第37話:ガゼリア山脈の魔獣 1

 イーライに止められながらも遅くまで調合を続けていた明日香だったが、翌日はいつもの時間に目を覚ましていた。

 まだ眠たいという気持ちは当然あったが、大型の魔獣が迫ってきているかもしれないと考えると目が冴えてしまったのだ。

 井戸の水で顔を洗おうと裏口から外に出ると、素振りをする音が聞こえてきて視線を向ける。


「――ふっ! ふっ!」


 上半身裸のイーライが大粒の汗を額や体に浮かべながら、重そうな剣を振っている。

 腕が振り下ろされるたびに汗が飛び散り、上半身の筋肉が引き締まる。

 ただし、男性の上半身裸の姿など父親以外で見た事のなかった明日香は、赤面しながら早足で井戸の方へ向かう。

 しかし、明日香の姿を見つけたイーライは素振りを止めると、汗を拭いながら近づいてきた。


「おはよう。今日も早いな、大丈夫か?」

「ふえ? あ、うん、だ、大丈夫だよ!」

「……どうした? なんか、変だぞ?」

「そ、そうかなー! あははー!」


 急いで井戸水を汲み上げ、冷たい水で顔を洗う。

 筋肉質なイーライの体を見たせいですでに頭は覚醒しているのだが、目の前の現実から目を逸らせるために何度も顔を洗っていた。


「……洗い過ぎだろう? 汗を流したいから、俺も使っていいか?」

「ふえぇぇ? わ、分かった、どどどど、どうぞ!」


 桶を渡すために顔を上げた明日香。そこで初めて彼女が赤面している事に気づいたイーライは、自分の姿を改めて見ると納得するのと同時に申し訳なさが込み上げてきた。


「あー……すまん。騎士団の感覚で素振りをしていた」

「う、ううん! 大丈夫だから! 目の保養……じゃなくて! こっちの問題だから!」


 嬉しいやら恥ずかしいやら、何を口走っているのか理解できず、慌てて言い直しながら桶を押し付けると、先ほどの早足以上の速さで道具屋に戻ってしまった。


「……やってしまったなぁ」


 その場に残されたイーライは、頭をガシガシと強く掻きながら、ぬるくなった水を頭から被って汗を流したのだった。


 台所ではジジが朝食を準備していたのだが、赤面した明日香が戻ってくると首を傾げていた。


「……どうしたのですか、アスカさん?」

「な、なんでもありません! 何かお手伝いはありますか!」

「いいえ、もう準備できましたよ」

「私がテーブルに並べますね!」


 出来上がった料理が載ったお皿を手に持つと、裏口が開かれてイーライが入ってくる。

 すでに洋服を着ているものの、どうしても上半身裸の姿が思い出されてしまい、明日香はイーライの姿を見る事ができない。

 一方でイーライも申し訳なさが強過ぎて視線を逸らし、そそくさと椅子に腰掛けてしまった。

 二人の姿にやはり首を傾げてしまうジジだったが、料理が冷めてしまうのももったいないと食事を始める事にした。


「ジジさん。作ったポーションはいつ冒険者ギルドに納品するんですか?」

「魔獣は待ってはくれないので、食事の後にはすぐに向かおうと思います」

「なら、俺も手伝います」


 食事中の会話からいつもの調子を取り戻していくと、二人ともお互いの顔を見られるようになっていく。

 大型魔獣が迫ってきているとはいえ、この時だけは普段通りの時間を過ごせる――そう思っていたのだが。


 ――ドンドンドンッ!


 道具屋の入口の扉が強く叩かれた。

 三人で顔を見合わせると、イーライが素早く立ち上がり入口へ向かう。

 その手は剣の柄を握っており、強盗などもしもの時にも対応できる体勢を整えている。

 しかし、窓の隙間から見えた人物を確認すると、イーライはすぐに扉を開けた。


「し、失礼いたします、イーライ様!」

「お前、魔獣の討伐はどうしたんだ?」


 扉の前に立っていた人物は王城で初めて会ったイーライと同じ騎士団の鎧を身に付けている。

 イーライが普段の口調で話しているところからも、彼が騎士団の人間である事は間違いない。

 ただし、イーライが口にした通り魔獣討伐に向かっているはずの騎士団の人間が、どうしてこの場にいるのかという謎は残されてしまう。

 そんなイーライの疑問に、若手騎士はすぐに答えてくれた。


「ゆ、勇者様たちが、単独でガゼリア山脈へ向かってしまいました!」

「「…………はああぁぁぁぁ!?」」


 若手騎士の言葉にはイーライだけではなく、明日香も驚きの声をあげてしまう。


「ど、どうしてそうなったんだ! 門番はどうした!」

「勇者様たちは門番を気絶させて、誰にも告げずに向かってしまったようなのです!」

「な、何をやっているんだ、勇者様は!」


 イーライは明日香の護衛として過ごしている時間が多く、岳人たちとの接点が少ない。そのせいもあり、彼らの人となりを把握できていなかった。

 だが、若手騎士は訓練の中で岳人たちの事を何度も目にしている。彼らが身勝手であり、アルにこれでもかと迷惑を掛けている事も知っていた。


「……どうして、あんな奴らが勇者なんでしょうか。召喚者って、何なんですか!」


 召喚者と一括りにされてしまい、明日香は胸の奥がズキンと痛んだ。

 自分と岳人たちは違うのだと本人は分かっているものの、それを他者が分かるはずもない。

 特に別世界の人間が相手であれば、自分の価値観が通じないと思われても仕方がなかった。


「……あいつらはあいつらだろう。召喚者が全員同じだと思わないように」

「で、ですが――」

「俺もお前も違うだろう! ……人は一人ひとり違うんだ、いいな?」

「……はい」


 明日香が苦しそうな表情を浮かべている事に気づいたイーライは若手騎士を怒鳴りつけ、遠回しに明日香は違うのだと彼女にも告げている。

 イーライの気遣いに明日香は嬉しくなり、少しだけ顔を上げる事ができた。


「それで、お前はどうしてここにいるんだ?」

「は、はい! 実は、勇者様たちが勝手にガゼリア山脈へ向かったせいもあり、彼らの世話を任されている殿下も向かう事になり、バーグマン様も同行する事となりました!」

「なあっ!? そ、それは本当なのか!」

「……アル様に、リヒト様も?」


 イーライが声を荒げて、明日香は呟くように驚きの声を漏らす。


「お二人はイーライ様には黙っているようにと仰っていたのですが、騎士団長の指示で私はお伝えに参りました!」

「……騎士団長が?」

「はい! では、確かにお伝えいたしました! 私も急ぎ、ガゼリア山脈へ向かいます!」


 早口で情報を伝えた若手騎士は一度頭を下げると、その場から離れていった。

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