第50話
壁に貼り付けられているはずの鏡が、まるで意思を持ったようにガタガタと揺れていた。
その鏡から、細く小さい手が何十本も生え出ていて、少年の腕を掴んでいた。
「倉井っ」
鏡に引きずり込まれそうになっている高遠のもう片方の腕を掴んでいた大透が声を上げる。その大透の腰に手をまわして、文司が踏ん張っている。少年が振り向いた。稔と目が合った。
「高遠……信行だな……」
稔が言うと、高遠は大きく目を見開いた。
「どうして……」
「倉井っ!どうにかしてくれよっ。はりきって来てみたらこんな状況で……こんなすげー場面なのにカメラまわす余裕もねぇ!」
大透が肩に掛けたデジカメを目で指して言う。そういう問題ではないと思うが。
「いいか。高遠、よく聞けっ」
大透と一緒に高遠の腕を引っ張りながら、稔は叫んだ。
「お前の憎しみが連中を呼び寄せたんだっ!鏡に向かって帰ってくれと頼めっ」
だが、高遠は恐怖に歪んだ表情で鏡から目を逸らしている。
「その鏡の中に何が見えてるのか知らないけど、それはお前が呼んだものだ!お前が、そこにいてほしいと、無意識のうちに望んだものなんだっ」
(僕が、望んだ?)
高遠には、何を言われているのかわからなかった。いったい誰がこんな恐ろしいことを望むというのか。
だが、稔はさらに言い募る。
「庭に餌を撒けば鳥が集まるだろ!お前がやったのはそれと同じことだっ。ここでいつも憎しみを振りまいていたっ、それにつられて奴らが集まって来たんだっ」
(……憎しみ)
高遠は、鬼のような形相で鏡を見ていた自分の姿を思い出した。
では、一連の出来事は、すべて自分が引き起こしたことなのだろうか。
(じゃあ、新井も、久我下も、藤蒔も、僕のせいで……?)
ズズッ
「うわあっ!」
急に強く引っ張られ、稔達は声を上げた。高遠の腕が、十センチほど鏡の中に沈む。
「高遠っ!しっかりしろよっ!」
だが、高遠はうなだれたまま、顔を上げようとしない。じりじりと右腕が鏡に引き込まれていくのに、それに抗う様子も見せない。
「おいっ!」
稔の呼びかけに、ほんのわずかに顔を上げ、うつろな目で稔を見た。
「……いい……よ、放してくれて……」
「なっ……」
稔は絶句した。高遠は自嘲の笑みを浮かべ、視線を床に落とした。
(……僕のせいで、ここに霊が集まった。僕のせいで、三人も大怪我をした)
「僕は……責任を取らなくては」
高遠の声は、先程までとはうって変わって静かな強さを持っており、そこにある種の覚悟が感じ取れた。
「ふざ……けんなっ」
高遠の右腕は、すでに肩まで鏡に引き込まれてしまっている。渾身の力で高遠の左腕を引っ張りながら、稔は呻いた。
「ここまでやっておいて……楽な方に逃げるんじゃねぇ」
「……楽?」
稔の言葉に、高遠はぴくっと肩を震わせる。
「そうだろ。お前はさ、鏡の中にいるものに、帰れというのが怖いんだ。もしここで助かってしまったら、あの三人に会わなきゃいけないから……それが嫌なんだろ?怖いんだろ?だから、逃げようとしてるんだ」
高遠の心臓が、どくんっと跳ね上がった。
「違う。僕は、そんなことは……」
否定しようとした言葉が、途中で止まった。どこかで、もう一人の自分が稔の言葉を素直に受け入れた。そうだ。怖いのだ。と、その自分が言う。
自分の憎しみが呼び寄せたものを見据えるのが。ここで助かってしまうのが。怪我をした三人に向き合うのが。
怖いのだ。
三人の姿を見るたび、思い出すたびに、自分のやったことと向き合わなければならないことが。自分の罪を、抱えて生きるのが。
「俺も、倉井の意見に一票だな」
大透が言う。
「高遠さん、あんた、こういう形で終わらせちゃいけないよ」
「俺も……師匠に賛成。楽な道が正しい道とは限らない。もし、俺が藤蒔だったら、こんな責任の取り方はしてほしくない」
文司も苦しそうに言う。大透も文司も、真っ赤な顔をして、汗をだくだく流している。二人とも、限界が近いらしく、足がガクガク震えている。かくいう稔も、腕の筋が切れそうなほど痛い。これ以上はとても踏ん張れそうになかった。
「これで最後だ。どっちか選べ。逃げるのか、それとも……」
稔の言葉は途中から呻き声に変わった。じりじり、じりじりと、四人は鏡に引き寄せられていく。
(だめだ、もう、抑えてられない……っ)
稔は、最悪の事態を覚悟した。高遠が鏡の中に引きずり込まれて、はたして霊達はそれで満足して帰ってくれるだろうか。行きがけの駄賃に他の三人まで引きずり込まれてしまう可能性も十分にある。
(くそっ。やっぱり来るんじゃなかった)
稔は心の底から後悔した。
「……帰って……ください……」
細い声がした。顔を上げた稔は、高遠が目の前の鏡をまっすぐに見据えて唇を震わせているのを目にした。
「僕は、そっちに行きたくない。ここで、やらなきゃいけないことがある」
高遠の言葉に、徐々に力がこもっていく。
「僕は、ここに残って、自分のやったことと向き合わなきゃいけない。だから、もう、帰ってくださいっ!」
動きが、止まった。高遠を引き込もうとしていた力が、不意に解かれた。
「僕には、もう、あなたたちは必要ないっ!」
高遠はまなざしに力を込め、睨むように鏡を見据えた。
「だから、帰ってくださいっ!」
叫んだ瞬間、バーンッと、何かが弾けるような音がして、目の眩むような閃光がほとばしった。
「うあっ!」
同時に、何かがぶつかってきたような衝撃があって、稔達はトイレの壁に叩きつけられた。
それから、甲高い哄笑が辺りに響いたのを、確かに全員が耳にした。
それがおさまった時、目を開けた稔は、何ごともなかったように壁に張り付いてトイレの様子を映している鏡と、その前に呆然と立ち尽くす高遠の姿を目にした。
高遠は、その場にへなへなと崩れ落ちて、床に膝をついた。
その後、這う這うの体で家に帰った稔達は全員が一晩高熱を出した。
幽霊の毒気にあてられたものと思われる。
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