第16話 裏表の乃々花
「あの、いきなりすみません。今日のことなんですけど……乃々花さんの残業にお付き合いしてもよろしいですか……?」
彼女にこんな声をかけたのは、仕事の合間にスタッフルームで偶然顔を合わせた時。
今日の残業練習は彼女になっていると知っての声かけ。
夜中、父親から電話で言われたことを修斗はしっかり実行していたのだ。
『まあ、いろいろあるだろうが彼女のことはよくしてやってくれ。練習に付き合ってくれてるなら逆に練習に付き合ってあげるとかな』
『れ、練習に?』
『そのくらいしか関われる時間はないだろう?』
もちろん、勇気を振り絞ってである。
「っ、どうして修斗くんが付き合うの? 付き合う方は残業代も出ないけど」
「そ、それは……その……」
いきなりの誘いに疑問が浮かぶのも当然だろう。
オレンジ色のポニーテールを揺らすように首を傾け、整った眉を八の字にしている乃々花。
「普段から練習に付き合ってもらっているので、自分もお付き合いできたらなと思いまして」
「そんなことしなくていいよ。わたしは見返りを求めて残業に付き合っているわけじゃないから」
『何か勘違いしていない?』と言わんばかりに表情を曇らせる彼女を見るだけで、冷や汗が流れてくる。
「み、見返りを求めていないことはわかっています! 自分のためにもなるのですが、観察することも勉強になりますので!」
「……」
「……」
途端、無言が生まれる。
もし別のスタッフが同じセリフを乃々花にかけていれば、ここまで追及されることはないだろう。
きっとこう返されることだろう。
『もー、しょうがないなあ。うん! いいよっ』
と、優しく微笑みながらの即答を。
それは普段の態度から断言できること。
「の、乃々花さん……?」
相手の反応を窺う修斗がジワジワと苦渋の表情を作り上げていくと、ようやく返事がきた。
「その言い分はわかったけど、わたしの練習に付き合っても参考にならないんじゃない? 君は髪スマの二つ星受賞者なんだから」
「そんなことはないですよ。見て学ぶことはたくさんあります」
「本当に? わたしの練習で?」
「はい。乃々花さんお店での評判も一位二位を争っているほどですから」
「なら……いいけど。君の好きにしていいよ」
「ありがとうございます」
険しい顔をしながらも、なんとか許可を取ることができた。
彼女と二人で残業。それはとても恐ろしい時間。できる限り避けたい思いがあるが、今の仕事環境を緩和するためは仕方がないこと。
寿命を縮める勢いで前に進むしかない。
「じゃあ店長にはわたしの方から言っておくから」
「いえ、お願いしたのは自分ですから」
「平気。わたしが報告するよ」
「す、すみません。ではお言葉に甘えます」
「ん」
『先輩だから』なんて強い意志に負けてしまう。
もっと正確に言えば粘れば粘るほど不機嫌そうになる顔を見たからでもある。
(乃々花さん、ちゃんと伝えてくれるかな……。なにか変なことを言われたりしないかな……)
こんな不安が募っていくが、今までの態度を見てば当たり前の思考である。
「……」
「……」
そして、本題が終わると会話が止まってしまう。
気まずさが溢れ、このスタッフルームに居づらくなったのはお互い様。
(なにか空気を変えるような話題……話題……)
急いで頭を回転させた矢先、乃々花は視線を泳がしながら先に口を開いた。
「じ、じゃあわたしは次のお客さんが控えてるから」
「あっ、はい。わかりました」
「ん。閉店後にまた」
「はい! よろしくお願いします」
話題の提供ではなく、別れの促しを。
思考の違いにショックを受けながらも、なんとか笑顔を作る修斗はスタッフルームから去っていく乃々花を見送る。
『ガチャン』とドアが閉まり、彼女の姿が見えなくなると、引き攣った顔を元に戻す。
「はあ。こんな調子で残業時間を耐えられるのかな……。気まずさに耐えられるのかな……」
半ば勢いのままに誘ったことだが、今さらになって後悔が溢れ出す。心から悲鳴が上がっている。
「と、とりあえず頑張らないとな。俺から誘ったことだし、父さんもなにか原因を知ってるみたいだったし……」
言葉にならないモヤモヤが襲ってくる。
「こんな調子なんだから教えてくれてほしいんだけどな……」
ボソリと呟きながら天井を見上げる修斗。
父親が心当たりを教えなかったのは、意地悪なんかではなく、それ相応の理由があるから。
それに気づく時が刻々と近づいてきていることを本人は知る由もない。
∮ ∮ ∮ ∮
「店長店長っ! 聞いてくださいっ」
「ど、どうしたの? 乃々花ちゃん」
シャルティエの閉店前。
すでに仕事は終わった数人の美容師が休憩する中、乃々花は嬉しそうに店長に報告をするのだ。
「今日ですね、修斗くんがわたしの練習に付き合ってくれることになったんです!!」
「おー。って、それもう三回目だよ。聞いたの」
嬉しそうに目をキラキラ輝かせ、尻尾をブンブン振るように報告をする彼女に対し、冷静なツッコミを入れる店長だった。
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