第80話
放課後に近づくに連れて、雲行きが怪しくなってきた。
傘を持ってきていない大透は「雨が降らないうちに帰る」と珍しくもさっさと教室を出ていった。
「俺ももう帰るわ。樫塚は?」
一応。小さな折り畳み傘を鞄に入れてあるが、強い雨が降ると心許ない。靴が濡れるのも嫌だし、早く帰ろうと稔も席を立った。
「俺は委員会があるんで」
「……お前、よく図書委員なんかになったよな」
ほんのひと月前に図書室のあれこれで死にかけたのを忘れたわけではあるまいに、と稔が呆れた顔をすると、文司は情けない顔で笑った。
「まあ、本は好きですし。図書室自体は別に怖い場所じゃありませんし……竹原は命の恩人ですから」
確かにそれはそうなのだが、図書室に行ったのがきっかけであんな目に遭ったのだから、二度と近寄りたくないと思ってもおかしくないだろうに。
ちなみに稔はあまり図書室に近寄りたくない。竹原はすでに成仏しているので霊的には問題なのだが、
「おう、樫塚! 委員会で遅くなるんだろ? 俺の部活終わってたら一緒に帰ろうぜ」
石森が大きく手を振りながら教室を出ていった。
「はりきってんなぁ、空手部」
「先週から臨時コーチが来てるんで、気合い入ってるみたいです。頑張れば大会に出してもらえるかもって言ってました」
「へぇ。すげぇな」
空手に興味はないから詳しくは知らないが、どうやらクラスメイトは期待のホープらしい。
空手部のホープに頭脳明晰なイケメン、セレブなオカルトマニア、中学に入って出来た友人のキャラがやけに濃い。
自分も「霊感少年」以外の特徴というか特技が欲しいな、と溜め息を吐きながら、稔は帰途についた。
***
「はい。疲れたら休んで。出来る人はもうちょっと続けよう」
先週から来ている臨時コーチは武道を教えているとは思えないほど優しい態度で、部員の中には拍子抜けしている者もいる。病気療養で休んでいる前コーチはいかにも体育会系のスパルタだったため、その落差を歓迎する者と反発を覚える者とがちょうど半々くらいだ。
石森はどっちでもいいと思う。やり方は違うが、二人とも間違った指導をしている訳ではないと思うからだ。
反発を覚える者達からは、臨時コーチの町山が若すぎて頼りないという意見もある。確かまだ二十二歳だと言っていた。おまけに、柔和で優しげな顔立ちをしているため、どうしても上級生からは舐められがちだ。
「雨が降ってきそうなので、竹尾先生と相談して今日は少し早めにあがることにしました。お疲れ様。雨に濡れないようにね」
一年生は「ラッキー」と呟いたが、三年生からは不満の声が上がった。「雨が降りそうなぐらいで」という文句に、町山は柔和な表情に少し陰を差して言った。
「俺は高校生の頃に雨でずぶ濡れになって、高熱を出して死にかけたんだ。ちょっとぐらい、と思って濡れたままにしちゃいけないよ。気をつけて帰りなさい」
優しい上に心配性だ。確かに頼りないと言われても仕方がない部分もあるな、と石森も思ってしまった。
教室に寄ってみたが、文司の鞄はまだ席の横に引っかかっていた。どうやら、委員会はまだ終わっていないらしい。
待とうかと思ったが、教室の窓から見た空は今にも雨が降りそうに暗くなっている。雨が降り出さないうちに帰りたいので、文司の携帯に「先に帰る」とメッセージを入れて石森は一人で学校を出た。
鞄に折り畳み傘は入っているが、出すのが面倒くさい。雨が降る前に走って帰ろう。文司は傘を持ってきていたので大丈夫だろう。
家に帰り着くまで雨が降らないように祈りながら、石森は駆け出した。
***
「……嘘だろ」
何遍見ても、朝置いた所に傘がない。
玄関のガラス扉の外は結構な大雨だ。
傘を持ってきていない誰かが、持っていってしまったのだろう。
そりゃ確かにビニール傘ではあったが、間違えないように柄に色テープを巻いていたのに、と、文司はがっくりと肩を落とした。
去年の強風の日に壊れてしまった折り畳み傘をそのままにせず、新しいのを買いに行っていれば良かったと項垂れるが後悔先に立たず。
雨の勢いからして、しばらくは止みそうにもない。
「はぁ……最悪だ」
濡れ鼠になる覚悟を固めて、文司はよろよろとガラス扉に手をかけた。
ぐっしょり濡れた制服が重くて気持ち悪い。ばしゃばしゃと水たまりを跳ね上げて走っているので、スラックスも泥まみれだろう。早く帰って洗濯機に放り込み、熱い風呂に入りたい。
風邪だけは引きたくないものだ。先月、何度か倒れたり早退したり欠席したりしたせいで、「樫塚は病弱」と思われている節がある。原因は「霊障です」とは言えないし、入学したばかりでこれ以上出席日数を減らしたくない。
前髪を伝って顔に流れてくる雨を拭いながら、文司は懸命に走っていた。
ふと、雨の中を前から走ってくる小さな影が見えた。
(え? あんな小さな子が、こんな雨の中……)
距離がある上に雨のせいでよくは見えないが、どう見ても幼児としか思えない。
(親は何やって……)
愕然とした文司だったが、走るうちに不自然な点に気づいた。
幼児らしき影はこちら向きに走ってくる。文司も走っている。
それなのに、少しも近づいてこない。距離が縮まらない。
ぞく、と寒気がした。
次の瞬間、小さな影がふっと消えた。
文司は思わず足を止めた。
(今のは……)
何だったんだろう、と立ち尽くす文司の背後から、濡れた地面を踏みしめる足音が聞こえてきた。
はっ、と振り向いた文司は、襲ってきた衝撃に鞄を落とし地面に倒れ込んだ。
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