4.折り畳み傘

「失礼しました」


 礼をして職員室をあとにする。

 廊下がじめっとしていて、思わずため息を一つ。

 普段以上に明るく照らす照明。

 叩きつけるような音。

 窓を見るまでもない。

 雨が降っている、それも、大粒の。


 天気予報を見てきてよかった。

 朝は気持ちいいくらいの晴天だったから、危うく傘を置いて登校するところだった。

 折り畳み傘を持ち歩いてはいるけれど、この雨では心細い。


 そんなことを考えながら、昇降口に辿り着く。


「柳生くん……?」


 意外な人物が下駄箱に寄りかかっている。

 柳生くんは前髪越しに私を見ると、面倒くさそうに舌打ちをした。


 一瞬お昼休みのアリサの言葉が頭の中を駆け抜けていく。

 でも声をかけてしまった手前、このまま無言で横切るわけにもいかない。

 心の中でアリサに謝罪をしながら、私は口を開く。


「どうしたの? もしかして雨宿り、とか?」

「……見ればわかるだろ」


 冗談のつもりが本当だったらしい。


「折り畳み傘、貸そうか?」

「いい、いらない」

「でも雨、朝まで止まないみたいだよ?」

「……お前の傘、なくなるだろ」

「大丈夫、普通の傘も持ってるから」


 バッグから紺色の折り畳み傘を取り出して差し出した。

 柳生くんは折り畳み傘と私とを交互に見る。

 その様子がまるで、戸惑う野良猫のようで、ちょっと可愛い。


「俺のこと、知らないのか?」


 すぐに、アリサが言っていた話のことだとわかった。


「柳生晃太くん、でしょ?」


 だけどわざと知らないふりをした。

 アリサのあの言い方からして、知っていると言えばあまりいい気持ちはしないだろうから。


 柳生くんは苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをした。


「からかってんのか」

「なんのこと?」

「名前を覚えてたのだって、どうせあの噂を知ってたからなんだろ。でなきゃ、お前みたいな奴が俺の名前を覚えているはずがない」

「私みたいなってどういうこと?」


 言い方にひっかかって問いかければ、柳生くんは言葉に詰まる。

 けれどまたすぐに口を開いた。


「いつだって誰かと一緒にいてあほみたいにけらけら笑っているような、そういう奴らのことだよ」


 攻撃的な言葉を放ってくる柳生くんに、怒りよりも先に違和感を覚える。

 前に話したときは、私の名前を覚えていないことを謝ってくれるような人だった。

 なにかあったからこそ、攻撃的な言葉を投げてくるのだろうか。

 それとも、前は死のうとしている人を見てテンパっていたのだろうか。


 どちらが、本当の彼なんだろう。

 わからない。

 それなら、私ができるのは。


「柳生くんって、家、どっちのほうなの?」

「……は?」


 鳩が豆鉄砲でも食らったような表情で、柳生くんは固まってしまった。

 それがおかしくて、必死に笑いを噛み殺す。

 私は彼に背を向けて、自分のローファーを取りに行こうと歩き始めた。

 折り畳み傘は、まだ私の手の中にある。


「家まで送れば、傘、すぐに返してもらえるでしょ」

「なにを」

「優しい柳生くんは、私が知らない噂のことを気にしてるみたいだし」

「優しくない」

「そんなに気にするような噂なら、傘を返すタイミングにも気を使わせちゃいそうだし」

「俺は」

「それとも濡れて帰るの? 制服、明日までに乾く?」

「おい」

「教科書だってびちゃびちゃになっちゃうと思うけど」

「田所!」


 ローファーを片手に持った状態で振り向けば、前髪越しに目が合う。

 柳生くんは眉毛を真ん中にギュッと寄せて、なにかをこらえるような、それでいてどこか不安げな瞳で私を見ていた。


「その……怒ってる、のか?」


 恐る恐るといった様子で口を開いたと思えば。

 考えるよりも先に、私は吹き出してしまっていた。


「……笑うなよ」


 むすっと唇を尖らせて言う柳生くんにさらに笑ってしまう。

 まるでその仕草が小さな子供のようで、でも見た目も声も全部男子高校生なものだから、そのアンバランスさが面白くて。

 そしてなにより、私の中での疑問も解消されて安心したものだから、笑ってしまったのだ。

 たぶん、前に話したときの彼が本当の彼で、攻撃的な発言はわざとなのだろう。

 その理由をしろうとは、思わない。

 アリサが言っていたことが本当なら、もしかしたら人とあまり関わりたくない理由があって、そういった態度をとっているのかもしれないから。

 興味がまったくないわけではない。

 でも、わざわざ問うほどの興味があるわけでもない。


「ごめん、怒ってないよ」

「……そうか」

「だけど、心配はしてる。傘、貸すよ」

「いらない」

「でも」

「お前が噂を知らなくても、知ってても。気にしてもしなくても。気にする奴、いるだろ」


 光をすべて吸い込んでなかったことにしてしまうような、そんな黒い黒い前髪。

 そこからじとっと私を見つめる瞳は、真剣そのもので、そしてとても疲れていた。


 私は、その瞳を知っている。

 鏡の中で、よく見ているから。

 誰も信じてくれない、どうしたらいいのかわからない。

 でも、それでも、生きていくためには自分の心を守らなくてはいけないから。

 そのために頑張って、そして疲れてしまう、そういう瞳。


 きっと、今何を言っても柳生くんからはNOしか返ってこない。

 でもこのまま見て見ぬ振りをして帰るのは、私の良心が痛む。


 私は柳生くんから顔を背けると、自分のクラスの下駄箱を見る。

 ローファーが入っているのは、一つだけ。

 その上に折り畳み傘を乗せた。


「おい!」


 あたりだ。

 私は小さく口角を上げた。


「好きなときに私のローファーの上に置いておいてくれたらいいよ」

「だからいらないって俺は」

「柳生くん」


 ほとんど叫んでいるような柳生くんの言葉をさえぎって、私は彼を振り向く。

 びくっと肩を震わせて、柳生くんは口を閉じた。


 じっと彼の瞳を見つめてから、私はそっと微笑む。

 作ったのは、可能な限りの甘めの微笑み。


「また明日ね」


 すぐに柳生くんに背を向けて、私は歩き出した。

 うしろから崩れ落ちたような音が聞こえて、少し笑ってしまったのは、内緒だ。

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