闖入者3

「シルヴァス!」

「うるせぇよ」


 シルヴァスの姿が見えなくなりしばらくして、朱の男はラルを投げ落とした。ラルは木の梢にひどく尻餅をついて、衝撃に身体が跳ねる。痛みに息がつまった。

 見上げると、朱の男がラルを見下ろしていた。ネヴァエスタの黒はかつて見たこともないほどの明るさとなっており、割れた空の黒から漏れ出た「光」は、男の姿を黒い「陰」にした。ただ、男の瞳だけが、光っていた。

 ラルはこの生き物の目は金色だと気づいた。ウォーロウの飢えた時の目と重なる。しかし、ラルの頭には、シルヴァスのことしかなく、ただ、情報とだけしか入らなかった。急いで起き上がり、シルヴァスの元へいこうと、元来た道を引き返そうとする。


「行かせねえったろ」


 朱の男の腕が阻み、再度ラルの身体を掴む。


「はなして、はなして!」


 身じろぎして、逃げようとするが、相手は片腕にもかかわらず、びくともしない。自分のうでよりも二、三まわりは太そうな腕に、ラルは得体の知れない寒気が背に走った。それは正しく恐怖だった。


「静かにしろよ。なあ」


 男のなだめるような声が降る。その場にそぐわない、やわらかい音だった。


「いやだ、はなして。きもちわるい、シルヴァス」


 男の舌打ちを、ラルが聞くが早いか、ヒュッと空を裂く音が耳元でしたとほぼ同時に、強く何かをたたきつけるような音が、あたりに響いた。

 ラルは、何が起こったのかわからなかった。だが、銀色の石刃が、自分の顔の横にある。そして、自分の背後の木がめきめきと悲鳴を上げた。そのまま後ろ向きにずん、と倒れるのを気配で察した。肩越しに、木がどうなったのかをちゃんと見たかったが、朱の男から目を離すことができなかった。男は銀の石刃を引き、肩に担ぐと、すっとラルに身を屈めた。金色の目が、すっと細められる。


「大人しくしろ。わかったか?」


 頬に触れ、言い聞かせるようにささやいた。甘い、やさしい音だった。頬に触れた手で、そのまま両手首を握り込まれる。ラルは、自分の体が、ふるえているのがわかった。シルヴァスの元へ行きたい。でも、身体がうまく動かなかった。声も出ない。こんなことは初めてで、何から何まで初めてで、ラルは、どうしていいかわからなかった。


「おおい……」


 体の震えを何とかこなそうとしている間、森の向こう――シルヴァスのいる方からは反対側の方角から音が走ってきた。間延びした、しかし張りのある音で、やはり、シルヴァスやこの朱の男と同じ、自分と似た生物から発する音だった。


「チッ、遅ぇ」


 朱の男は、舌打ちを派手に一つすると、銀の刃を地面に刺しおろす。そして、柄に手をかけると、懐から小さな枝を取り出して、指先で火をつけた。火のついた方の逆がわをくわえる。黒が、少し晴れたとはいえまだ常人には黒い空間を橙が照らす。そのまばゆいゆらぎを、ラルは、遠いところで見つめていた。

 明るい。

 早く離れたい、その心もどこか遠くに感じてしまうほど……


 音の主が近づき、姿を現した。銀の固そうな衣に身を包んでいる。


「ああ、ようやく追いついた。全く先にばかり行かないでくれ」

「トロいんだよ。合わせてられッか」

「そんなことを言って、以前はぐれたのは誰だったかな」

「うるせェ」


 朱の男が、バツが悪そうに吐き捨てる。


「行くぞ。隊長が首を長くしてお待ちだ」


 この音は、いくぶん柔和だった。けれど、入り込めない音だった。銀の衣の男は、金色の髪を肩まで伸ばし、前髪を真ん中で分け、形のいい額を見せていた。ラルの方を見る。先から気づいていたのに、存在しないようにしていたのをやめたという見方だった。


「ああ、姫君。アーグゥイッシュ、おびえておられるではないか。少し手を緩めたまえ――姫君、お初にお目にかかります」


 朱の男をアーグゥイッシュと呼び、ラルの腕に、自身もまた手を重ねた。白の布を毛皮のように手にまとっている為に、肌に伝わる感覚は、幾分ゆるく感じた。


「おそろしい思いをさせ、まことに申し訳ありません。アーグゥイッシュは、野蛮ではあるけれど、悪い男ではないのですよ」


 朱の男、アーグゥイッシュが、鼻を鳴らした。ラルが金の男にわたったと見るや、振り切るように手を離した。金の男はラルに目を合わせ、両手でラルの両の二の腕を包むように握った。深い青の目は水を含み輝いている。ラルのこわばりは解けることはなかったが、男はニコリと笑みを深めた。


「では、姫。お連れいたします」


 ぐいと引っ張ると、ラルをうながして、歩き始めた。物腰とは反し、有無を言わせない動きで、しかし一見誘導している体で身体を押さえ込まれ、ラルは身じろぎ一つできず、ただ歩くことしかできない。

 ラルはひたすら、呆然としていた。逃避といって等しかった。シルヴァスはいったい、どうなるのだろう。シルヴァスは、と、思うのに、シルヴァスの元へ向かうことが出来ない。シルヴァスの元へ思考を飛ばすことしかできなかった。

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