ネヴァエスタの森2

 物心がついたときには、ラルはここにいた。それからずっとシルヴァスと二人だった。今の自分は全く、シルヴァスが与えてくれた知識で成り立っている。森の内の生き物から、食物を分け与えられ、ラル達は生きる。この森は光差さず、暗いという。「暗い」という感覚をラルはよく知らない。シルヴァスが言うからそうなのだと思っているに過ぎない。

 ラルは、シルヴァスが好きだ。でも、好きという言葉の意味もよくわからない。ただ、傍にいたい。悲しい顔をすると、不安になる。


「お前には、これからたくさんの幸せがくるよ」


 と、シルヴァスはラルに言う。でも、ラルは今でも十分きっと、幸せだった。幸せの意味なんてあまりわからないけれど、シルヴァスが優しい顔でいうものだ、きっといいものであるくらい、ラルはわかった。

 ラルは、シルヴァスにも幸せでいてほしかった。ラルは、言葉をよく知らずとも、その願いだけは――くしくも、シルヴァスのいうそれと合致していた。

 子ルスのライオネルに、ヒナザシの木の実をわけてもらう。デァのライプに、子供の面倒を見たお礼にと、ミルクをもらう。シルヴァスは、この名を呼ぶ度に面白がるが、意味はわからない。森の生物は、シルヴァスが皆名前をつけた。ラルはシルヴァスのことが好きで、森の生物のことも好きだから、皆お揃いだと思う。ラルは、森が好きだ。森の生物は皆、この森を嫌っていて、出られないと言う。その意味はよくわからない。

 シルヴァスの言うことは、よくわからないことがあって、大抵ラルは聞くが、ラルにとって、「わからない」のもっとも大きいところは、この森のことだった。そして名前のこと、ラルと、シルヴァスのことだった。

 森の生き物の名を、シルヴァスがつけたように、ラルの名をシルヴァスがつけたかというと、そうではないとシルヴァスは言う。そして、シルヴァスの名をつけたのは誰かというのを、シルヴァスは教えなかった。


「お前は、元々ここの人間ではないんだよ」


 森の生物と、ラルの姿が違うことを、ラルが尋ねたときに、シルヴァスはそう教えてくれた。ならどこかへ行くのか、どうしてここにいるのかは、教えてくれなかった。ただ、期待をこめて


「シルヴァスはどこから? 同じところからきたの」


 そう聞いたときは、少し悲しそうな顔をして、ラルの髪をなでた。

 あの時のシルヴァスの顔は、今思い出しても、ラルの胸をちくちくさせた。そして、そうだ、あの時と今の気持ちは少し似ていると、ラルは思い至った。


(戻ったら、シルヴァスに謝ろう)


 そう決めて、自分を納得させると、ラルは来た道を引き返した。

 ラルがいつも、何度も、同じ事を尋ねるから、ラルに悲しくなったのかも知れない。なにもわからないラルだが、シルヴァスが悲しい顔をするのは、イヤだった。

 バスケットの中の木の実とミルクが、駆け足のために揺れる。重いために、少し足取りはあやしい。シルヴァスの目が覚めるまでに、家に戻って、ジュースとご飯を作って、待っていたい。シルヴァスは、いつも突然現れるけれど、お腹がすいている時にちょうど食べ物があると、とても嬉しそうな顔をするのだ。

 不規則なリズムでミルクの音と、テンの実の果汁が外殻をタクタクとたたく音がラルの草木をかき分け、土を蹴る音と混ざる。水たまりを踏んで、足布をぬらした。あとで干さなくては、そう考えながら、足を止めない。はねた髪が、首や頬をたたく。自然に弾んでくる息だけは規則的にリズムをとっていた。歌うように、特殊なリズムを楽しみながら、森の奥地の棲み家へ。緑色の霧がゆらめいて、霞む。

 霧の突き当たりは見えない。唇をとがらせて、ふっと息をふきかけると、さっと目前の霧が晴れる。また霧が立ちこめるまでに、前に進む。それを繰り返す。シルヴァスは顔を少し傾けて髪を揺らすだけで、あたりの霧をいっぺんに晴らす。真似をしてみると、「まだ早いよ」と笑われる。ラルは息を吹きかけてしか晴らせないが、きっといつか出来るようになると思った。シルヴァスの頼もしい背中を見つめながら、ラルは根拠もなくそう信じていた。

 森はどこもかしこも茂っているが、奥地にほんの少しひらけたところがある。シルヴァスが腰掛けていた切り株が目印だ。ラルはそこで息を吸い込んで、声を上げた。高い音色に、節をつけたものだ。ラルが普段シルヴァスに習って使っている言葉とは、節回しも、音の使い方も違う。尋ねると、はぐらかされる。「大人になったら教えてあげる」の一点張りである。

 一定の音を発し終えると、緑の霧が、すがすがしい青色になり、それからザァ、と一気に晴れていった。するとそこには、球体があらわれる。ラルの身の丈よりは大きく、シルヴァスより少し低い、その球体は、緑青の葉に覆われて、大きな包みのような姿をしている。トウカの葉にシルヴァスが手を加えて、妖しい光を鈍く放っていた。触れると、しっとりと冷たいそれを、一枚まくりあげて中に入った。

 中はいっそう暗く、日月の光の差さない森の中でもより深い黒である。ラルはおびえる様子もなく、また一度、ふっと息を吹きかけた。ぽっと緑色の光が灯った。ふわふわと丸い玉で、意思のあるようにゆれる球体の光は、ケラフィムという虫の光を模したものだそうだ。ラルは、いくぶん明るくなって、足場が見えるようになった室内で、拾い、もらってきたものの入ったバスケットをおくと、来ていた外衣を脱いだ。

 もう夜だ。光の色が緑色をしているのが証拠だった。夜になると、少し暖かくなるこの森は、普通の時間を生きていないのだという。ラルはシルヴァスの言う「普通」という言葉がわからない。いつ聞いてもはぐらかすものだから、ラルはいつもすねる。

 しかし、ラルは今日はシルヴァスの変化を思う。謝ろうと思ったことも。

 シルヴァスがあんな顔をすることなら、何だか少し怖くなってきた。いつだって、知りたかったことのはずなのに、不思議だった。ラルは悲しい顔をするシルヴァスに謝ろうと、だから決めたのだ。でも、もう知りたくないとは言えないかもしれない。この森で、ラルが自分を、ラルを知るまでの十六年間、ずっと、ずっとシルヴァスに問い続けていたのだから。それでも、聞きたくないという自分もいて、ラルは混乱した。


(シルヴァスは、ラルを子供というけど、やっぱりラルは子供なのかもしれない)


 ラルは、子供じゃないと、いつもとっさに言い返してきたが、今、あらためて受け止めざるをえない気がしていた。自分の気持ちがわからないのだ。ラルはずっと大人になりたかった。はやく大人になって、シルヴァスに馬鹿にされない、シルヴァスの友達になるのが夢だった。けれども。

 筒に入ったミルクを皿にあけて、板の台の上で皮をむいたヒナザシの実を、石刃でたたいて香りを立たせる。粉々にしたそれを、ミルクの中に入れると、ふわりと甘い香りが立つと共に、渦巻き状に、白の中でヒナザシの黄色がくるくる回ってとけ込んでいく。皮を片した台の上に、大きなテンの実を置くと、へたを支え持ち、ラルは横から二、三回、手のひらの小指側の側面でたたいた。とんとんと間の抜けた高い音が立つ。中の果汁がタプタプと揺れて、そのたびラルの手に、ひんやりとした感触を伝える。ひときわ音の鈍い部分を確認すると、ラルは爪であとをつける。爪の内側に、テンの実の外皮の香ばしい土のにおいがめりこむ。

 先の尖った、長く細い棒を手に取ると、ラルは爪で印をつけた部分に打ち込んだ。たたいたときの高い音と、何かひしゃげたような音が混ざった、濡れた音が立った。ラルは手慣れた手つきで、深くまで差し込みぐりぐりと穴を広げるように、二、三度角度を変えて抜き差しした。それから、ミルクの皿の上に、実を移動させると、穴の明けた部分が下になるように、傾けて、少しだけ棒を引き抜いた。すると、棒を伝って乳白色の液体が、とろとろと落ちてくる。

 やわらかな生成色にそまったミルクに、今度は白のらせんが描かれた。ある程度のところまでその液を出すと、ラルは傾けていた実を起こし、また棒を深くさしこんだ。棒に、ひものついた、棒より一回り大きな輪をとおして実の中に棒が落ち込まないように固定し、実にひもを巻き付けて縛った。スプンでミルクをかき混ぜると、一通り終わった。

 もう一度テンの実を見る。大物だ。これで数日、テンの実には困らないと、ラルは満足げに実を食材用の箱にしまう。テンの実の果汁で汚れた手を、二、三度吸ってふっと息を吹きかけた。甘くて芳しい味が口から鼻に抜けた。のどをころころとくすぐっていくような独特な甘さは生きていくための力になるものが、たくさんつまっているらしい。

 一度部屋から出て、すぐ近くの四角いふたの開いた箱のようなものへ、ラルは近づくと、ラルは手にしていたかめをそこへくぐらせた。水が、かめにすくわれる。雨水や森の内の水を集めたもので、簡単に手を洗うくらいなら、ここですませる事にしていた。

 さらにきれいな水は奥にある。シルヴァスが作ったこれよりも大きな箱たちは、わき水や川の上流の澄んだ水を集めている。ラルの使ったものは、ラルが自分で作ったものだ。シルヴァスはいつも、自分の集めた水を使いなさいというが、シルヴァスのご飯だけは、シルヴァスの水を使うことにしている。

 ラルは、ラルの集めた水を使っている。一種の自立心か、それとも初めてこの水の箱を作ったとき、泥だらけの水だったのを、シルヴァスに腹を抱えて笑われてくやしかったのかはわからない。とにかく早く、シルヴァスのようにおいしい水を集めるのが目標なのだった。

 室内に戻って、ミルクを二、三度確かめるように混ぜる。時間がたって、とろみがついていた。ヒナザシの実は、テンの実の果汁と合わさると熱を発する。テンの実の果汁は熱を与えられると、とろみがつくのだ。ご飯はこれでいいだろうと、ラルは満足げに頷くと、食材の箱をもう一度あける。

 サザの実を二、三粒取り出すと、口に含んで歯を立てた。とたんに、あたりに酸っぱいさわやかな香りがはじけた。口中に広がる酸味の強さは、香りの比ではなく、いつもラルは顔をしかめて涙をうかべてしまう。サザの実の殻は固いが、実は柔らかく、石刃でも、ツチでもうまく殻をはずせない為、仕方なく歯を使うが、苦手である。口から取り出したサザの実の赤い鮮やかな色をうらめし気に見つめて、その殻を丁寧にはずした。

 コップの中にあらわれた黄色のみずみずしい実をシルヴァスに二個、自分に一個入れた。そうして、シルヴァスの水の箱からくんできた水をそそぎ込むと、実は四方に弾ける。中から黒い鮮やかな種が一度浮かんで、沈んだ。清らかな水は、サザの実によってシュワシュワと音を立てている。

 できた、とそれらを見下ろして、ラルは一息ついた。とたんに少し、さっきまでの心細い気持ちがおそってきたが、頭を振って、さっさと追い払った。何かをしている間は気が紛れる。

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