第9話


***

 カツカツと黒板に書かれていく数式を目で追いながら、文司は睡魔と戦っていた。夕べ、変な時間に目が覚めたせいか、なんだかやたらと眠い。

(さっきのは、何だったんだろう)

 眠気を紛らわすため、文司は斜め後ろの席で授業を受ける稔のことを考えた。

 あの時、稔が上級生に何かを囁いていた。それを聞いて、上級生は真っ青になって逃げ出したのだ。

(一体、何を喋ったんだろう……?)

 稔の表情は静かで、脅しをかけているようには見えなかった。石森を殴ったような暴力的な上級生が青ざめるような、何を言ったのだろう。

 殴られた石森のことを思うと心が沈んだ。自分のせいで殴られたのだ。これぐらい平気だと笑っていたが、痛くないわけがない。

 石森には昔から迷惑をかけてばかりだ。小学生の頃から、石森はいつも文司の味方をしてくれた。

(俺が、弱いから、石森はいつも……)

 目を閉じてぼんやりと小学生の頃のことを思い出していた。その時、

 突然、右腕を誰かに強く握られた。

「……!」

 驚いて目を開けた文司は、自分の右腕にしがみつく髪の長い少女を見た。

 思わず一瞬硬直した文司は、少女の口がゆっくりと動くのを至近距離で目にした。

―― こ っ ち へ キ て ――

 次の瞬間、反対側に強く体が引っ張られた。突然のことに対処できず、文司は椅子ごと左に倒れ込んだ。

 突如上がった派手な音に、教室中が文司に注目する。

「おい、大丈夫か樫塚」

 教師が声をかける。だが、文司は床に尻を付いたまま起き上がろうとしない。

「樫塚?」

 石森が席を立って駆け寄る。

「おい、どうした?」

 その声が聞こえていないのか、文司は自分の右腕を掴んだままがくがく震えている。

 様子がおかしいのに気付いて、石森が文司の肩を掴んで揺さぶる。

「樫塚?おい!」

「あ……」

 石森の声が聞こえたのか、文司が顔を上げた。

「大丈夫か?」

「あ……うん……」

 よろよろと、石森に縋るようにして立ち上がる文司の顔は蒼白だった。それを見た教師が、石森にそのまま文司を保健室に連れて行くように命じた。文司は大人しく石森に支えられて教室を出ていった。

 それを見送って、稔は苦い顔をした。どうやら、文司に取り憑いている霊は大人しくしているつもりはないらしい。問題は、どの程度文司を痛めつけるつもりなのか、ということだ。少々のお仕置きで済ませるのならばこのまま放っといてもいいような気もするが、どうにも嫌な予感がしてならない。

(でも……俺には何も出来ないし……)

 冷たいように思われるかもしれないが、幼い頃から心霊の恐ろしさを嫌というほど知っている稔は、こういう場合他の人間よりも防衛本能が強く働く。

(これからどうなるんだろう……)





 黒板を眺めながらのんきにそう考えた自分を殴りたい。

 そんな気分で、稔は図書室の前に立っていた。

「何事も現場百回って言うもんな!」

 三時間目の授業終了とともに稔をここまで引っ張ってきた大透は、何故か自信満々な態度でうんうんと頷いた。

「あ・の・な・あ!お前が図書室に百回通おうが千回通おうが取り憑かれようが俺には関係ないから止めないけどな、俺を無理矢理巻き込むのは止めろ!」

「えー、だって倉井が来なきゃ意味ないじゃん。霊が出ても俺じゃあ見えないし話せないし」

 若干キレ気味の稔に、大透はなんら悪びれることなく飄々と言う。この全く悪気のない天然の傍若無人ぶりはどこで培われたのだろうと、稔はやり場のない怒りを握り拳に込めた。

 土曜日は十二時半で図書室が閉められてしまう。だから急ごうと背中を押されて、稔は嫌々図書室に足を踏み入れた。図書室の中にはカウンターに図書委員が一人いるだけで、他に生徒はいなかった。

「で、どうすんだよ」

「霊視霊視!」

「出来ねえよ!」

 入り口でぼそぼそと囁き合っているのが不審だったのか、図書委員がこちらに胡乱な目を向けてくる。稔はとりあえず大透を本棚の奥に引っ張り込んだ。

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