第89話

***




 二日ほど雨の降らない日が続いたが、梅雨が終わった訳ではなく、また今日の昼から雨が降り始め、帰る頃には土砂降りになった。


 ちょうど授業が終わる頃に屋根が割れるような酷い降り様だったため、少し雨脚が弱まるまで教室で待っていたのだが、雨は一向に降り止む気配がなかった。

 先ほどよりは幾分かマシになった気がするので、稔は昇降口で傘を広げた。


「お。よう、倉井だっけか」


 背後から声をかけられた。振り向くと、高等部の二年生、里舘が下駄箱の前で手を振っていた。


「こんにちは」

「おう。ひでぇ雨だな」


 里舘は傘立てから自分の傘を探しながら稔に話しかけてきた。


「いっつも思うけど、中等部と高等部の玄関が同じってなんとかならねぇのかな。まあ、高等部の方が授業終わるの遅いから帰宅時間が被るってことは滅多にねえけどさ。朝はぎゅうぎゅう渋滞になるじゃん」

「はあ……」


 里舘の言う通り、登校時には下駄箱は結構な渋滞スポットだ。


「高等部の方にある玄関って、なんで使われていないんですか?」


 高等部のある校舎にもきちんと玄関はあるのだ。だが、完全に締め切られており何年も使われていないらしい。


「俺もよく知らんけど、昔なんか事件があったらしくて、封印されてんだってさ。おかげでこっちまで来ないといけないから、あっちの玄関ちゃんと使えるようにしてもらいたいって皆言って……あれ?おかしいな」


 里舘が眉をひそめた。


「傘が無い」

「え?どんなのですか」

「んー。渋い緑色の無地」


 朝、置いたところにないという里舘。稔もざっと傘立てを見てみたが、それらしい傘が見当たらない。


「マジかー! 盗まれた?ふざけんなよ、ほんと」


 里舘は天を仰いで唸った。玄関の外は土砂降りの雨だ。


「だ、大丈夫ですか?」

「あー……鞄にエコバッグ入ってるから被って走るわ」


 ビニール製の袋を取り出して頭に被り、里舘は雨の中に飛び出した。

 ばしゃばしゃと泥を跳ねて走っていく後ろ姿を眺めて思わず心配になっていると、下駄箱に石森がやってきた。


「倉井。まだいたんだ」

「ああ」

「今の先輩、傘なかったのか? 俺、鞄に折り畳み入ってるわ」


 もうちょっと早ければ貸せたのに、と傘立てから自分の傘を取り出しながら石森が言う。稔は里舘の走っていった方向を見てから石森に向き直った。


「使わないなら、貸してもらえるか? 追いかけてみるわ」

「いいぜ」


 石森が鞄から取り出した折り畳み傘を受け取って、稔は小走りに里舘を追いかけた。すでにびしょ濡れだろうが、途中からでも傘があるとないとでは大分違うだろう。少なくともエコバッグよりはるかにマシだ。


「里舘先ぱー……」


 すぐに追いかけてきたので、校門を出てすぐに信号待ちする里舘の背中を見つけられた。名前を呼んで駆け寄ろうとした稔は、突然飛び出てきた人影が、里舘に向かっていくのを目にした。


「さっ……」


 フードを被った男が、里舘に殴りかかった。

 里舘は咄嗟に避けたようで、拳は当たらなかった。

 土砂降り男だ。稔はそう直感した。


「里舘先輩!」


 稔が叫ぶと、フードの男ははっと振り向いた。稔に見られていることに気づいた男は、里舘を襲うのを断念し逃亡した。

 稔は里舘に駆け寄って、男が走り去った方向を眺めた。


「今のは……」


 我に返って警察を呼ぼうとしている里舘の隣で、稔は混乱して立ち尽くしていた。


(なんで……)


 土砂降り男が振り向いた時、フードの中は見えなかった。顔はわからない。


 だから、犯人の正体はわからない。

 けれど。


 男が振り向いた時、稔が目にしたのは、縋りつくように男のズボンを掴む小さな黒い影。



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