11.二次会は美術館へ

 パーティは、何事も無く終わった。食べては飲み、食べたものへの讃辞で埋め尽くされた感想を述べて、また食べては他愛も無い話をして笑い合う。もしかしたらそれは、菫の人生で、一番楽しい瞬間だったのかもしれない。

 自分の運命をほんの少しだけ動かした喫茶店で、いまや母より心を許せる店長と、そして、美しく着飾った初恋の人と同じ時を過ごす。苦しみはやがて薄れ、足が浮くような心地よささえ菫は感じていた。

 楽しかった。そして、楽しさに舞い上がらないわけが無かった。


「――ねえ、如月さん。明日休みだし……二次会に行かない?」


 パーティの後片付けを三人で済ませ、『忍冬』の外に出たところで、出し抜けに藤子が言った。菫は驚いて、固まってしまう。嫌だというわけではない。素直に嬉しい。

 だが、もしいまの藤子と並んで歩いたら、自分はどうなっていまうだろう?

 噂はされないだろうか。噂の火種になるようなことを、自らしでかさないだろうか。不安は山のようにある。

 どうすればいい? 簡単なことだ。受験勉強がありますから――そう言って帰ればいいだけだ。けど――

(本当にいいの?)

 自分の声が煩わしい。煩わしく感じるのは、心の中でせめぎ合う声たちの中のどれよりも、その声が大きく聞こえるからだ。

(最後なのに、本当に、いいの?)

 最後。最後という言葉が、まるで巨大な鐘を打ち鳴らしたように脳裏で響く。高校生最後のクリスマス。来年になれば自分は大学に通うことになる。進路は、もう決まっていた。一般的な、四年制大学に入る。部活動としてコンクールに作品を出す、美術サークルがあることも確認した大学だ。

 そこに行ってしまえば、いままでのように顔を合わせることはなくなる。連絡先は交換しているし、『忍冬』で会うこともあるだろうけれど。毎日のように会うことはできなくなるのだ。

(きっとこれが、最後の思い出になる……)

 ここから先は本格的な受験シーズンだ。受験生である菫はもちろんのこと、生徒の進路を支援する立場の藤子も、いままで以上に忙しくなるだろう。噂話を抜きにしても、こうして二人で出歩くことはできなくなるだろう。

(最後に一度だけ……なら)

 その思い出だけを持って、卒業したい。それぐらい許されたっていいだろう。

「……あの、五月雨先生……二次会、行きます」

「本当!? ありがとう!」

 どうしてお礼を言われているのだろう。菫は思わず笑ってしまった。一つ笑うと、長々と思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく感じられた。



 二次会の行き先は、商店街からやや外れたところにある、美術館だった。時刻はちょうど午後七時になる頃で、だいたいの美術館は基本的に閉まっている時間帯だった。

 しかし、藤子が連れてきた美術館は、煌々と明かりを灯していた。

「如月さんは知ってると思うけど、クリスマス期間中は遅くまで開いてるんだって。現代の宗教画の特別展が組まれてるんだけど……もう見た?」

「いえ。特別展示が入れ替わってからは、初めてです」

 嘘だった。クリスマス特別展が始まってすぐ、菫は一人でこの美術館に来ていた。嘘を吐いたのは、藤子と一緒にこの美術館を見て回る、理由がほしかったからだ。――二回目だと言って藤子を案内することができると菫が気づいたのは、帰宅してからだいぶ経った後だった。

「よかった。じゃあ入りましょうか」

 藤子はほっとしたように笑って言う。そして、自分で払うと菫が言っているのに、二人分の入館料を自分の財布から出して、受け付けにあるパンフレットを二枚取った。菫はそれを受け取り、眺める振りをする。藤子の方はというと、真剣にパンフレットを見ているようで、菫がその横顔を見つめても、数十秒は気づかなかった。

「……あっ、ごめんなさい。つい長々と見ちゃって……」

「いえ。もっとじっくり見ても大丈夫ですよ」

 私も見ますから、と菫が言い添えれば、藤子は頷いて、

「でも、如月さんとすぐに絵が見たくなったから……行こう?」

 と言った。菫は頷く。そして、どちらからともなく、館の奥へと向かっていった。

 室内は、一般的な美術館同様、いやそれ以上に照明が絞られていた。絵の周囲にだけ、絵を照らすライトが置かれている。通路を照らすライトの光は決して強い光ではなく、しかもステンドグラスのシェードを通していた。

 ぼんやりとした、赤や白、青や緑の光が照らす道を、ゆっくりと歩き、そして絵の前で立ち止まる。展示されている絵は現代美術で、特殊な魔法薬を混ぜ込んで描かれた絵画が多くあった。動画のように動く絵、ぼんやりと発光する絵、立体的に見える絵――。

 展示された絵の描き手は一人だけではない。

 現代宗教画の筆頭に挙げられる、スペインの画家パース・ムルシア。

 ここ一年で頭角を露わにした、ロシアの新星エカテリーナ・サガノヴァ。

 日本画と西洋宗教画の融合を試みた、美島雪。

 いずれも勝るとも劣らない――いや、優劣を付けるのも愚かしい、それぞれの特色を露わにしている。二回目だというのに、菫はその技巧に、そしてそれ以上に、そこに込められた想いに圧倒された。

 その絵には、祈りがあった。

 痛切な祈りだ。友や恋人、家族を失った、その痛みが絵の表層にくっきりと現れていた。抑えがたい心の痛み。やり場のない『災害』への怒り。どれほど涙を流しても流れ去ることのない悲しみ。精緻な筆致で、荒々しい色使いで。誰もが訴えている。

「……すごい」

 横でぽつりと藤子が呟く。菫は、絵から藤子へと顔を向けた。

 途端、自分でも思いがけないほどの情動が、胸の奥底からうねりながら顔を出そうとした。

 菫はとっさに手で口を押さえた。そうしなければ、口から言葉が出そうだった。あるいは、手を伸ばしてしまいそうだった。

 藤子から目をそらす。眼前にある絵を見たが、先ほどのような感慨は湧かない。藤子への感情で、心が満たされている。決して良い気分とは言えない。

 その感情は、嫉妬だった。

 滑稽だと菫は気づいてすぐに思った。ここに居並ぶ現代の巨匠に、彼女たちが描いた絵に自分は嫉妬している。自分の絵がここに並んでいれば、藤子はその熱意に満ちた眼差しを注いでくれていたかもしれない――そんなどうしようもないことを思う。自分にはまだ、その実力も、彼らほどの祈りも無いのに。

 ――いや。感情だけでならきっと誰にも負けないものがあるだろう。

 そして、その感情のままに描いた絵もある。いまでも幾度も見返す。そして、見返す度に思うのだ。自分で、あれは傑作だと。

 藤子の絵は、あれから、描いていない。気分転換代わりに、イーゼルを抱えて外に出て風景画を描いたことはあるが、自分でも大したものではない絵だと感じられるものしか描けなかった。

 ――もしいま、藤子の絵を描いたら。いまの藤子をそのまま描いたら、きっとまた傑作が描けるだろう。それこそ、ここに並ぶ絵と遜色の無いものが。けれど、そんな絵が描けたところで、ここにある絵と並ぶことは無いだろう。切なる祈りを天使に託し、天へと昇華させんとする、そんな清浄な絵と、自分の絵は違う。

「ねえ、如月さん」

 なのに、藤子は言うのだ。純粋そうな口振りで。

「如月さんの絵も、いつかこうして、飾られる……それを私、きっと見に来るわ」

 菫は何も言えなかった。ただ曖昧に笑って、うつむくことしかできない。見られたくなかった。けれど、見たいと言う藤子を否定したり、拒絶したりしたくなかった。

 重い足取りで、しかし早歩きで、菫は次の絵へと向かった。空を見上げる天使の、その背後から後光が差している。後光には、魔法がかけられているのだろう。その黄金を表す薄黄色の絵の具は、真珠の貝の内側のような、微かな虹色の光を帯びていた。

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