5章 ピアノの先生と天狗の父娘
[5-1]ピクニックの夢と突然の呼び出し
ピクニック当日は雲ひとつない、快晴だった。
鮮やかな真っ青な空。お弁当の入ったリュックを背負って、わたしたちはひたすら山を登っていた。
前方には
後ろでは
みんな話しながら山を登る。そんなには速く歩けていないけど、みんな楽しそう。
山の頂上で食べるおにぎりはおいしかった。
上から見下ろす景色を見ながら、友達同士で笑い合って。
きっとかけがえのない思い出になる。
ギスギスしていた
前よりもうまく浄化できるようになったのはもちろん、すごく嬉しかったのは前よりも彼の役に立てるようになったことだった。
このまま、アルバくんの身体が良くなればいいな。
「
アルバくんの声が上から降りてきた。瞬きをすると、世界が塗り替えられる。
突き抜けるような青空が暗くなり、濃い藍色の空に。
にぎやかだった笑い声が、鈴虫の鳴き声に。
いつか、激しく胸が高鳴ったあの夜だった。
暖色の光に照らされたアルバくんの精悍な顔が、すぐ目の前にまで迫っていた。
彼の手のひらがわたしの頬に触れる。
とくんと高鳴る胸を抑えながら、わたしは期待を込めて目を閉じた。
☆ ★ ☆
「きゃああああああっ、もうこの夢何回目ー!?」
毎朝セットしている目覚まし音がスマートフォンから鳴り響いている。
今日に限ってはそれを解除せず、わたしはベッドの上で頭を抱えていた。
なに、なんなの。わたしの頭って、どんだけ煩悩だらけなの。
最初の健全そうなピクニックからなんで一転させちゃったの!
どうしておにぎりからアルバくんとのキスになっちゃうの。
わたしって、どんだけキスしたいの。
ああ、でもおにぎり美味しそうだったな。
よし、今日の朝ご飯とお弁当はおにぎりにしよう。
ひそかに決意してガッツポーズを取ったとその時。遅いタイミングでドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
勢いよく扉が開かれたあと、白い尻尾を揺らしながら、慌ただしく部屋に入ってきたのはアルバくんだ。
「どうした、
当然ながら、本気で心配して駆けつけてくれた彼には本当のことを言えなかった。
朝食に出したおにぎりはひとつも残さず、おいしそうに食べてくれた。
☆ ★ ☆
その日の放課後は雲一つない快晴だった。行楽日和のいい天気だ。
鮮やかな青のペンキを塗りたくった空を見た途端、今朝の夢がよみがえってきて、わたしは深いため息をつく。
「
「えっと、うん。……なんでもない」
目をそらし、笑って誤魔化した。でもわたしって、すぐ顔に出る性格だからうまく誤魔化せていない気がする。
案の定、水を注いでいた手を止めて、
今日の放課後は園芸部に顔を出していた。することといえば植物に水をあげたり、病気になっていないか健康チェックすることくらい。他の部活動と比べれば地味な活動かもしれないけど、意外とこういう地道な作業が楽しかったりする。
そんな部活の時間、隣であからさまにため息なんて吐かれたら、そりゃ
とはいえ、いくら後輩相手でも、あんな妄想だらけの夢をここ数日で繰り返し見てるだなんて、話せるわけがない。
昨日の夢も楽しかったな。最後は甘かったけど……。
しあわせだなと思ったのは本当だ。
アルバくんは昨夜も食べなかっただろうな。
いい夢には違いないけど、恥ずかしすぎて人にはとても話せない。
アルバくんと付き合い始めてから一週間が経った今、思い返せばずっと悪夢は見ていない。アルバくんの耳と尻尾は白いままだ。
夢を食べないときっとお腹が空いちゃうと思うのだけど、アルバくんは今朝も元気だった。どうやって飢えをしのいでいるのかしら。
「じゃあ、私から質問してもいいですか?」
手に持っていたジョウロを地面に置いてから、
わたしはもちろん頷いた。ため息をつく原因から話題をそらせるのならなんでも良かった。
「うん、いいよ」
「先輩って、アルバさんと付き合っているんですよね?」
少し前ならドキドキして答えられなかったこの質問も、今のわたしならすぐに頷くことができる。
そういえば、
そう。今のアルバくんは、わたしにとって大切な恋人だ。
だけど、キスをかわしたのはアルバくんが告白してくれたあの一度きり。しかも思いきって自分からだった。
まだにアルバくんからキスをしてもらったことはない。
また今朝の夢が頭の中を通り過ぎた。きゅうと胸が締め付けられる。
「う、うん。そうだよ」
笑顔を作って頷く。すると、もう一度首を傾げた
「ですよね? なのにおかしいですよ。今学校内で
「ええっ、なんでー!?」
さすが田舎だわ。恐るべし。
人の噂も七十五日って言うし、やっぱり時間が経つのを待つしかないのかしら。
わたしや
うう、アルバくんに勘違いされちゃったりしたら、どうしよう。
そんなわたしの心配をよそに、
「だって、うちの学校に転校生がくることなんて珍しいですもん」
「
「うーん、そうですねぇ」
最後の花に水をやり終えたあと、使った道具を外の倉庫にしまいに行く。その道すがら、
「やっぱりアルバさんと先輩が一緒にいるところをみんなに見てもらうとか? そういえば、今日はアルバさんはいないんですか?」
「いっつも学校までついてくるのに、今日は九尾さんのところに行くって言って、ついてこなかったの」
「ああ、そうなんですね。
「うん。今日は
今朝のアルバくんは不機嫌そうな様子ではなかったし、「朝食は洋食派の
九尾さんとは口喧嘩をしつつも仲良しだし、きっとあやかし同士のお付き合いがあるんだろう。
でも
放課後は鵺の潜伏先を探るべく、今日も数少ない痕跡を手がかりに
わたしたちが住んでいる
どういう仕組みなんだろう。気になるけど、こわくて聞けない。
鵺はすでに
だから鵺を見つけるには痕跡を調べてたどるしか方法がないんだよね。
「ねえちゃん、迎えにきたよーっ!」
ふいに元気よく弾んだ声が聞こえてきた。
倉庫の扉を閉めてから振り返ると、赤いTシャツを着た小さな男の子が笑顔全開で走ってきているところだった。
細い首から提げた入校許可証の名札プレートが、動きに合わせて大きく揺れ動いている。
男の子は、車にはねられて怪我をしていたあの子狸なの。
今ではすっかり傷が癒えて元気になったみたい。たぬきくんはまだ小さいのに幻術がすごく上手で、今日は耳と尻尾が出ていなかった。こうして見ると、そのへんにいる人間の男の子とあまり変わらないんだよね。
「用事、もう終わる?」
「うん、もう終わりっ! 一緒に帰ろっか」
「うんっ」
倉庫の鍵を閉めたあと、
三人で職員室まで行き、鍵を顧問の先生に返す。
そのあと、鞄を取りに部室に行った。
「良かったら、先輩も一緒に帰りませんか?」
たぶん
「あ、ううん、大丈夫。一緒に帰りたいのはやまやまなんだけど、担任の先生に呼ばれていて……」
「えっ、それって音楽の
その質問にわたしは頷いて答えた。
授業が終わったあとのホームルームで、なぜか先生に呼び出されちゃったんだよね。しかも場所は職員室とかじゃなくて、音楽室。
どういうことなのか、わたしもよく分からないのだけど……。
「すぐに来なさいってことじゃないから、私がなにかしたってわけじゃないと思う。たぶん、なにか大切なお話があるんだよ」
自分に言い聞かせるような答えだったと思う。曖昧に笑うと、
うちの家はお父さんもお母さんも海外だし、もしかして進路の話なのかな。わたしはもう二年だし、今は九月の半ばだもん。
それにしたって、職員室じゃなくて音楽室なのがすごく気になる。
あれこれ考えてみたけど、答えは結局出なかった。もう気にしたって仕方ない。どのみち先生に話を聞きに行くしか方法がないんだもの。
☆ ★ ☆
西日の差す校舎内の廊下をまっすぐ歩いて行くと、音楽室にたどり着く。
教室移動の時、一番遠くて不便なのがこの音楽室だ。
一週間前、たぬきくんとアルバくんのためにピアノを弾いた時、
鍵は開いていた。ノックをしてから引き戸を開けると、
年齢は何歳かは聞いたことないけれど、たぶんお父さんと同じくらいかな。
明るい茶髪を肩より長く伸ばしていて、いつも穏やかに笑う優しい先生だ。お化粧も濃すぎないナチュラルメイクでとても素敵なの。
引き戸を閉じてから「失礼します」と会釈をしたら、先生はにこりと微笑んでくれた。
「来てくれてありがとう、
「先生、あのお話って……」
先生は生徒用の椅子に座っていた。隣の椅子を手で示して勧めてくれた。
素直に頷いて、通学用のリュックを椅子のそばに置いて腰掛ける。
すると、先生は急に腰を浮かせて、室内の出入り口まで歩いていった。おかしいな、わたしちゃんと入り口は閉めたはずなんだけど。
いつも優しい笑顔を浮かべる先生はくるりと振り返った。腕はなぜか後ろに回したまま。
続けて、かちりと固い音が聞こえてきた。
えっ、どういうこと? 今のって、まさか鍵を閉める音!?
「先生、なんで鍵を――」
「
言葉を遮られ、一瞬だけ声を失った。
薔薇色に彩られた唇が意味深に弧を描く。
心臓が大きく波打った。同時に、
体毛さえ自在に変えることのできる幻術が得意なあやかし。毛むくじゃらで四つ足のからだをもつ。
何よりも特徴的なのは、暗い場所でも爛々と光るあの赤い瞳。
鵺が幻術を得意としているのなら、もしかして人間に化けることだってできるんじゃないかしら。
もしかして、今の先生は——!
氷のかたまりが背中の上を滑っていったかのように、寒くなってきた。ますます鼓動が激しくなる。
どうしよう、今は先生の顔を見るのがこわい。
口を引き結んで視線を落としたまま黙っていると、強く肩をつかまれた。
思わず目を閉じたまま俯いていると、先生の声が降りてきた。
「ねえ、
「――え?」
つい最近もこんなフレーズを聞いたことがあったっけ。それにしても、やけに声が弾んでいるような。
思わず顔を上げたら、わたしは別の意味でびっくりして拍子抜けしてしまった。
だって、いつも穏やかで大人な雰囲気だったあの河野先生が、まるで子どもみたいに瞳をキラキラと輝かせていたんだもの。
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