第2話 幼馴染でありながら彼女とは初めて話す

 網戸から涼しい風が入ってくる。実家にいたときには気づきもしないような微かな風だった。まだこそばゆく感じるけど、いつか慣れる日が来るのかもしれない。そう思うと、少しだけ期待が膨らむ。


 涼夏りょうか大学のある池袋、そこから一駅離れた目白。僕が4月から住み始めたばかりのアパートは、さらにその目白からチャリで5分ほどかかる場所にある。決して広いとは言えない空間だが、暮らす分にはなんとかなる。


 木曜日はハードだ。なぜなら、3コマの授業があるからだ。2つの必修、1つの選択必修。どれも落とすわけにはいかない単位である。とったものすべて、なるべく落としたくはないけれど。

 とにかく、木曜日の3コマは、優先度が高いコマが並んでいるという解釈で差し支えない。


 気づけば出発時間になっていたので、戸締りを確認し、家を出た。


 ♦


 木曜日の1限は情報処理的なヤツ。パソコンがずらっと並ぶ大きな部屋での講義である。といってもほとんどの人は、使い勝手その他もろもろを考慮して、持参したマイノートパソコンを使うわけだから、三十三間堂の仏たちのように並ぶパソコンは、雰囲気作りの道具と化している。


 席順は、基本的には学籍番号に基づく指定席。一回目の時は自分の席を探して右往左往する姿をさらしたわけだが、さすがに僕は二回目もそんなポンコツをする男じゃない。以前の席と同じ場所へ移動し、速やかに着席する。


 席に着いたはいいが、なにか後ろから視線を感じる。振り返ってみると、知っている人と目があった。

 同じ高校ではあるものの、あまりしゃべったことがない人。黒髪のボブに、赤縁の丸眼鏡。基本的に静かで、遠慮がちな性格をしている彼女の名は、青葉 恵あおばめぐみ


 目があったとはいえ、先ほど言ったように、僕たちはあまり話さない間柄だから、何も言うことが浮かばない。とはいえ、一応はお互いに知っている人だし、同じサークルに入りそうな人だし、見て見ぬふりをするというのも憚られる。

 僕は何回かへたくそな瞬きをしてから話しかけた。


「おう……学籍番号、近かったのか」


 言ってから、しまった、と思った。彼女の意図で学籍番号が近いわけではないし、仮にイエスにしろノーにしろ返答があったところで、これを発展させることができる自信はなかったからだ。


「みたいね、前回から」


 青葉は、自分のスマホに目を落としながら言った。ふむ、なるほど、それは話しかけるなという意味かな、とも思ったが、妙なプライドが邪魔をして、話しかけずにはいられなかった。


寺島てらじまから聞いたけど、哲学サークル、本当に入るのか?」


 スマホを操作する青葉の手が止まった。触れてはいけない場所に触れてしまったのだろうか。僕は返事を求めない感じを装って、前を向きなおろうとしたが、その途中に彼女の声が聞こえたので、中途半端なところで止まるような格好になってしまった。


清花きよかにこれ以上介護してもらうわけにはいかないの」


 清花――つまり寺島のことだ。確かに僕の印象では、あのコミュニケーションお化けこと寺島なら、青葉とも差し支えなく接することができるのだろう。言われてみれば高校のころから、青葉が言葉を発している時には、いつも寺島が近くにいた気がする。

 しかし寺島は良くも悪くもコミュニケーション力が高すぎる。青葉や僕以外にも、大学で出会った人たちと、交友関係を広げていくに違いない。青葉的に、その気遣いから抜け出さなければならない、というプレッシャーを感じているのかもしれない。


 それを考えるほど、ある疑問も浮かぶ。なぜ寺島は、悪く言えば一人の友だちに過ぎない青葉に、ここまで優しくできるのか。自分まで同じサークルに入る、と言い出すくらい。


 二人の間には、僕の知らない何かがあるのかもしれないが、なんだか聞くのはやめたほうがいい気がした。いくぶんかしゃべれる寺島ならまだしも、さっき初めて会話した青葉から聞き出すのは、少し酷だ。


 と、考えていたら、考えているだけで、返事はしていないことに気が付いた。せっかくしゃべってくれたのなら、返事をするのが筋である。だが、どんなに引き出しを探っても、気の利いた言葉は出てこない。


「……そっか」


 結局、探すのも面倒くさくなって、そう言うのが限界だった。僕は、もうこの時間に青葉としゃべることはないと感じて、思わず前を向いた。

 ちょうど、ノートパソコンのようなものを小脇に抱えたおじさんの先生が入ってきたところだった。

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