第31話現代的な怒りについて

過去の哲学者は「怒りについて」残しています。



私の腹にストンと落ち着いたのはセネカでした。


日本語版のタイトルはズバリ「怒りについて」です。そのままですね。


セネカは様々な視点から怒りについて考察をしており、他者が怒りは誇り高くもあるではないかと言われれば、そう見えるだけで、怒っている者の姿に気高さは見いだせないとします。



我々は怒りの有用性ではなく危険性にこそ今目を向けるべきだと感じます。



私は最近冷めない怒りに苛まれています。

平気で他人を踏みつける人々。

僅かな利得の為に道を逸れる人。

陰謀囁かれる怪しい団体。

人々が毎日ご飯を食べられない世の中。



自分ではどうにもならない事柄に怒っているのです。

蝋燭が灯芯を燃やして己が崩れる様に。

怒りとは損得勘定をすると全くの損である感情なのです。そして己のみならず相手まで焼いてしまいます。


私はそんな時にセネカや悟りへの漢詩を素読したりして少しずつ冷ましているつもりです。


ですが己が未熟。この私の「ぼやき」に怒りが滲んでしまっています…


ご迷惑をおかけしております。



セネカは著書で申しました。

人は言う。徳は高潔な事柄に好意を抱く。それと同様に、卑劣な事柄には「怒って」しかるべきだ。

それに対してセネカは矛盾点を突いています。

それでは、徳が高くなればなる程「怒り」が増えるではないか。

そうですよね。

徳を現代風に「正義感」とするとわかり易いかもしれません。

正義感故に悪事を見過ごせず、止めに入る。

昔の漫画や小説にも勧善懲悪ものが多種あり、悪人が正義の味方に叩きのめされるのに「快感」を覚えたりもしたと思います。


ですが大半は解決方法は「暴力的」であり、義憤と言う「怒り」に繋がります。

正義感は個人的な視点でありまして、その人物が悪事とみなすのも個人の視点とも言えます。

故に正義感にかられて感情の赴くままにぶつけるのは「怒り」と変わらないと思います。

徳の話でも、悪事を責立てるその徳の心根は悪事よりも醜悪な怒りに侵されていて、悪事を正した時に「快感」を得る為に、徳を卑劣な悪事へ当たる為の感情とし、結果として徳を貶めていると。



遥か昔の哲人が斯様に申します。


私は己の悪行である怒りを見つめます。

そしてその怒りに嘆き「悲しむ」のです。

ですがセネカは更に言います。


悲しみは怒りの仲間であり、怒りは、後悔や失敗のあと悲しみに舞い戻る事になる…


見事に看破されていました。


自分を棚に上げますが、温故知新として昔の聖賢の士の言葉は見聞きするのが己の為だと思います。





ピーソーは一人の過失から三人を殺してしまう


セネカの話に出てくるグナエウス・ピーソーと言う将軍の話です。

この話は、怒りは己を改める事が無く、またたく間に正当化してしまう…と言う話です。


ピーソーの軍団から二人組の兵士が休暇に出て、休暇から一人だけ戻りました。

ピーソーはそれを聞いて、帰らない一人をその帰り来た一人が殺したとみなして死刑を百人隊長に命じます。


当時兵士は複数人で休暇に出て、お互いに監視をしながら原隊復帰する仕組みだったのでしょう。それが二人組が一人で帰ったので疑われた様です。


そして百人隊長が兵士を捕らえて、首を出させて斬首しようとする時に、殺されたとした一人がひょっこりと戻ってきました。

兵士は仲間を殺害しておらず、ちょっとした行き違いだったのです。


仲間たちは歓声を上げて歓迎します。

百人隊長も泣いて抱き合う二人の兵士をピーソーの下に連れていきます。

ピーソーを死刑を命じた身から無辜の身にもどしてやる為に…


三人を見たピーソーは「怒り」ました。

そしてたちまちに言いました。

始めの一人には、お前は既に断罪されているから死刑だ。

遅れ帰った一人には、お前は一人を断罪する原因になったから死刑だ。

百人隊長には、お前は断罪を命じられながらも命令不服従であるから死刑を命じる。


怒りとはとても器用に人を殺してしまうものだ…とあります。


この様な事は往々にして起ります。


誰もが振り上げた拳を下げるだけの「余裕」を持っている訳では無いのです。



哲学ではありませんが、上記の「余裕」についての仏教の話です。


古代インドで奴隷にもとても優しい女主人がいました。

ちょっとした粗相にも柔らかく応じて許してしまうのです。

人々は仏に帰依しているから温和な人であると言いました。


奴隷や召使いはとても身分が低く、当時も悪辣な扱いが横行していました。

そしてある奴隷が、どうしてうちの女主人は寛大なのだろう…少し試してみよう。そう思いたちます。

その奴隷は朝から花瓶を落としたり言いつけを忘れたり食事を落としたりしました。


すると女主人は普段の温厚な顔は何処ヘやら。

怒りの形相で奴隷を打擲して罵声を吐いて立ち去りました。


奴隷は確信しました。

私の主人は「余裕」があったから「寛容」であったのだ。けっして仏のお力では無かったと。


これは仏教話ですが、ここでも「怒り」は忌むべき物とされていますので、人々が他者や自分の怒りの感情に忌避感や危うさを持っている事が伝わります。





ヒエローニュモスが言う。

誰かを打とうとする時、何故君のほうが先に唇を噛むことが必要なのか。


これもセネカの著書の中身です。

こう続きます。

総督が審判席から飛び降りていき、先導吏から儀鉞(ぎえつ)を奪い取るのを、そして衣服を、他人の衣服が引き裂かれるのが遅いので己の衣を引き裂いてしまうのを。

どうてし食卓をひっくり返すのか。

どうして盃を粉砕するのか。

どうして己の体を柱にぶつけるのか。

どうして髪を掻きむしり、腿や胸を叩く必要があるのか。


あなたは怒りがどれほど大きいと思っているのか

それは他人に対して自分が望むほど早く爆発しないので、自分自身に向って破裂しているだけだ。


セネカの怒りについて、より。


怒りとは人間が生まれて、とても早い段階で開花する感情です。


それは一説には差別によって起こります。

自分の権益を侵された時です。不利益の時です。


動物実験でも、人に近い猿がその非人道実験に晒されました。


内容は同じ作業をした二匹の報酬を「差別」するのです。

初めは二匹に同じ報酬、果物等を与えていたのですが、ある時から一匹には報酬に野菜を与えます。


すると野菜を与えられた猿は理解ができずに果物を貰った猿を見ているそうです。

それが続くとその差別された猿は「怒り」、報酬の野菜を受け取らなくなるそうです。


差別や怒りとは人間以外にも備わる悪癖なのです。




相手が先に怒らないから自分が怒るのだ。


これもお粗末な事です。自分が気に入らない相手が上手で挑発に乗らないので自分が先に爆発する…上記の話の様に、引き裂き、暴れ、威嚇する動物に人は化けてしまいます。



大陸の古典に。


仏教の修養は日常生活を修養とすればおのずから悟る


と、あります。怒りの感情はキリスト教の七つの大罪にもあります。そして仏教でも忌むべきものとされます。

それを日常生活での修養で心身を補えると言います。


では日本の全くの関係のない「職責」に対する心得を説いた江戸時代の書物。


佐藤一斎が著した重職心得箇条にも近しい一文があります。



凡そ政事名を正すより始まる


私約ですが。言葉を正し、注意深く使いなさいと言う意味合いです。


人と付き合う上で言葉程良し悪しで誤解を与える物はありません。

言葉が乱れると人の心も乱れます。そして不満も生まれるのです。

ですから正しく言葉を使いましょうと。


普段から罵声を浴びせられていたら、それが必要だったとしても「イジメ」なのです。

そこには「怒り」による報復が待っています。


さらに。


行動も誤解を与えます。

又小事に区々たれば、大事に手抜かりあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜目あるべからず、斯の如くして大臣の名に叶ふべし。


これも私約ですが、細々とした事ばかりに捕らわれて指図するよりも、もっと大きな事に間違いが無いか気に留めよ。些末事を省くなら普段の行いが現れるもの。それが大事にも現れるから、普段から小事にも大事にも叶うようにしてこそ大臣の名に相応しい。


大臣、そう言われると自分には関係ないと思う人が多く居ると思います。

それこそが小事に区々なのです。人は自分の主人公がおります。ですから己の事は大事な事と弁えて努め、日々の小事、行いを正すべきです。

己を律してこその感情の制御。

そして普段から大事に備えて勉学や仕事や生活をおくっていれば、本当の大事(おおごと)にも焦り怒りとは遠く対応出来る。

やはり日常生活も修養なのです。


横道ですが。

ある社員が経営学の本を読んでいるからとして、その会社の社長がそれを笑うなら会社に「不利益」です。

社長が侮らずその社員を気に留めて「下問」をして初めて同じ会社に勤める友となれます。

笑う事は「攻撃」なのです。

笑ったならその社員は知識を明かさずに他社に行ってしまうかもしれません。

そこに社長自ら「質問」をして気持ちの共有をはかれば、そこに怨みもなく、社員は力になってくれるかもしれません。

そしてその社員が経営学の本を読んでいる事こそ、普段から大事に備えている証であるとも取れます。馬鹿にしたものではありません。



「現代の」怒りについて


今回私見を交えて記してみましたが、哲学的なアプローチ以外にも、仏教的、経営学的にも「怒り」について関係のありそうな訓話が出て参りました。

人は木を見て森を見ずとも言いますが、ゆっくりと視野を広げると、己の怒りによって視野狭窄の自家中毒を起こしていた…と言う事にも素早く気付け、拳を収める事が出来たなら。


古代から続く怒りの連鎖を断ち切る人が現れるかもしれません。



そして


怒りの反対の感情は「感謝」です。


怒りの湧くに押され乱暴になる前に、怒りを雑念と割りきり、他者や自分への感謝へ気持ちを変える。


真反対の感情へのシフトですからとても苦しい判断です。


ですがこれも日常生活を真剣に生きていたならば「感謝」へ移りやすいと思います。


家族


友人


朋輩


自己


世界


私は修養が足りないので友人への感謝で何とか現世に留まっている愚か者ですが…



誇りを傷付けられ


尊厳を笑われ


財産を奪われ


身体を損ない


家族友人を失い


努力を奪われ


奴隷の奉仕を求められる…



ですが怒りによる報復は寄る辺も同情も得られず、人々を脅かすのみ。



「カッとなってやった…」


それでは救われません。



皆様。


根深い悪意とは皆様に「怒り」を誘発させて皆様を貶め、終いには人生を狂わせる事を楽しみにしている完全な悪である、獣性が存在するとセネカも警鐘を鳴らしてします。




顔の見えない人々とも交流しなければならない昨今。


皆様ご注意下さい。

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