ばかものな私たち

浦科 希穂

佐藤 圭吾(27歳・フリーター)

 都心から電車で40分、最寄り駅からは徒歩20分という、驚くほど利便性の悪い場所に建っているこのボロアパートの202号室に俺は暮らしている。

 風呂無し、共同のトイレとキッチン、そして回せばガタガタと悲鳴を上げる二層式洗濯機が一つ。

 1階にあるさびだらけのキッチンに至っては、誰も使っているところを見た事がない。というか、そもそもこのアパートで人とすれ違ったことがない。

 だから、他の住人がどんな人物で何をしているのかなどは知る由もなかった。

 ただ、夜中にきしむ階段の音や、ギーギーと五月蠅うるさい扉の開閉音で、辛うじて住人が居る事だけは知っている。


「では、次のコーナーです。前回募集いたしました、皆さまの夢をご紹介して参りましょう」

「たくさんお便りが来ていましたね。皆様、誠にありがとうございます!」

 四畳半の狭い部屋に、陽気なラジオMCたちの声が響き渡る。

 加えて、開け放した窓から飛び込んでくる蝉たちの一生の叫び声も合わさって、随分と騒がしい空間がそこにはあった。

 夢ねぇ。

 俺はラジオを聞きながら呆れたように鼻を鳴らした。

 人気YouTuber、歌い手、ボカロP、インフルエンサー、中には投資で金持ちになりたいなんてのもあって、俺たちが子供の頃にいだいていた夢とは随分とラインナップが変わったようだった。

「皆さまそれぞれとっても素敵な夢をお持ちですね」なんて、ラジオの向こう側で両手を合わせて首をかたむけているのが想像できるような、女特有の何とも言えない声が聞こえる。

 素敵か? 本当にそう思っているのだろうか、他人の夢をそんな簡単に理解出来るはずもないだろうに、易々やすやすと言ってのけるのはいい給料を貰っているからだろうか。

 それにしても、どうやら今回はラジオネーム「恋するうさぎちゃん」はお葉書を送っていないらしい。いや、そもそも、今の時代に葉書なんぞは送らないか……。

 しかしまあ、夢などというものをよくもそんなに華々はなばなしく語れるものだ。

 俺はため息をいて、背からバタンと色褪せた畳に倒れ込んだ。

 木造のささくれ立った、シミだらけの天井を見つめる。

 住人の誰かがベランダに取り付けたであろうと思われる、趣味の悪い風鈴がカラン、コロンと鳴っている。

 このうだるような真夏日に硝子ガラスがかち合う透明な音は、どこか非現実的で、それでいて何とも文化的だった。

 音で涼をとるとはよく言ったものだが、俺にとってみれば不規則に奏でられるその音色がどうにも耳障りで不快だった。

 不思議なもので、昨晩は暗がりの中で自らを主張し続ける秒針の規則正しい音が腹立たしかったというのに、今度は風鈴の不規則な音が腹立たしいときた。

 全く、酷い話である。――結局のところ、何もかもが気に入らないのだ。

 自分は大音量でラジオを垂れ流しているというのに、澄んで芸術的に美しいはずの風鈴の音色には嫌悪をいだくのだ。

 嫌悪を抱かなければならないのは、親の金で入った大学を活かしきれず、就活という名の戦場から早々に逃げ出した俺自身のはずだろうに。

 俺はもう一度、大きなため息をいた。

 せめてこうして、二酸化炭素を多く吐き出して植物とやらの役には立ってやろうと思う。……いいや、吐く息に二酸化炭素などほんの数パーセントしか含まれていないのを知っている。

 呼吸すらも誰の何の役にも立っていないのだ。

 呆れを通り越して「無」だけが俺の隣に居座っている。

 ふと、頬に風を感じたと同時に、とっくに時の止まったカレンダーがふわりと揺れた。

 無意味なカレンダー、無意味なラジオ、無意味な風鈴の音色。

 俺は苛立たしげに目を閉じて、それら全てをシャットアウトした。


 いつの間にか眠ってしまったらしい、ラジオは夕方の交通情報を伝えている。

 俺は起き上がって、ポリポリと頭をかいた。

 窓の外ではツクツクボウシやアブラゼミの大合唱から、ヒグラシの物悲しい鳴き声に代わっていた。

 いつからだろうか。夕暮れ時のヒグラシの声を聞いても、さっぱり故郷を思い出さなくなったのは。

 四方を山で囲まれた大自然の風景が広がる故郷。誰がどう見たって田舎だと答えるであろうと思われるあの場所で、今もヒグラシは鳴いているのだろうか。

 疑問に思ったところで、上京してから一度も帰ってないのだから分かるはずもない。

 俺は何気なく窓の外に目をやった。

 あんなに輝いて見えた東京は今やすっかり色褪せ、疲れ顔の労働者たちを収監するコンクリートの大きな檻にしか見えなくなっていた。

 いさいどむようにして出てきたあの頃の気持ちは、もうとっくに萎えしぼんでしまったのだ。

 今思えば、それこそ田舎者しかいだかない感情だろうに、俺は輝かしい夢が多分に詰まった都会にやってきたのだ、と勘違いしていたように思う。

 ふと、昼間に聞いたラジオMCたちの陽気な声が頭の中でこだました。

 夢とは何だろうな。あれやこれやとしたい事ばかりが頭に浮かぶ。

 けれども、いまだにそれらを何一つとして実現出来ずにいる。

 そればかりか、手のひらからサラサラとこぼれ落ちていったものが何だったのか、もう俺には分からない。

 以前の俺ならば、この惨めさや焦燥感、孤独に涙したかもしれない。

 今はどうだ、涙すらも出やしない。なんとも枯れた人生だ。

 人生……。

 以前、ラジオで人生相談室なるものの特集が組まれていた。そこでは、リスナーの悩み相談の後、それを乗り越えた大物アーティストの体験談とアドバイスがつづられていた。

 俺はそれを聞いた時、身の毛がよだつ思いをしたのを覚えている。

 成功者の努力話ほど、殺傷能力のあるものは無い。

 なぜか?――持っていないのだ。

 日々磨き上げられたその鋭利なやいばに対抗できるほどの盾を自分は何一つ持っていない。

 言うならば、自ら心臓を差し出して、さあ、刺して下さいと頭を下げなければならない惨めさしか持ち合わせていないのだ。

 それは、恐ろしい程の羞恥心と劣等感という名の傷を敗者に残すのだ。

 世の中には、そんな者たちで溢れている。高い壁の上に座りながら可笑おかしそうにこちらを見下ろすあの目が俺は怖くて仕方なかった。

 俺はそんな目からのがれるようにして、この部屋に逃げ込んだのだ。


 外から視線を反らすように前を向くと、引っ越してきてから壁にかけっぱなしになっているカレンダーに目が止まった。

 俺はゆっくりと立ち上がると、雑にカレンダーの下っ端を握った。そして、今日の日付までを一気に引きちぎった。

 要らなくなった過ぎた日々を、ぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。

 それは綺麗な放物線を描いてゴミ箱の縁に当たり、何度か跳ねた後、いっそう遠くへと転がった。

――ああ、俺だ。

 いびつに丸まったそれを見てそう思った。結局、縁に当たってそこら辺に転がっているのが俺の人生だ。

 何故か妙に腑に落ちてしまい俺は笑った。

 まあいいさ。さて、銭湯に向かおう。

 頭にはタオルの兜を巻いて、丸い桶を盾にして、武器は何がいいかな。

 そうだな……煙草を一本たずさえよう。

 燃えて無くなりゃおんだ。

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