夏の歌
たぴ岡
前編
はあ、とため息をつきながら帰り道をなぞっていく。僕は今日もあの家に帰らなくちゃならないのか。
確かに学校にだって居場所はない。いわゆる「陽キャ」というやつらが騒いでいるのを横目に、読書や勉強をしているだけ。あいつらは授業も真面目に聞かないで寝ているのに、何に対しても興味がなくて友人だけいればいいみたいな顔をしているのに、どうして僕より成績が良いのか理解ができない。意味がわからない。
それから、僕は僕みたいな根暗と仲良しこよしってこともしない。他の「陰キャ」は隅っこで集まって何やら話しているらしいけれど、僕は混ざったことがない。それはたぶん、入りたくないのではなくて入れないのだと思う。入学式から少しの間インフルエンザで休んでいたから、全てが狂ってしまったのだろう。まあ、休まなかったとして同じ結果になる可能性も否定できないのだけど。
とりあえず僕の居場所は学校にはないのだ。
だからといって家に早く帰りたいのかと言われれば、そうではないと答える。
僕は……母からは虐待を受けている。暴力や暴言は日常茶飯事で、少しでも機嫌を損ねたら怪我が増える。今も腕に目をやってみればたくさんの痣が見えた。これのせいでこんなに暑い夏の日も僕は半袖を着られない。気にしなければ良いのかもしれないけど、これ以上僕への冷たい目線を意識したくない。
唯一の救いだと思っていた父も、最近は不倫し始めているらしい。毎日のように帰って来るのが遅すぎるし、朝のコロンを甘ったるいパフュームで塗り替えている。それに、極めつけは結婚指輪をしていないことだ。たぶん母は気付いていないのだろうが、夜遅くに帰ってきた日は指輪をポケットに隠していることがある。それは愛人にねだられているのか、それとも既婚であることを隠しているのか。どちらにしても質が悪いことに変わりはない。
そんな訳で家にも居場所はない。どこにだって、僕がいて良い場所なんてない。
程よい田舎道を歩きながら考える。どこかに誰にも知られていない隠れ家はないだろうか。この辺りは森が広がっているし、その奥には忘れ去られた小屋や古くて潰れてしまいそうなプレハブなんかがあってもおかしくない。
いつもの帰り道を逸れて、人目を気にしながら森へと入っていく。
鬱蒼としているそこは、まだ明るいはずなのに夜のように感じさせる。空から降ってくる光が遮断されているのだ。僕の出す音は吸収されていくのに、草木の揺れるのがさわさわと耳元で聞こえる。目を閉じればここには僕しかいないみたいで、世界が終わってしまった後のように思った。
そのまま何かに導かれるように僕は奥へ奥へと進んだ——。
すると、目の前に古びた木製の小屋が見えてきた。ボロボロで屋根も落ちかけている上に、強い風が吹けばパーツが飛んで行ってしまいそうな、そんな小屋。入り口のところには拙い文字で「ひみつきち」と書かれている。小学校低学年くらいの字だろうか。
警戒しながら中へ入ると、バケツやランタンがいくつかと、それからキャスター付きの黒板や机を見つけた。バケツはきっと雨漏り対策なのだろう。法則もなさそうなランダムな置き方だった。黒板には合い言葉らしき文字と、「何であそぶか」という会議をした跡があった。机の上には鉛筆、シャーペン、消しゴムが乱雑に置かれている。そして一際目を引いたのは、汚れたノートだった。
表紙には「おれたちのノート」という題名めいたものがあり、そのすぐ下に「1981/7/13~」という数字があった。これはきっとこの子どもたちがここに、この秘密基地に存在していた年なのだろう。ちょうど四十年前のものだ。奇しくも今日という日は7月13日。何となく嬉しい気持ちになる。
ひらりとページをめくってみると、会議の結果の記録なのか、遊びの名前や懐かしい合唱曲のタイトルなどが書かれていた。
「僕も小学生のとき歌ったなぁ」
呟くように小さくその曲を歌い始める。今はもうソプラノなんて出せないから、一オクターブ下で歌詞をなぞる。ページをめくる度に少しずつ勇気が沸いてきて、文字を追うごとに少しずつ楽しくなってきて。僕の歌声は次第に大きくなっていたらしい。
「歌、上手いね」
ハッと我に返って振り向くと、僕と同じ年くらいの男子が入り口に立っていた。
彼の来ている服は僕の高校の制服に似ていたが、少し違っているらしい。制服なんてどこの学校も同じようなものだし、少し遠くの学校に通っているこの辺りの地域の人なのだろう。たぶん。
しかしそれなら同じ小学校、同じ中学校から出ているはずだが、こんな人はいただろうか。もしかすると最近の転校生、なのかもしれない。とは言え、僕はあまりにも内向的すぎたから友人もいなかったし、母が卒業アルバムを勝手に捨てたらしいからそれを確かめる術はない。
「……すみません、無許可で入ってしまって」
「あぁ、いいよ別に。ここは俺も勝手に通ってるだけの隠れ家だからさ」
「そうでしたか」
彼はふふっと笑って、僕の瞳を覗き込んだ。
「敬語じゃなくていいよ、たぶん俺ら同い年でしょ」
「高校一年の十七歳です」
「お、俺も一年、だけど十六。俺の方が一個下だな」
「……はあ。そう、ですね」
彼はやっと入り口から動いて、僕の方へ近付いてきた。
「ていうかさ、それより! さっきの歌もう一回聞かせてよ。あれでしょ、あの定番の合唱曲」
「え、そんな初対面の人に聴かせるようなものじゃ……」
「いいからいいから!」
この人強引だな。僕の一番苦手とするタイプだ。
肩を叩きながら笑顔を見せつけてくるその人に、苦笑を返しながら腕時計を確認する。まずい。もう七時になる頃だ。母が、怒る。
「す、すみません。門限が近いので、帰ります」
「……そうか、そりゃ仕方ないな。じゃあまた会おうぜ、俺も近いうちここに来るからさ」
僕は振り向くこともしないで全速力で走った——。
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