海を飛ぶ

 すごくきれいなフォームで海にもぐるこだった。この島のこは、みんな海女になる。きっと将来は立派な海女になるだろう、とおとなは恵比須顔で頷きあい、男子はそのこのことが好きだったが、酒席でにがい乙類焼酎をすすめられながら「この島にコイはいない」とたしなめてくるのを耳のさきまで赤らめながらこらえる。いちばん優れた漁師がいちばん優れた海女と夫婦になり、子どもを産み、育てていく、そんな島で、恋だとか惚れたはれただのは関係ない。あえていうならば、海を好きにならないと生きてはいけなかった。

 くろい肢体がとび、あおい海面がはじける。彼女はなかなか顔をださない。せのたかい飛沫がとどろいている。死んだんじゃないか、と見定めるようにあわのふく波間をのぞきこむと、おおきな鮑を両手につかまえた彼女が笑顔をあらわした。ほっと一息つく。大人たちが万雷の拍手でむかえた。

 そのこの笑顔が好きで、でも大人たちは、恋ではないという。じゃあこの気持ちはなんだろう。そのこが海から戻ってくるまで、胸のそこにじっと煮こごっているあついものはなんだろう。そのこに海には入らないでほしいと思う、かってにさわぐ心臓をいったいどうしたらいいんだろう。そうじゃないやりかたで彼女をわらわせたかった。

 たとえば息継ぎできなくなる、そんなふうに好きでいることは、海とともにあるこの島では死にひとしい。

 いきるため、島から出ることを考えるようになった。雨の日も好漁の日も、家にこもり勉強をがんばっていると、公立高校への進学の提案が漁師長経由でおとずれた。島には中学までしかなく、高校にいこうと思えば、内地に越さないといけない。海の男気質の父は「勉強なんて」の愚痴をのみこんだ顰めっ面を崩さなかったが、母と芸能ずきな姉が背中を押してくれて、一晩の盃ののち、ゆるされる。内地への定期船というものはないから、昔なじみの兄ちゃんがちいさなものだが漁船を出してくれて、高校受験をした。ついでに喫茶店でアイスクリームつきのコーヒーゼリーを鼻につけて、本屋で目をぬすむように開いた少年漫画誌のキスシーンに身悶えした。こういうふうに人を好きになってもいいのだと分かると、もうきっとあの島には戻れないのだという後ろめたさが前をむく。

 入試結果が週一の郵便でとどき、茶封筒におさまる三つ折りのペラ紙に印字された三桁の数字にちいさく赤マルをつけ、引っ越しの支度をおえてからっぽの部屋に一息ついたころ、玄関のサッシ戸がらんぼうに敲かれた。はだしのまま三和土にとびおりて顔をのぞかせると、彼女の姿があった。いつものジーンズ生地の短パンに無地のTシャツ姿だったが、くちびるにまっかな紅を引いていておどろいた。

「いま、いい?」

 怒っているような口調で彼女はいう。昨夜の酒席のあとが散らかった居間にあげるのは躊躇われたため、健康サンダルをけとばしていっしょに海へあるいた。

 内地のことをいろいろ訊かれた。分からなかったから、てきとうに答えた。彼女がもぐるとき以外で海にいるのはめずらしく、夕陽のそめる横顔にはいつもはない陰影がやけていた。

 その大人っぽさで、彼女の声がかわく。

「セックスは、した?」

 恥ずかしかった。けど、それを見透かされるのは嫌だったから、せいいっぱい胸をはって、

「した」

 と答えた。はずかしいぐらい大きな声がでた。風がよわく、波がたよりなく、雲ひとつない茜色のそらに「した」の声がこだました。

 止むのをまち、ひとこきゅう置いて、彼女はつばをのむ。

「どんなかんじだった?」

 股間のつっぱりをまぎらわすように、足元の石をひろい、

「海を飛んでいるようなかんじ」

 と答えると、横手でなげられたぺたんこの石は不器用にスピンして、一回だけおおきく跳ねた。絶好の水切り日和だったのに、下手くそだと思った。

 そうじゃないやりかたで教えればよかった、と思うのは、後悔なのだろうか。できもしなかったことは、後悔と呼んでいいのだろうか。抱けばよかった。僕は、たぶん僕だけが、彼女はあの島から逃げたいのだということを知っていた。たとえば、海をとぶように。笑わせればよかった。けど僕には勇気がなかった、というより、後悔したくなかった。

 淡水では生きられない魚もいる。あの島に、鯉がいなかったのと同じように。

 高校ではしなかったけれど、大学にはいってすぐにセックスをした。海を飛んでいるかんじではなかった。嘘をつくと、息ができなくなることが分かり、あの日の海が本当にあったことをつんとかおる磯臭さのなかにおもいだす。

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