第82話


***



 翌日も当然ながら文司は休みだった。


「樫塚がいないと我がクラスの……いや、我が校の顔面偏差値が著しく下がるな。多大な損失だ」

「何をほざいてんだ」


 昼休みに教室を眺めて大透が呟いた戯言に、稔は呆れながら突っ込んだ。


「ほざいてねぇよ。事実だよ」

「まぁ、事実だけど」


 呆れつつも、稔もそこは認めてしまった。


「早く治るといいな」

「ああ。あと、早く犯人が捕まらねぇかな。石森がなんか怖い」


 石森は表面上は普段と変わらないのだが、傍に寄ると雰囲気がピリピリしている。親友が通り魔に襲われて怪我をしたのだから無理もない。

 稔は樫塚用にノートを書き写す手を止めて石森の席を見た。机に突っ伏して寝ているが、「俺に触れるな」という空気がびしばしと発されている気がする。


「土砂降り男、か」

「ん?」


 大透が聞き慣れぬ言葉を呟いたので、稔は視線を戻した。


「前の被害者が襲われたのも土砂降りの日だったから、ネットでそんなあだ名が付いてんだよ」


 大透がそう説明して軽く肩をすくめた。

 なるほど、と稔も小首を傾けた。文司が襲われた時も土砂降りだったから、得体の知れない犯人にそんな名前を付けて騒いでいるのだろう。普段ならなんとも思わないが、友達が被害者となっているため複雑な気分だ。


「まあ、どうせすぐに逮捕されるだろ」

「ああ。そうだといいな」


 予鈴が鳴って、石森がのっそりと身を起こした。





 昨日からずっと冷静になろうと心がけているのだが、どうしても沸々と煮えたぎる怒りが静まらない。小学校の頃は常に暴力的な同級生から文司を守ろうとしていたから、すっかりそれが身についてしまっているのか、文司が誰かに殴られたと聞くと自分の失敗のような気がしてしまう。

 通り魔事件の捜査に自分の出る幕などないし、出来ることなどないとわかっているのだが、それがどうにももどかしく感じてしまう。

 もやもやした思いをそのままに拳を突き出すと、横手から穏やかな声がかけられた。


「誰かを殴るための拳では、「型」が崩れるよ」


 町山が少し困ったような笑い方で石森を見ていた。


「石森君はいつもきっちりとしているのに、今日は心が乱れている気がするね」


 見破られて、石森はばつの悪い表情を浮かべた。


「嫌な事件があったから、気持ちはわかるよ。でも、人への憎しみを拳に乗せてしまうと、それが癖になってしまうこともある。綺麗な「型」が崩れてしまう前に、一度休憩を取った方がいいね」

「……はい」


 確かに、今日は部活に来てからずっとどろどろした思いをぶつけるように練習していた。

 あんな事件があったから、今日もすべての部活が早めに終わることになっている。

 空手部の部員達も事件についてあれこれ囁き交わしていて、それを聞きたくなくて振り切るように拳を繰り出していたところもあるかもしれない。

 石森は武道場の隅に寄って他の部員達の練習を見学した。


 外からはさああっと雨の音が聞こえてくる。朝は降っていなかったのに、いつの間にやら降り出したらしい。帰るまでには止みそうにないな、と石森は憂鬱になった。


(樫塚は熱が下がっただろうか)


 文司の顔に残された痣を思い出す。咄嗟に鞄で顔を庇ったと言っていたが、それでもあんな痣がくっきり残るということは相当な力で殴ったということだ。

 普通、人を殴ると殴った方も怪我をする。鍛えていない人間がいきなり人間の顔面を殴ったりしたら、間違いなく指に怪我を負う。指に包帯をぐるぐる巻きにしていてくれたら犯人を見つけやすいのだが、そんな間抜けだったらとっくに警察が逮捕しているだろう。

 殴っても皮膚が裂けたり指が折れたりしないのなら、それは人を殴り慣れているか、或いは空手などの武術の心得があるかのどちらかだ。

 石森は自分の鍛えた拳を握って唇を噛んだ。文司の親友としても、武道を嗜む者としても許せない。


 ふっ、と息を吐いて道場を見渡す。そろそろ部活終了の時刻だ。コーチが時計を見上げて、キリのいいところで声をかけようと様子を窺っている。

 いつの間にか、隣に誰か座っていたことに気づいた。黒い頭がゆらっと視界に入る。

 そろそろ集合の合図が掛かるかと、腰を上げようとした。

 その時、ふと、違和感を覚えた。

 視界の端に入っている黒い頭。

 体育座りをした石森の、立てた膝の高さに頭がある。


 おかしい。


 どんな座り方をすれば、そんな位置に頭が来るんだ。そもそも、そんな近さに頭があれば、肩がぶつかるはずだ。中学生の男子が、頭が視界に入るほどすぐ隣に座っているのに、肩がぶつからない訳がない。


 息が詰まった。体がぎしっと硬直する。


 自分の隣に、何がいるのか。


 石森はゆっくり息を吐きながら、座ったままの体勢で横にずれて黒い頭から僅かにでも離れようとした。

 だが、じり、と腰を動かした瞬間、


 ぐるんっ!!


と、黒い頭が勢いよくこちらを向いた。


「ひぅっ……っ!!」


 思わず叫んで身を引いた。肘が床にぶつかる。


「石森君、どうした?」


 町山が飛んできた。


「顔が真っ青じゃないか。何があったんだい」

「……いえ」



 ごくりと息を飲み込み、石森は何もない空間を見つめた。

 気のせいだった、とは思えない。はっきりと、黒い頭を見た。


「なんでもありません。すいません」


 どくどくと鳴る心臓を落ち着けようと荒い呼吸を繰り返しながら、石森は心配する町山に答えた。



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