第28話一芸は萬に通ずる
一芸は萬に通ずる…
一つを極めた人は他の事柄についても何かしら通じるものがあり素人ではない…
と言う様な意味でしょうか。
戦国時代末期から剣の道に生きていた剣豪宮本武蔵
宮本武蔵は有名な二天一流を創始し、刀のみならず様々な武器に通じる当時の武器術を束ねた流派を起こし
五輪書を著作し
更には水墨の書画においても並々ならぬ才覚を発揮されています。
宮本武蔵の本体は武器術を極めた剣豪であるかもしれません。ですがその様な「動」を極めた宮本武蔵は「静」の世界の書画にも名を残しました。
同じく戦国時代末期でしょうか。
徳川家に仕えた兵法指南役であり後の大名である柳生宗矩は父から引き継いだ剣術を極め進め、柳生新陰流をして将軍家の兵法指南役となりました。
更には「禅」にも道を見出しています。
柳生新陰流は「活人剣」として「殺」から離れ人を「生かす」術としました。
それに禅は精神に作用し、兎角「動」に傾く剣術を「静」に留めました。
奇しくも剣術の世界の話になりましたので一部他の剣術にも。
何も二天一流のみが武器術を体現していた訳ではありません。
鹿島神宮に大明神から「授かった」とされる香取神道流は刀以外にも槍や薙刀も勿論極めますし、槍の穂先が折れた時に備えて杖術も修めます。
更には「剣術の極み」とも言える一刀…
一ノ太刀
が、香取神道流に存在しているとされます。
武術に生涯を捧げた「最高の一刀」として名前が伝わります。
武器一つとっても様々な流派が一つの武器のみならず多芸を修めています。武器術に関しては萬に通じる流派は多いと思います。
柳生新陰流を開く前の柳生宗厳は上泉信綱から新陰流を学んだとされます。
そして柳生宗厳は後世まで語られる
無刀取り
を、編み出したそうです。
これも武の極地でしょう。
「動」を「静」が抑えています。
一ノ太刀については不明な点が多く文献に名が有るのを少し見るだけですが、無刀取りは様々なものが語られています。
少し横道ですが。
豊臣政権時代の関白秀次公の逸話に残ります。
関白秀次公が柳生宗矩が無刀取りの使い手と聞き、是非に見たいと招きました。
宗矩は「隠すものではありません」として無刀取りの披露をすると了承しますと、秀次公が刀を抜き宗矩を「拝み切り」にすべく斬りかかります。
宗矩はすっと走りより振り下ろされるより早く秀次公の刀の握りを蹴り上げて秀次公から刀を弾き飛ばしてしまいます。
秀次公はその見事さに感じ入り弟子入りをしたと言うのですが…
それを聞いた太閤豊臣秀吉公は苦い顔をして、「秀次めは関白の器ではない」と嘆いたそうです。
恐らく秀次公は少しでも己を高めようとしたのでしょうが…
他にも別の無刀取りがあります。
徳川将軍家の指南役になった時のお話です。
将軍が是非無刀取りを見たいとおっしゃいます。
すると指南役が。
「でしたら襖の影に盗み見して居られる人が居りますのでお人払いを…」
そう言います。
将軍はそれを信じて襖に注意しようとしますとすかさず指南役は将軍から刀を取り去ってしまいました。
「これも無刀取りです」
将軍は流石に柳生新陰流よと感心されたとか。
無刀取りは秀次公への「動」の無刀取り。
将軍に対する「静」の無刀取りとがありました。
静と動を合わせて持つ事はまさに「萬に通じる」と申せましょう。
どの道も、極めると何処でも素人ではないとは言い得て妙ですかね。
つわものと医師
新選組のお話です。
新選組の行動は苛烈を極めていました。そして規律が厳しく、違反は最悪「切腹」となります。
新選組は何を、一芸を極めたのか?
それは「武士足らんとした精神」だと思います。
新選組の中心メンバーは徳川家直轄の「天領」の出身者が主でした。近藤勇、沖田総司、土方歳三…彼等は同郷と伝わり、天然理心流の同門でもありました。
少なくとも彼等三人、他にも初期のメンバーは同郷が多かったそうです。
そして彼等は「武士」に憧れて剣術に向き合います。
徳川家、旗本八万騎。
徳川家にはそれだけの武士の常備軍がありました。
ですが武士が政治家、官僚へ姿を変えて行く過程で武術は弱り、更には「武士」の肩書を商人等に金で売ったりもしていました。
ですから八万騎、揃う事能わず。
櫛の歯が欠けていくように戦の出来る武士が減っていきます。
そんな中で新選組は都での重要な過激派浪士の摘発の「最前線」で戦っていました。
そして活躍を認めた雄藩の後ろ盾もあり、念願の「士分、武士」として取り立てられました。
横道ですが。
壬生狼…
そう呼ばれ嘲られたり恐れられたりもした新選組でしたが、実はかなり「モテた」そうです。
土方歳三等は故郷への手紙に「モテてモテて困っている」と言う様な手紙を送ってもいます。
なんとも若者らしい溌剌さがありますね。
戻りまして。
ですが
新選組の活躍した幕末。
大政奉還後の徳川慶喜公が幕府の総力をあげての鳥羽伏見の戦い…
そこに集まった「旗本」は「子供」が多かったとする説があります。
先にも述べましたが、新選組は認められ「武士」となりました。勿論慶喜公に従い従軍します。
彼等は言い方が良くないですが、「武士」を「美化」していました。
ですから法度も苛烈で自分達こそが「真の武士」となる様に振舞いました。
ですが…
新選組の求めた本来の武士達は旗色悪いと見て士気も低く…
そして戦場に子供…何故急遽元服したての若者が最前線に従軍しているのか?
それは壮年の当主が「死にたくない」として出陣を拒み、急遽跡取りに当主を譲り隠居した者が多かったので…「親の代わりに死ぬ」為に若者…子供が幕府軍には多かった…と、一説にはあります。
新選組の落胆と悲しみはいかばかりであったでしょうか。
時は少し巻き戻ります。
幕府から御典医松本良順が新選組の詰め所にやって来ます。
新選組は切った張ったの武闘派集団です。
ですが御典医は恐れずに言いました。
「怪我人が多い。場所を広くし、病室を作り、清潔に、風呂も用意しなさい。そして滋養のあるものを与えなさい」
鬼の副長
土方歳三に言いました。
土方歳三はその日のうちに御典医の言う通りに調えました。
驚く御典医に土方歳三は。
「兵は拙速を尊ぶです」
そう言ったとか。
真の武士たらんと道を修めた新選組は、その土方歳三の言葉に表れていました。
そして土方歳三の生家は「薬売り」を生業にしていたとも伝わります。純粋培養の武士ではなかったからこその柔軟さもあったのかもしれません。
そして御典医松本良順。
彼も只者ではありません。
医師として、一芸と言うのも変ですが、道を修めた良順は「鬼の副長」にも直言するだけの胆力がありました。
それは並みの人物には中々備わらないでしょう。
くしくも武士も医師も「血を見る」人々です。
お互いがその職責により「通じ合えた」のかもしれません。
きっと松本良順は「武士の如く」胆力があり、土方歳三は「医師の如く」細やかな配慮の出来る人だったのでしょう。
松本良順は明治維新の後も必要とされてまだ血の匂いのする政府で活躍しました。
土方歳三は有名ですね。
函館五稜郭を拠点とし、最後まで榎本武揚の標榜する民主国家の守護の為、刀槍を銃にかえて。
ただの「武士」を求めていたのに、いつの間にか卓抜した「指揮官」としてこの世を去りました。
武士に通じ、医師に通じ、将帥に通じる。
真、一芸は萬に通じる…でしょうか。
では我々はどうなのでしょうか。
何事も極める前に止めてしまうのが人情です。
もしも一芸であれ極め修めたならば…
好きこそ物の上手なれ
そう言う事もあるかも知れません。
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