朝と空と、まだ名前のない感情と

「ほらお兄ちゃん、早くー!遅刻するよー!」


この距離がただただ、どこまでも変わらないままであってほしい、なんて。


「待って待って、消しゴムがない」


「いいから早くー!!」 



夜月の配信から一夜明けた月曜日、『√』2人のいつも通りの登校前の風景だ。無事消しゴムは見つかったらしく、靴を引っ掛けて2人は駅までの道のりを歩き始めた。


「それでねー、その子がねー」


「ふんふん」


と、他愛のない会話を交わしながら足を動かす。車道側を環が少しだけ前を歩く、いつものポジションだ。どちらも友人もそこそこにいて、尚且つオタクであり、中々話題は尽きないものだ。


「あ、そうだ。つぶやいたー見てたら『yoru先生、ツンデレだった』って出てきたんだけど、何かしたの?」


「その話題掘り下げないでね、絶対だよ」


思わず渋面を作る夜月。余りの見られたくなさに「アーカイブとか見ないでよ、絶対」と念を思わず押したほどだ。


「えー、なんで?……あ、『yoru先生超可愛かった』『それな』だって、良かったね」


それでも、「別にからかったりとかじゃなくて」と柔らかく笑う環に言われてしまえば、口を尖らせるだけになってしまう。


なんだかなぁ、と夜月は思う。


そう、これではまるで、なんというか。


「……私だけ、」


意識してるみたいじゃん、という一言は言葉になる前に消えていく。ただでさえ小さかった呟きは、環の耳に飛び込む前に改札をくぐったホームに消えていった。


時々、分からなくなる。「私は、妹だ」とはっきりと言える時と、そうでない時、言いたくない時。そういう時は、向けられる混じり気のない優しさの受け取り方が分からなくなる。


初めてそれが訪れたのは、あの時だ。『ライムライト』に入る前、配信の最後。環が『夜明けと蛍』を歌い出した時と、その後。


胸がどこまでも暖かくて、暖かすぎて泣き止めなかった、『夜明けと蛍』が終わり、配信を閉じた環はその後、もう一曲を歌ったのだ。その部屋にいた、もう1人のために。


歌った曲は、BUMP OF CHICKENの『真っ赤な空を見ただろうか』。「もう夜だけどさ」と苦笑気味に歌い出した顔が蘇る。


『あなたと私、2人で生まれてきたから、私には決してあなたの痛みが分からない。けれど、2人で生まれてきたから、僕はあなたの笑顔が見られたんだ』、そんなメッセージが、他の誰よりも好きな歌声が全身を包み込んで、暖かくて。


少しだけ、ほんの少しだけ涙が混ざる声で、


「……また歌うよ。いつでも、夜月がそれを必要とした時にさ」


と環が言った時。それが、この名前の付けられない思いの出所だ。


頬を伝って唇に落ちた涙の味は、なぜか、どこか。


少しだけ甘かったような、そんな気がした。




途切れない会話の切れ目、電車を待つホームに並ぶと、朝の光のハレーションの中に、名前が付けられない感情が鮮明に蘇る。思わず飲んだ息が、二つ分重なって、また大気に戻ってゆく。


まだ名前のない感情を溶かした空に、電車の音が近付いてくる。そんな、2人の朝。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

作者より

昨日は更新止まってしまいまして、お待たせしてしまいました。分量自体は大したことないのですが、お読み下さった通り、こういう回でしたので……。何卒ご容赦ください。


まだまだ続いていく物語ですが、一区切り、といったところです。これからもお付き合い頂けると幸いです。



※一応なんですが、今話に出てくる『あなたと私、〜あなたの笑顔が見られたんだ』は歌詞ではありませんので、ご承知くださいませ。

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