茜色の教室と食中毒 season2

早雲

前編

 いつだって、夕暮れ時の教室は無造作で、ほこりっぽくて、それなのにどこかにノスタルジーを残している。


 入射角がどんどん大きくなって真っ赤に変わっていく太陽光が、すこしだけ強く私の肌に染み入る。


 そんな、いとおしい時間。


 そんな中、私は拷問に耐えていた。


 絶えず聞こえてくる理解不能な呪文。


 時々にこりとする目の前の男子高校生。


 私もつられて笑顔になるが、今何が起きているのかわからない。


 私は生まれてこの方、こんなに切実に思ったことはなかった。


「誰か助けて!!」


 呪文は途切れない。



 私は片山新(カタヤマ アラタ)。容姿も体格も、そして多分、性格も平均的な女子高生だ。


 教室に入ると、少し派手目な格好の友達が話しかけてきた。


「アラター、今日は早いねー。いつも遅刻魔なのに」

「いやいや、いつも授業には間に合ってるから」

「はいはい、えらいえらい」

「3歳児をあやすみたいに人をなでないで!」


 ハナは派手な格好をしているわりには結構いいやつで、私のことをよくこうやっておちょくってくる。特に私が朝に弱く、よく遅刻することをネタにする。あれ、それっていいやつだっけ?


「それにしても、アラタはぜんぜん寝坊が解消されないねー。ホームルーム後に必ずくるし」

「いや、ほんとに朝起きれなくて」


 高校2年生になって2か月とちょっと経つけれど、ほとんど変わったところはない。


 友達は相変わらずだし、彼氏もできない。


 ただ、最近になって大きな変化がひとつあった。


「夜更かししてるからじゃん?それって、『小説』書いてるから?」


「まあね」


 私にとっての大きな変化。


 私ずっと友達に隠していた私の『趣味』を明かしたこと。


 私は中学の頃から小説を書いてはネットに投稿していたが、それは私にとって人に知られたくない趣味だった。なぜなら、普通の女子高生はそんなことに興味がないし、私は普通じゃないと言われるのがいやだったからだ。


 でも、最近あった出来事が私を変えた。


 変えたなんて大げさに言ったけれど、つまりはただ私が小説を書いているという事を友達に明かした、というだけだ。でもそれは私にとって大きな変化だった。


 友達の反応は様々だった。応援すると言ってくれた子。別に興味を示さない子。ちょっと軽蔑した顔をする子。いろんな表情があって、必ずしも好意的に受け入れられるわけじゃなかった。


 それでも、私は案外、人から少しくらい変な目で見られたって平気だという事を学んだ。なんだか、ありきたりだけれど、別に死ぬわけじゃない。それに堂々と自分の好きなことを好きと言えるのは、思いのほか私の心を軽くした。


 なんだか気負いすぎていたんだ、そんな風に思えた。


 ハナは私の『趣味』に対して好意的な友人の一人だ。こんな風に私をおちょくってくるけれど、それはそれで気安くていい。


「それで?いつになったら見せてくれるのん?」


 こんな風に催促されるのはすこし面倒だけれど。


 私はハナとすこしじゃれた後、自分の席についた。


 自分の席に着くと、のそっと大きい背中が目の前にあった。私の席の前には背がそこそこ高く、まあまあカッコいい男子が座っている。だけれど、それは見た目の話だ。


 前の席の彼は、私が来たことに気が付き振り向いた。彼は私を見やって言った。


「やあ、片岡さん。いい天気だね」


 少しジェントルな物言いがものすごくむかついた。


「須藤君。前向いて。うるさいし、黙って」

「つれなさすぎるでしょ」

「君の変態話に付き合ってる暇はないの。授業の予習しなきゃいけないし」

「寝坊しなければもっと余裕ができたのにね」


 私は彼の座席を蹴った。その衝撃で彼のカバンの中身もガチャガチャと音を立てた。


「ちょっと、せっかく持ってきた検査セットが…」


 彼はカバンの中身を確認するためにジッパーを開けた。


 私も後ろから覗き見ると、フラスコやシャーレやピペットと言った理科の実験で使いそうな道具が見えた。


「こんな絶好の食中毒日和に検査セットが壊れたら大変だよ!」


 こんな不吉なことをさも楽しそうに言う彼こそ、私の変化の大きな要因だった。



 多分、私に起きた変化を一言で表すなら、「内面と言動のずれ」がなくなったことだろう。


 私はずっと小説を書くことが好きだった。だけれど普通のレンジから外れることが怖かった私は、友達の誰にもそのことを言わなかった。


 でも、ある日の放課後。茜色の教室である男子がなぜか食中毒検査をしているのを見つけて以来、少しだけ、私が考えていた「普通」っていうのがばかばかしくなった。


 なぜなら、その男子、須藤君は普通から遠くかけ離れているくせに、やたら楽しそうに自分の好きなことをしゃべってたから。


 変なくせに、やたら堂々としていたから。


 それはとても滑稽で、それでいて少しだけうらやましくなるような光景だった。


 私の変化はそれ以来だ。


 つまり、須藤君をみてというわけじゃないけれど、私も少しだけ見習うことにした。


 私も堂々とすることにしたのだ。


 そうして私に起きた変化は、さっき言ったように友達にはいろんな受け止められ方をしたけれど、でも結果的には良かったと思っている。



 ときどき。あくまで、ときどき。私は須藤君とこうやって放課後にしゃべる。


「さて、片山さん。君に今から学名とは何ぞやという事を教えてあげるよ」

「なんで?」

「なんでって」

「なんで君が私に学名とは何ぞというまったく人生に役に立たなさそうなことを教えてくれるの?」

「人生は長いからいつ何が役に立つかわかんないよ?」

「10歳児を諭すように言わないで」

「いやいや、5歳児を相手にするつもりで言う…いたい!」

「前から思ってたんだけどさ…結構ガチすぎて聞けなかったんだけれど…須藤君はドMなの?」

「それはともかく学名とは何かを教えてあげる」

「ふう、聞いてあげる」

「なにその10歳児相手みたいな態度」

「5歳児相手だと思ってる」

「5歳児はこんなに知的じゃないよ?」

「…」


 少しだけ、血管が切れかけた。いや、本気になってはいけない。やつの思うつぼだ。


「てか学名って、あれは生物の暗記ゲームじゃん」

「暗記ゲーム?」

「だって、ほら、生物のテストとかでこれの学名はなんたらとか聞かれるし」

「またまた考えが狭いですねー片山さんは…いたい」

「やっぱドMなんじゃ…。とにかくさ、ただ名前がついてるだけでしょ?誰か解らないけど見つけた人が勝手に名前つけてるんだよ」

「片山さん…なんでもいいけどなんかの生物の学名言える?」

「ん…いえるよ、もちろん」

「じゃあどうぞ」

「…ほら、その、ねえ」

「一つも例示できないのに批判するのはよくないよ…?」


 私は素直に認めた。


「うるさいし、うるさい」

「えぇ…」

「とにかく、じゃあ学名ってなに?なんの意味があるの?」

「ホモサピエンスって何かわかる?」

「えっと、人間のことでしょ?」

「そう。ヒトの学名だよ。Homo sapiens(ホモ・サピエンス)は。これって実はホモとサピエンスそれぞれの部分に意味があるんだ」

「どういう事?」

「つまり、ホモっていうのは属名でサピエンスっていうのは種名なんだ。ホモ属にはもう絶滅しちゃったけれど、Homo neanderthalensis(ホモ・ネアンデルターレンシス)とかを含むんだ。歴史の教科書で出てくるネアンデルタール人のことだけれど」

「何それ?だって人間は人間じゃん。だったらホモサピエンスって一語でいいじゃん。てかサピエンスだけでもいいし」

「うーん。片山さんって家族構成はどんな感じ?」

「なに?興味あるの?」


 彼はにっこりした。


「ないよ」

「おい」

「とにかくさ、お父さんとお母さんは一緒に暮らしてるの?」

「さらっとすごいこと訊くな…。えーと、お父さんとお母さん、あと弟がいるけど」

「皆、苗字は『片山』だよね?」

「そりゃそうでしょ」

「僕も一緒に住んでる家族全員『須藤』って苗字だよ。でさ、もしも僕の名前が須藤巧(スドウ タクミ)じゃなくて、タクミだけだったらさ、結構不便じゃない?」

「ん、まあね…」

「もし苗字がなかったら、名前だけじゃ誰と誰が家族だったり親せきだったりするのかわからない」

「そうか、タクミとかアラタだけだと授業参観のときとか、先生は誰の親が来てるか把握するの大変だもんね」

「そう。その場合、みんなの名前と家族構成を暗記しないといけなくなる。暗記じゃなくても、余計な資料を作らないといけない」

「で?それは学名と関係あるの?」

「一緒だよ。ここでいうホモ属は大雑把にいえば『苗字の役割』を果たす」

「ん?」

「ネアンデルタール人はホモサピエンス、現代人ととても似ている。だったらホモ属っていう同じ分類にした方が管理しやすいでしょ?片山さんの家のアラタちゃんみたいに、ホモさんの家のサピエンスちゃん、ホモさんの家のネアンデルターレンシスちゃんって」

「ちゃん付けはやめて…」


 だが、私は不思議に思った。


「まって。学校の先生とかなら授業参観とかの時のために生徒の苗字がある方が便利だけどさ。その生物の学名は誰が何のために管理するのよ?」


 彼は不思議そうな顔をした。


「人類が人類のためだよ?」

「なにをいってるの?」

「いや、そうだな…えーと、つまり人類にとって学名って役に立つんだよ」

「そんなことある?」

「生物全部だと幅広すぎるから、微生物で例えるけど」

「なんで微生物…」

「僕の専門だし」

「…」


 確かに放課後の教室で食中毒菌の検査をするような人だもんね。


「例えばこの前検査してたBacillus cereus(バシラス・セレウス)だけれど」

「あれ、そういえば結局セレウス菌は検査で見つかったの?」

「あれね、結局見つからなかったよ。斎藤は別の原因で吐いたんだろうね」

「なんだ、食中毒じゃなかったんだね」

「原因不明が一番怖いけれどね。それで例えば、Bacillus cereusだけれど、これってBacillus属なんだ。聞き覚えない?」

「ある人いるの?」

「納豆菌だよ。納豆菌はBacillus subtilisっていうんだ」

「えーと、バシラスっていう属名、『苗字』が一緒なんだよね?」

「そう。でさ、このセレウス菌と納豆菌は性質がとても似ているんだ」

「性質?」

「グラム陽性の桿菌で、芽胞形成能があって、栄養たっぷりのところで増える」

「ふうん。でも性質が似てるのが分かってもうれしいのは学者だけじゃない?」


 もしくは須藤君みたいなオタクか。


「そんなことないよ。もしBacillus属っていう『苗字』が分かっていれば大雑把にだけれど注意するべきところが見えてくる」

「?」

「例えばBacillus属の芽胞形成能。これはつまり熱に強いカプセルを作って自分を守るための能力なんだけれど」

「え?カプセル?」

「そう、このカプセルは熱に強くて、90℃で60分加熱しても生き残る。もし大腸菌だったら60℃,30分の加熱でほとんどが死滅しちゃうのにも関わらず。だからセレウス菌の食中毒に対策するためには、ちょっと加熱するだけじゃダメだっていうことがわかる」

「いや、そういわれればそうだけどさ。でもセレウス菌はBacillus属って『苗字』がなくても性質は知られているんでしょ?だったらいったい『苗字』は何の役にたつのよ」

「セレウス菌は既知、すなわちすでに知られているものだ。確かに片山さんが言う通り、セレウス菌みたいにすでに知られている危険なものは、個別に対策をとるための情報が蓄積されている」

「そうでしょ?だったら『苗字』は整理する以外に必要なくない?」

「『苗字』、もとい学名の重要なところは『情報』だよ」

「どういうこと?」

「セレウス菌は既知だった。でも、もし未知の病原体が出てきたら?」

「なに?新しい菌ってこと?」

「平たく言えば。もしその場合、その菌を調べるためにいくつかの性状と塩基配列を調べる。16S rRNA遺伝子、グラム染色…」

「いや、わかんないから」

「それで『既知の微生物のうち、どれと近いか”が分かる』んだ。するとさっきのBacillus cereusの時みたいに対策を取りやすくなるんだ」

「んんん?」


 わかったような。いや、わからないな。


「だから、たとえば、カタヤマ菌っていうのがいたとしよう。これは新しく見つかった菌で今まで誰も知らなかったけれど、腹痛を起こす。極悪な菌だ」

「…」


 いつか、須藤君の昼食に食中毒菌をいれてやろう。私は小さくそう誓った。


「カタヤマ菌は便宜上つけた名前でどんな菌なのか誰もしらない。だけれど、DNAの配列やグラム染色をしてみると、どうやらBacillus属のグループっぽいってことがわかる。すると、どう?Bacillus属にはどんな特徴があった?」

「熱に強いカプセルをつくる」

「そう。だからこの新しいカタヤマ菌に対策するためには、食品を加熱するだけじゃ不十分だ、とかが考えられる」

「てか、最初からそうしたらいいじゃん」

「というと?」

「だから、熱に強いかどうかを最初に調べれば?」

「微生物にはたくさん特徴があるんだ。熱に強い、酸に強い、低い温度で増える、高い温度で増える、空気があるところで増える、増えない、とかいろいろ。全部を一気には調べられない。だから、『初手として』、つまり最初にする対応のためには、何と似ているかって『情報』はすごく大事だ」

「なるほど、あくまで最初の対策のために『苗字』って『情報』が大事ってことね」

「まあ、実際には食中毒菌は既知のものがほとんどだと思うけれど」

「そうなの?」

「優先的に研究されるのって、危ない微生物だからね。食中毒菌なんかはたくさんの人が研究してるから」

「あーまあそうだよね。危ないものが何かは早めに知っといた方がいいし」

「それにね、さっき片山さんが言ってたことも大事だよ」

「あれ、なんだっけ」

「ほら、『苗字は整理にしか役に立たない』。でも、『整理』も研究するうえで大事なんだ」

「整理整頓が大事ってくらいは分かるけど…」

「だって、こうやって整理しているからこそ、どんな生き物がある土地にたくさんいて、その生物がどんな性質を持っているかをまとめることができる。で、その土地が今どんな状況かわかることだってある。地球温暖化で赤道付近の生物が日本の近くまで来ているとか聞いたことない?」

「そういえば、熱帯魚とか日本の海で見つかるようになったとか聞いたことあるなー」

「そう。もしも『苗字』がなかったら、どの生物がどう動いたかを個別に判断しなければならない。だけれど、それはとても困難だ。何せ、数が多すぎる。でも例えば、『苗字』でまとめたらそれは格段に判断しやすくなる。だから、この『苗字』による整理整頓は『俯瞰的に』見るためにすごく重要な情報なんだ」

「なんとなくわかった気がする。名前の整理ができないと、たくさん生物の情報が入ってきたときに何が何だかわかんなくなるもんね」

「そういうこと」


 ふと私は気になることがあった。学名ってどうやって判断しているのだろう?


「ねえ、とりあえず学名が役に立つことは分かったよ。アブない生物の対策やたくさんの情報をまとめて研究するのに大事なんでしょ?でもどうやって学名ってきめてるの?」


 すると彼はにやりと、どう猛な笑顔を見せた。

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