがどういう意味か分かるわね」
「ううっ…」
顔を伏せて涙を流す俺の前に杉浦先生がやって来て、その場にしゃがみ込んだ。下から覗き込むような形で、俺の顔を見ようとする。
「今日は事情を聞くためだけに呼び出したんじゃないの。今の話しが事実なら、学校としてもきちんとケアしないといけないでしょう。スクールカウンセラーにカウセリングを受けてもらうことになるけど、了承してもらえる?」
俺がカウセリングを受けてもあまり意味はないのだが、これほどの不祥事だ。しかも大企業の社長の娘が被害者とあっては、学校としても何もしない訳には行かないだろう。
「分かりました」
「ありがとう。これから桐生さんのことは気に掛けておくから、何でも言ってね」
いや、気に掛けてくれなくても構わないのだが、この状況では仕方がないか。不祥事が拡散しないように、定期的に面談するという狙いもあるかもしれない。
話しが終わると、杉浦先生に手を引かれて校長室を出た。ドアの前で先生は俺の両肩に手を置き視線を合わせる。
「桐生さん、この話しはくれぐれも内密にね」
「大丈夫です。自分から話すようなことじゃありませんから」
「賢い子で助かるわ。昼休みが終わらない内に昼食を取ってね」
「失礼します」
俺は杉浦先生に頭を下げてから、向きを変えて廊下を歩いて行く。歩きながら、ハンカチで涙を拭いていた。嘘泣きではなく、未亜の感情が高ぶると体も同調してしまうのだ。
日向が売春とは別に、小松崎からお金を受け取っていたという
未亜に聞きたいことは色々あるのだが、周囲からは一人で喋っているようにしか見えない。俺は口元に手を当てて、小声で
「日向って誰だよ」
と呟いた。
(刑事さんが言ってた通りよ。姿を見ないと思ったら、転校してたのね。葉月の意識が戻らない間は私もずっと一緒に居たから、何が起きたのかは知らないわ)
俺の空白の三日間の間に、日向が転校して小松崎が姿を消したということか。偶然にしてはタイミングが良すぎる。事情を知る第三者の介入があったと考えた方が良いだろう。
刑事にあまり追求をされなかったのも、事情聴取が目的ではなかったからだ。裏で動いた人物が誰なのか、それを確認したかったのかもしれない。ただ、未亜自身もそのことを知らなかった。
廊下を歩きながら窓の外を見て、思い出したことがある。
屋上の塔屋の上で声を掛けて来た広瀬君は、また来ると言っていた。まさか、こんな雨の日に屋外で弁当を食べるなんて、そんなバカは居ないだろう。いや、結構バカだったような気がする。
一応、確認だけはしておこうと思い、出入口の傘立てまで傘を取りに行ってから屋上へと上がって行った。
外階段から屋上までは傘を差して行ったが、塔屋の梯子を登る時はさすがにその状態では無理だ。
傘を閉じて肘に掛け、雨に濡れながら梯子を登ると、そこには傘を差してしゃがんでいる広瀬君の姿があった。もうパンを食べ終わったのか、小さく丸めたゴミ屑を握り締めていた。
「バカじゃないの。こんな雨の日に、屋外でお弁当を食べると思った?」
「また明日もここへ来るって言ったから、約束はきちんと守らないとな」
梯子を登り切って塔屋の上に出ると、傘を開いて広瀬君の所まで行く。スカートが濡れないように膝の裏に巻き込みながら、さほど距離を空けずに俺もしゃがみ込んだ。
「約束なんかしてないでしょう。あなたが一方的に、そう言っただけじゃない」
「でも、来てくれたってことは、なかなか会えない人と話しが出来たってことじゃないのかな」
「お陰様で、ちゃんと話しは出来たから」
「それは良かった。あんまり笑顔じゃないのが、ちょっと残念だけど」
「そうね。あなたに新しい問題を出してもいい?」
「それに答えたら、デートしてくれる?」
「やっぱり、やめとく」
「ごめん、無条件で答えるよ」
「自分の知らない間に周囲の状況が変わってたら、何が起きたのか確かめるにはどうしたらいい?」
「抽象的だなぁ。もう少し情報があるといいんだけど」
「もしかしたら私を助けようとして、誰かがこっそり動いてたのかもしれない…」
「だったら、それを確かめる必要があるのかな?」
「え、どういうこと?」
「本人が気付かない内に何かをしてくれる人って、本人が気付かないままの方が嬉しいと思うけど」
「そうかもしれない。でも、イレギュラーがあったとしたら…」
「イレギュラーって?」
「ううん、こっちの話」
仮に俺が未亜を助ける立場だったとしたら、小松崎を野放しにはしないだろう。手順としては、先に小松崎が逮捕されてから日向を排除するべきだ。そうしないと、第三者が介入していることを小松崎に知られてしまう。しかし、イレギュラーなことが起きてしまったために、事情を調べられることを恐れて小松崎は姿を消してしまった。取り敢えず、日向だけを排除したと考えた方が筋が通る。
「俺の答えに点数を付けるとしたら、何点くらい?」
「90点」
「よしっ!デートまで、あと少し」
「誰が100点取ったら、デートするって言った?」
「言ってないけど、希望的観測で」
「もう、教室へ戻る。まだ、お弁当を食べてないから」
「え?もう昼休み終わるよ」
「大きなお世話よ」
俺は立ち上がると、傘を閉じてから梯子を下りて行った。いつもなら広瀬君が上から見ている筈だが、雨が降っているのですぐに傘を差して歩いて行った。
(もう、デートしてあげたら?)
自分はしないけど、俺なら出来るだろうといった感じのニュアンスだ。なんで俺が、男とデートしなきゃならないんだ。
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