誤算だらけの策

 展開はほぼ予想通りとなった。


 新居猛太改や火の鳥の攻撃によって派手な爆発が島津宗家の陣に起きるも、所詮はそれだけである。共に戦略兵器にはほど遠い存在あり、その範囲は知れている。密集陣形ならまだしも、兵が散開しているなら着弾地点から逃れるだけで良い。そうなれば被害は、蚊に刺された程度となるのは必然であった。


 ただその爆発と音は、島津宗家の兵の大半の注目を集める。こちらの仕込みを行う陽動として考えるなら、とても都合が良い。


「木沢隊、今の内に川に土嚢を投げ込め!」


 発想は手品に近い。話術や身振りで客の注目を逸らし、その間にタネも仕掛けも整える。気付いた時にはあら不思議。いつでも渡河可能な状況が完成していた。


「山田隊、久万衆、一斉に突撃しろ! 足を止めるなよ。駆け抜けて敵の陣を掻き乱せ! 絶対に囲まれるな!」


 この状況で突然迎撃態勢を整えろと言われても、それは不可能に近い。正確には、突撃を受け止める敵陣のほぼ全員が即時に対応するというのが不可能に言うべきだろう。これは兵も人なのだから当たり前だ。中には視野の広い者もいれば、目の前の事態にしか注意が向かない者もいる。例え一人二人が奮闘しても、それは全体から見れば蟷螂の斧でしかない。数の暴力に押し潰されるのは、必然であった。


 島津宗家の必勝の策が、たったこの二手で脆くも崩れ去っていく。


 ここからは掃討戦に近い形となった。新居猛太改や火の鳥の攻撃こそ止めたが、馬路党の大筒による支援攻撃が、敵に組織的な行動を行わせないようにとひたすら妨害し続ける。後続で渡河した専光寺隊の離別霊体の発砲によって兵の戦闘力を奪い、この地に硝煙の臭いを撒き散らしていく。


 トドメが本山 梅慶率いる本隊だ。整然とした動きで渡河を敢行し、部隊を展開する。派手な大立ち回りなど必要無いとばかりに、天に掲げた槍を一斉に振り下ろして確実に敵兵を仕留めていく攻撃を繰り返していた。


「命じた俺が言うのも変だと思うが、元明を打ち倒したあの島津がこうも脆いとはな。初手を間違えるだけでこれ程一方的になるとは思わなかったぞ」


「いえ国虎様。こうなるのはむしろ当然かと」


「直昌か。何か気付いた点があるのか?」


「はっ。率いる将の数の問題かと。島津宗家は当家の火器への対抗に重点を置き過ぎたのではないかと愚考致しまする。将の数は限られているというのに、それを無視した部隊の数となれば、一度崩れてしまえば立て直しはできませぬ」


「……なるほど。急造だったのか。そうそう上手くはいかないものだな。そう思うと、今回は島津宗家の詰めの甘さに助けられたのかもしれないな。次は我が身とならないよう、肝に銘じておくよ。ありがとうな」


 島津宗家の内部事情がこの大事な場面で影響をした。そんな所だろうか。


 土佐一国を支配下に置いているというのに、今回当家が動かせた兵の数は五〇〇〇と少ない。史実の長宗我部家なら平気で二万は動員していたのだから、かなりの差があるのが分かる。しかし兵数こそ少ないが、当家の兵には専業化している強みがある。日頃の鍛錬により統一された行動ができるというのもあるが、何よりも軍曹や曹長といった下士官的な役割をこなせる将が豊富にいるというのが特徴だ。それも武家だけではなく、前職が農民であろうと、職人であろうと、僧侶であろうとお構いなく領内から広く人材を募る節操の無さだからこそ、成し得た成果と言えるだろう。


 下士官とは、兵士と士官との間を取り持つ現場の中間管理職的な存在だ。中間管理職と言えば現代日本では良い印象を持たれていないが、これが軍になれば非常に重要な役割を持つ。勿論、指揮官を軽視するつもりはない。これも大事な要素だ。とは言え、軍では下士官がしっかりしていなければ、笛吹けど踊らずという事態がまま起こり得る。


 そう、兵の精強さであったり効率的な動きができるかどうかは、下士官の働きによる所が大きい。これは、ただ兵を鍛錬するだけでは得られないものだ。良い下士官を得るには、きちんとした教育を行わなければならない。


 やはり元津野家筆頭家老の中平 元忠は拾い物であった。土佐一条家と長年渡り合い、尚且つ俺も悩まされた精鋭部隊を作り上げた手腕は本物である。経験則でありながらも、中平 元忠は精鋭部隊を作り上げるノウハウを持っていた。


 ただ腕力が強いだけの部隊では、土佐一条家には渡り合えない。局地的には勝利をもぎ取れたとしても、長年侵攻を食い止めるのは無理だ。数の暴力に押し潰されるのが見えている。それを成し得たという意味は、武勇だけに頼らない人材を育成できたからに他ならない。それが下士官の養成へと繋がる。


 つまり中平 元忠の加入によって、当家の軍の精度は大きく上がっていた。


 翻って島津宗家はどうだ。急造で掻き集められた兵に指揮命令系統が曖昧な部隊。ましてや寄り合い所帯となれば、意思を統一させるだけでも困難となる。勝っている時は嵩にかかって攻められるが、一転不利な状況となると一部を除き支えられない。督戦をする者がいるとしても、数が少なければ大事な時には役に立たないだろう。


 最終的には組織の差が当家に後れを取った理由となる。見え辛い点とは言え、ままならないものだ。


 既に半壊状態となった敵に追い打ちを掛けるような真似は気が咎めるものの、これも戦国の習いである。速やかに引導を渡すのが逆に苦しめないと考え、俺を含めた直属部隊も渡河を行って攻撃に参加した。


「安岡 虎頼と有沢 重貞、滅多に無い機会だ。派手に暴れてこい。但し、深追いはするなよ」


『はっ。ありがとうございまする』


「国虎様、直属部隊をここで動かしてしまって大丈夫なのですか?」


「たまには手柄を立てさせてやらないとな。皆、普段は俺の御守しかできないのだから、こういう時くらい良いだろう。護衛は直昌がいるから大丈夫だ。期待しているぞ」


「理解致しました。お任せください」


 こうして南九州を巻き込んだ戦いも終息に向かう。最早敵に軍としての体は見る影もなく、我先にと逃げ出す始末であった。終わってみれば、随分と呆気ない幕切れである。


 懸案であった伏兵も、兵自体が散り散りになってしまえば何の役にも立たない。例え罠が張ってあったとしても、そこに当家の兵を誘導できなければ機能しないという残念な結果となった。


 念のために伏兵を燻り出そうと疑わしい場所に焙烙玉を投げ込ませたが、釣られて姿を現した兵の数は少ない。今回は疑似ではなく本気で逃げ去ったのだと理解する。驚いたのは、その少数の伏兵の武装に種子島銃が配備されていた点であろうか。狙いは草むらに隠れての狙撃だったのだろう。失敗に終わったにせよ、このような二段構えの策を見せられると、改めて島津宗家の恐ろしさを感じてしまった。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



「えっ!? 今さら島津宗家が降伏と言ってきたのか?」


「はっ。領地も資産も全て差し出すという話です。その代わりとして、身の安全を保障して欲しいと。どうされますか?」


「当家との戦に負けて、求心力が一気に低下したのか。どうやら、いつ味方に裏切られて寝首を掻かれるか分からない状況にまで追い込まれたようだな。個人的には見捨てたいが、ここで話の通じない当主だと勘違いされ、豊後大友家への心証を悪くはしたくない。悔しいがその申し出を受けるしかないな。ただ、当主の島津 貴久には責任を取らせると伝えてくれ」


 島津宗家との決戦に勝利し、本拠地へと追い返した五日後に降伏の使者がやって来る。こちらが与えた壊滅的な損害によって、最早立て直しはできないと判断したのだろう。散り散りとなって逃げた敵兵も、合流をせずにそのまま各村に戻ったという所か。


 兵そのものが揃わなければ、徹底抗戦を行おうにも無駄となる。ましてやその状況で連合した領主達が一致団結できるだろうか。それならば当家が攻め寄せる前に降伏を選択するというのは、合理的な判断とも言えよう。


 自分だけは助かりたいと島津宗家を見限った者が出始めている。そんな事情が透けて見えた。


 これまでが一体何だったのかと思うような変わり身であるが、頭の切れる者は見切りも早い。下手にずるずると時間を引き延ばして最悪の結果を迎えるよりも、まだ傷の浅い内に家の存続に舵を切ったのだと思われる。


「今お聞きになられた通り、島津宗家は降伏致しました。先程までとは前提が変わりましたので、もう薩州家に拘る必要はありません。ですので島津 実久しまづさねひさ殿、好きな方をお選びください。当家の者を養子として受け入れ、薩州家がこの地で生き残るか。もしくは薩州家は追放。島津宗家がこの地で残るかです」


「養子を受け入れろ? それは薩州家の乗っ取りであろう。何ゆえその様な話を受け入れねばならぬのだ」


「こちらとしては大隅国、薩摩国を統治する権威として島津の名前を使いたいだけですので。分かりました。でしたら養子の話は島津宗家に受け入れてもらい、薩州家には滅亡してもらいましょう。残念ですね。薩州家にはこの地で島津の本家として名を残してもらおうと考えていたのですが、拒否されるというなら致し方ありません」


「ま、待て、受けぬとは言っていない。今の話では養子を受け入れてしまえば用済みとなり、儂も子達も殺されるのではないかと勘違いしただけだ。儂と子達の命と生活の保障をしてくれ。所領は捨扶持で構わぬ。それならば話を受けよう」


「それは失礼しました。身の安全は保障しますので安心ください。生活の方も不自由はさせないと約束しましょう。但し、銭払いとなりますが、それでもこれまでよりは良い生活ができるとは思われます」


「分かった。それで受けよう。元より戦に負けた身だ。これ以上の贅沢は言うまい」


 もう一つ島津宗家が降伏を言ってきた理由を挙げるなら、先だっての姶良の戦いでの勝利の余勢を駆って、電撃的に渋谷一族や蒲生家、菱刈家だけではなく薩州島津家の城までをも接収した点だろうか。


 それによって薩州島津家の当主である島津 実久の身柄を押さえた。結果として軍事的な優位は勿論、統治における正統性まで当家が確保した形となる。島津宗家は自身が逆賊とされてしまうのを恐れたのではと考える。


 事実、こうして島津 実久はこちらの乗っ取り策にも渋々ながら受け入れた。今回は先に島津宗家の降伏の報せが来たために駆け引きに使わさせてもらったが、それが無くとも幽閉や拷問、最悪命を奪ってしまえば家の乗っ取りはできる。それ位相手にはお見通しだった。そんな所だろう。


 今更ではあるが、今回の包囲網に於いて島津宗家にとって誤算だったのは肥後相良家の行動ではないか。そう感じる。津田 算長からの報告では、 兵の派遣が想像以上に消極的だったそうだ。そのため簡単に撃退できたという。


 もしこれが大軍を率いての積極的な南下であったなら、俺達は姶良の戦いに集中できなかった。結果はまた違ったものとなっていただろう。


 だが現実には肥後相良家は、大軍を率いてこなかった。これによって肥後国との国境を封鎖した津田 算長は、周辺の城を攻略して万全の防衛態勢を整えられたという話である。


 思えば島津宗家の要望に応えて肥後相良家が兵を出したのは、義理でしかなかったのだろう。どうやら現在の肥後相良家は、豊後大友家 当主である大友 義鎮の叔父の菊池 義武きくちよしたけを形式上元君主として迎え入れ、豊後大友家の支配から脱却しようとしているらしい。


 つまり自分達の事情で精一杯となっており、他に構う余裕は無い。この南九州全体を巻き込んだ戦乱は、肥後相良家にとって対岸の火事程度の意識であると思われる。


 どう考えても優先順位を間違えているような気がするが、これも全ては菊池 義武という人物の重要度にある。この人物は簡単に言えば、大友 義鎮にとって絶対に生かしてはおけない不倶戴天の天敵だ。そんな人物を匿っているのだから、この時期の肥後相良家は豊後大友家対策が最重要として位置付けられるのだろう。


 この点においても島津宗家は読みが甘かった。一見完璧と思える策も、いざ蓋を開けると粗は多くあるのだと感じてしまう。俺が逆転の一手を打てたのもある意味必然だったのかもしれない。


 何にせよ、島津宗家との戦いはこれで終わりだ。まだ薩摩国の完全平定には幾つかの障害があるとは言え、残りは烏合の衆でしかない。当家の家臣はまだ暴れ足りないだろうから、うっ憤をぶつけるには丁度良い存在となろう。ここからは政の領域となる。いつも通り、既得権益を主張する領主は全滅させるのが確定であった。


 さてそれでは、今回俺達を散々に苦しめてくれた島津の顔を見に行くとしよう。

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