三話 目を開く
アイゼが疾風のように走り去り、厩で叫んでいる頃。
ラルの方もまた、大変であった。
昨日ほどではないが、まず、ぼんやりと混乱していた。
一体、さっきの声の主は何だったのだろう。去ってからようやく、ラルの中で彼の存在を把握する事ができた。中低音の、澄んだ音の持ち主。ラルと同じ響きの音を発する――つまり同じ言葉を使っていた。だとすると、シルヴァスや昨夜の者達のように、や自分とそう変わらない形の生き物だろう、そう思った。
それにしても世話とは、どうしてだろう。改めてラルは考える。熱を出したときは、シルヴァスが自分の世話を見てくれたことを思い出す。もしかして、自分は今熱を出しているのだろうか。目を固く瞑ったまま、そっと瞼を覆う手を額にやる。よくわからなかったが、熱はないように思えた。次いで、シルヴァスの冷たい手を思い出す。目元と胸の内から、しくしくと水が染み出る様な、そんな痛みがラルをおそう。
さっきはほんの少し、アイゼという外の世界と関わった。けれど、またラルは自らの思考の世界に沈み込み始めそうになる。
――その時。
「失礼します」
また、左斜めから声がした。今度の声は、アイゼのものより幾分低い、落ち着いた音だった。柔らかいゆったりとした響きだがそうしようとつとめている様な、窺う様な調子である。本来の性質は、はきはきしているのだろうと聞き手に思わせる、そんな話し方だった。
「姫君、お食事をお持ちいたしました」
言うが早いか、さっと近づいてきた。音と同じように、やはりきびきびとした足音が、ラルに近づいてくる。
それは、壮年の男性だった。長身で、焦げ茶の髪は日に当たると、少し明るく透ける。光の強い目を、時折探るようにうろつかせる癖がある。左眉に刻まれた傷が、面差しをややいかめしいものにしていた。そしてやはりこの男性も、頭頂に耳がある――いわゆる
しかし、ラルがまだ寝台の上で、着替えも済んでいないのを確認すると、ぴくりと訝しげに眉を動かした。
「申し遅れました。私、召使頭のアルマと申します。……恐れ入りますが、ここにアイゼという世話役は来ておりませんか」
「アイゼ……?」
「赤茶の毛並みの者です」
「し、しらない」
アイゼという名前には覚えはある。しかし、ずっと目を閉じていたラルは、毛並みなど見ていないので、とっさにそう答えてしまった。すると、アルマはさっと顔色を変えた。ラルは未だに目を閉じているので、その表情の変化は見えなかったが、ただ気配が変わったのだけはわかった。そして、なんだかまずいことを言ってしまったのかもしれないと思った。
「あの」
「申し訳ありません。姫君に何というご無礼を……頭として、なんとお詫びすればよいか、言葉もございません」
ばっと頭を下げた。勢いと儀礼的な動きが両立されている。ラルにはやはり見えていないので、突如起こった身振りの風に、さらに困惑している。しかしそんなラルの困惑をよそに、アルマは言葉を続けた。
「え?」
「アイゼには必ずや罰を与えましょう。姫様の願い通りの処分を、何なりとお言いつけくださいませ」
「あの……」
「さあ姫君」
言い切ると、アルマは、ははあ、と息を吐き出した。
しかしラルは、話の流れが、全く分からなかった。しかし、なんだか自分が置いてけぼりのまま、どんどん話が進んでいる事だけはわかった。自分に対しての言葉のはずなのに、どうしてこんなに居心地が悪いのか。目を押さえたまま寝台の上で体を小さくする。
「わからない」
「は」
「だから、わからない」
「それは、――……もしや、先に食事をなさる、という事でしょうか? 申し訳ありません。私としたことが気の利かぬ――」
ラルの要領をえない答えに、それまでのきびきびとした様子とは打って変わって、困惑した声を出した。動揺した姿は厳めしい雰囲気を幾分和らげている。
「違う」
「え?」
「もうわからない、知らない! 知らない!」
かんしゃくを起こしたようにラルは叫んだ。アルマの「姫様」という焦った声が届く。ラルは、体を丸め耳をふさいだ。もう何も聞きたくはなかった。
姫様だとか、罰だとか、世話だとか、そんなことを一度に、しかも急に言われても意味が分からないのだ。昨日までの自分はずっと、ただのラルだったのに。
そもそも、ここは目が痛くて開けられない。そもそも、ここがどこかもわからない。
わからない事ばかりなのに、いろいろと言われて、話を進められる。しかも罰だとか、処分だとか、そんな怖い響きの事まで言ってくる。自分はそんな事をしなきゃいけないのだろうか。
ざわざわと少し周囲も騒がしくなり、またアルマも、ラルが背を丸めた向こうですっかり困惑しきっていたが、ラルはそれに構う余裕はなかった。
ここはどこ、全くわからない。――シルヴァス、シルヴァス助けて。
「もしや、え、
「――必要ねェよ」
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