第15話 涙
「ん……っ」
意識が浮上する。目蓋を持ち上げるとぼんやりとしていて視点が定まらない。
(ここはどこだろう)
なんとなく私室であるような気がするが、まだ焦点が合わず花琳は確信が持てなかった。
動こうにも全身が重く、まるで自分の身体ではないみたいに身動きが取れない。
声を出そうと口を開くもただ息や無意味な音
が出るのみで、声は擦れて痛みを伴うため、短い単語すら喋れそうにもなかった。
(でも生きてる)
痛みを感じて生きていることを実感する。あのとき、花琳は余暉の言葉に抗い死ぬことを選択することもできた。
この痛みや苦しみから逃れるために何が何でも余暉の言葉を拒絶し、全て放棄することもできた。
でもこうして今生きていることを実感し、安堵している自分がいる。
つらくて苦しくても、生きていれば何かができるかもしれない。いや、しなくてはならないのだという気持ちになってくる。
(それに、何もしないままだったらまた兄さまに追い返されてしまうものね)
狡くて、卑怯で、意地悪な人だけど、何よりも自分のことを慮ってくれる大事な人。唯一の兄弟。
その兄の期待があるからこそ、自分は頑張れるのだと実感する。
それともう一つ。
花琳にとって心残りと言えば、もう一人の大切な存在がいた。
「花琳!」
ばしゃん、と運んでいたらしい水が入った湯呑みが大きな音を立てて落ちる。
私がゆっくりとそちらを向くと、今まで見たことないようなグチャグチャな表情をした峰葵がそこにいた。そして、ガバッと力強く抱きしめられる。
痛くて苦しかったものの、彼の顔を見たら抗う気にはなれず、されるがまま峰葵に抱きしめられていた。
(せっかくの美丈夫が台無しね)
顔を真っ赤にして堪えるように涙を溢す峰葵。心配してくれたのだろうか、と花琳は不謹慎ながら嬉しくなる。
きっと秋王としての自分を失いたくなかったのだとわかっていても、こうして峰葵が態度で示してくれるのは滅多になかったため、密かに彼に焦がれている身としては嬉しくて仕方がなかった。
「……ほ……き……っ……」
「いい。無理して話すな。あぁ、よかった……本当によかった……っ」
花琳の肩に顔を埋めて静かに涙を流す峰葵。花琳はそんな彼の頭を撫でたくなったが、身動きができずもどかしい。
もう大丈夫だよ、と言ってあげたかったが、傷んだ喉はそんな言葉さえも出すことを許してくれず、ただ口を開けたり閉じたりすることしかできない自分が悔しかった。
「今、医師を呼んでくる。ちょっと待っていろ」
「……ぁ……っ」
行ってしまう、と思った瞬間に漏れ出る、微かな声。
素直に寂しいと思ってたら勝手に出ていた声とそんな感情を吐露してしまった自分に動揺する。
「どうした、行ってほしくないのか? ……一人が寂しいのか?」
尋ねられて素直に頷くことができず、視線が泳ぐ。そのまま反応できずにいると、峰葵にまっすぐ見つめられて呼吸の仕方を忘れる。
なんだか気まずくて苦しくて、とうとうその視線に我慢できずに花琳は小さく頷くと、ふっと峰葵が微笑んだ。
「そうか。……全く、素直じゃないな」
そう言いながらもどこか嬉しそうな峰葵。
そして、こそっと自分の頬に伝っていた涙を拭うと、誰もがうっとりするほどの美貌のいつもの峰葵に戻っていた。
「良蘭を呼ぶから、少しだけ待っていろ。すぐに戻る」
花琳の頭を撫でてから少しだけ離れると、そばで控えていたらしい良蘭に医師に知らせるよう
手短に託けを済ませて良蘭のところから戻ってくると、峰葵は花琳の手を強く握ってその手を愛し気に口づけた。唇が触れた瞬間、花琳は内心羞恥で戸惑いながらも、手の大きさや温かさ、彼の唇の感触を実感して胸がいっぱいになる。
「じきに医師が来る。俺はずっとそばにいるから、安心しろ」
ありがとう、そう言いたいけど言えない。
その代わりに峰葵の瞳をジッと見つめる。
交わる視線。
こんなにも見つめ合ったことなんてあっただろうか。思い出そうにも、最近の花琳の記憶には彼と目が合うたびに逸らした記憶しかなかった。
(好き、だなぁ)
隠しながらも、抑えながらも膨らんでいく恋心。実ることはないとわかっていても、峰葵を想う気持ちは募る一方だった。
◇
「
良蘭が呼びに行った王家専属の医師が朗らかな笑みと共に花琳の元へとやって来る。
彼は代々の王を診てきていて、花琳が秋王になっていることを知っている者の一人だ。
余暉が伏せっていたときにしょっちゅう顔を合わせていたが、余暉が崩御後は元気だけが取り柄の花琳は定期的な健診以外に会うことはなく、久々に会う人物だった。
「少々お身体を失敬させていただきます。もし痛みなどございましたらお声を上げていただくか、手や指を挙げていただければと存じます」
診察のために口の中や目の奥を見られたり腕や身体を触られたりする。
はだけられ、身体に触れられたときは峰葵は顔を逸らしてくれてはいたが、自分ののっぺりした身体を見られたかもしれないと思うと花琳は羞恥した。
それを悟られないよう静かに目を閉じながら時が過ぎるのを待つ。
「どうだ?」
「身体にあった湿疹や炎症はだいぶひいたご様子ですが、喉の炎症がまだ治っておられぬようですね。ですから、このあと調合する煎じ薬を朝と夕の食後にお飲みになっていただければと存じます」
「承知した」
「まだ体温は高いですが、顔色はだいぶお戻りのようですので、そのうち落ち着くでしょう。ですが、ずっと寝たきりでしたので筋力も衰えていらっしゃるようです。熱が落ち着いたら少しずつ動く練習をなさってください。とはいえ無理は禁物ですので、あくまで体調が落ち着いてきてからですが」
「わかった。ところで、今後容態が急変するなどの可能性は?」
「確実なことは申せませんが、恐らく大丈夫かと。さすがは花琳さま、素晴らしい快復力でございます」
「そうか。感謝する」
「では、私めはこれで。花琳さま、苦しくもよく頑張られました。ここまでの快復は何よりも花琳さまの素晴らしいご意志の賜物です」
褒められてちょっと面映くなる。
自分で何か頑張った自覚はないが、元気だけが取り柄だったためにそれが報われたような気がした。
「俺は煎じ薬をもらってくる。良蘭、しばし花琳を見ていてくれ」
「承知、しました」
先程まで少し離れた場所で見守っていた良蘭。その瞳はたっぷりと涙を溜め、今にも溢れ落ちそうであった。
だからこそ、峰葵は彼女に気を遣って席を外して部屋を出て行く。
そして、花琳が視線を良蘭に向けると、彼女は堰を切ったようにわっと泣き出し駆け寄ってきた。
「花琳さま……っ! あぁ、良かった、良かったです……っ!!」
いつも冷静で澄ましている大人びた良蘭がわんわんと泣き、花琳にしがみつく。
花琳は心の中でこの光景は二度目だな、と思いながらもこうして心配をかけたことが申し訳なくて握られる手をギュッと握り返した。
「……ご……、め……」
「何もおっしゃらないでください。私は花琳さまがご無事であったことだけで、生きてくださっただけでもう……っ」
ぼたぼたととめどなく涙を流す良蘭。ずっと峰葵と共に身の回りの世話をしながら花琳の意識が戻るのを待っていたらしい。
「ずっと、気がお戻りにならない間は生きた心地が致しませんでした。ですが、こうしてお戻りくださると信じておりました」
答えるように握られた手をギュッと握り返す。
「ありがとう」と声には出ずとも口を開けてそう言えば、察しのよい良蘭は心得た様子で微笑んで見せた。
それから、他愛もない世間話をしてくれる。紅葉の名所の話だとか旬の食材の話だとか、花琳にとって負担にならないよう政治以外の話をゆっくりと聞きやすい声音で優しく良蘭が話すのを、静かに花琳は耳を傾けた。
「ここだけの話ですが、私よりも誰よりも峰葵さまのほうが花琳さまのご心配をなさっておられました。毎日寝ずの看病をずっとされておりまして、代わると申し上げても頑なにお断りになってずっと花琳さまのおそばにいらっしゃったのですよ。全ての公務をほっぽって」
良蘭の言葉に目を見開く。あの真面目一辺倒の峰葵がまさか公務を放って自分のそばにいただなんて信じられなくて、花琳は何も反応できずにいると、良蘭は花琳の心を見透かしているかのように、「愛されてますね」と悪戯っぽく笑ったのだった。
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