第22話善行と悪行




どうして「善行」と「悪行」はすぐに伝わるのか。


昔は善行は伝わらず、悪行は知れ渡る…と言う様に伝わりに格差もありました。

ですから善は陰を好む。悪は日向を好む…とも言いました。


ですが、メディアやネットの発達により善行も伝わりやすくなった様にも思われます。


ですが何故善行が「伝わりやすく」なっているのでしょうか?



私が邪推しますに。

パンドラの箱から悪行が世界に放たれ、その箱に残っていたのが「希望」であった…と伝わります。

そして悪行に荒らされた世界を希望が癒やしてまわったと。


こうも言えます。希望とは悪行に対する「麻酔薬」であったのではと。


ですからこの現在にあっても「悪行」が横行していますが、すると善行…と言う「希望」が取り上げられます。

今現在出回っている「善行」はラベルを変えられた「希望」なのではないでしょうか。



こんな話もあります。

悪行の無い世界では善行もまた存在しない…


理由としては、悪行が行われないと、それと対比されて光る善行が光らず表に出ない…善は陰を好む…ですね。

更に言いますと、悪行の無い世界としたなら現在とは逆に善行が広まっている世界とも取れます。

誰もが当たり前に善行を行うので「取り沙汰される」必要がないのです。




昔の故事にも…例えが戦争になりますが。


優秀な将軍は有名にはならない。


と、あります。

あの将軍はあの堅城を落とした。あの将軍は倍の敵兵を討ち取った…

そう名前が飛び出す将軍は「たまに」成果を上げるから取り沙汰される。

本当に有能な将軍は「針を持ち上げる」事が当然出来る様に堅城を落とし、「藁しべを吹き飛ばす」が如く倍する敵を討ち取る。将軍にとっては「当たり前に勝つ」事なので、その将軍が活躍しても「当然」であり取り沙汰されない…と言う内容です。

これを戦争ではなく善行に当て嵌めると、「たまの」善行が目立ち、「日常の」善行は表に出ない…となるかと。


ですがそんな将軍や人間は超人ですよね。

ですからこの世は「たまの」善行が取り沙汰されるとも言えます。善行が少ししか存在しないので探せば目立つのです。悪行は溢れているので好きな悪行を報道すれば済みますし。



そんなに邪推しなくても「善行」が伝わるのは良い事じゃないか。ひがむなよ。


そう思われるかもしれません。


ですが、もし自分の目の前で「悪行」や「善行」が行われたならばそれは自分にとって「真実」でしょう。


ですが、先にも述べましたが「メディアやネット」の発達によって「運ばれる」情報に含まれる物は一体「誰」にとっての悪で善なのでしょうか?



昔の故事ばかりで恐縮ですが。


三度虎が出る


こんな話もあります。


街で「虎が出た!」そう叫ばれても恐らく信じないでしょう。

ですが続いて他から「虎が出た!」と言われれば「もしかしたら」と思う。

三度目に「虎が出た!」と言われたら人は取るものも取らず逃げ出す…と言う故事です。

勿論虎なんて居ません。


昔から人は噂や確度の低い情報にも乗ってしまうのです。言い換えれば、「無し」を「有り」、「有り」を「無し」にも容易く出来る。



これはとてもデリケートな話です。


希望が麻酔薬だとしたならば…「痛み」が発生している事になります。


これも古い話ですが。


すぐに発覚する悪事は大した悪事ではない。陰に隠れた悪事こそが大樹の様に根を深く張り、世の中を蝕むのだ…


と、あります。

かえって善行も、すぐに出てくる善行等は本来の善行では無い。日陰にあり出て来ない善行こそが本来の善行である…

今は隠そうにも「あばかれて」しまいますが。



メディアやネットの発達で、我々の耳目は情報過多で疲弊しているでしょう。

そこにメディアが「切り取った」麻酔薬の善行を見聞きさせたりして「隠したい」痛みから目をそらす。

そんな時代と私は感じてしまいます。


昔で言う「大本営発表」…実際に行われていましたよね?この話は嫌われますが。

歴史は飛び地ではなく地続きです。歴史に学ぶ、もしくは考える事はタダです。




陰謀論者と言われればそのとおりです。




ですが現代、更に悲しいのが善行を行った者が「被害者」になる場合です。


この世の中に珍しく善行を行った人は瞬く間に知られ「個人情報」等が公開されて、まるで「犯罪者」の如く扱われてしまう事がある事です。


そんなのあんまりではないですか…


続いて。

大東亜戦争末期の時代です。

大空襲で焼け出された人々が川をつたい、農村に迄出てきます。

そして農村の家の戸口に立って「水をください」「子供に食べ物を…」そう言います。

哀れに思いある一家がなけなしの水と食料を出しますと…他の焼け出された人々が暴徒と化してその村を襲ってしまった…


「善行」が「悪行」を招き寄せてしまったのです…



ですから我々は「善行」と「悪行」の関係性を理解しないと「やり過ぎて」しまいます。


聖書でしたか。

罪を犯した人間に人々は石を投げました。

そこにキリストも加わり石を投げますが、投げながら「悪行を一度も犯していない者のみ投げよ!」そう叫びながら投げますと…

罪人に投石していたのはキリストのみであった…と言う有名な話です。


今も昔も世の中人生の足場も悪く平坦でもなく、人生の始めの時点で差別化されています。

誰もが善と悪を成す可能性を持っているのです。



タルムードと言う書物にもこんな話があります。


大洪水の時に箱舟に「善」が入ろうとすると、ノアが「私は番いしか乗せないのだ」そう言いますと、善は「悪」を伴侶として箱舟に乗りました。

それから善のある所には悪、悪のある所に善が有るのだと。


このタルムードは聖書より発生が古い口伝が元と言われる書物です。

先々に上げました故事も負けず劣らず収拾された年月は古いです。


これだけ私の小さな頭をほじくり返しても沢山出てきますので善と悪を断罪するのは難しく、勧善懲悪も進まないのです。遥か数千年前の人々も頭を悩ませたのです…



今現在…ネット等で気になりますのが、「ある日本人」達が善行をなした。と言うニュースや動画でしょうか。


こう…それに反発に近い記載をする事で私は筆を折る事になるかも知れませんが。



ニュースや動画で取り上げられる「ある日本人」達の善行は、「日本人全体」の善行ではなく、その「ある日本人」である個人の「善行」です。視聴する我々は偉くも何ともないのです。


過去の人が素晴らしい財産として「善行」を残して下されたならそれをニュースや動画の「人気取り」や「他者排斥」の石つぶてにするのではなく、「我々」も「陰に」善行を積むことがその方々に報いる事になるとも思います。

ですが、それも簡単ではないのが現状です。


先程から申している「切り取った」善行と悪行だからです。


「先人にならい我々も善行をしよう!」そうニュースや動画で駆り立てる…これはある種の「悪行」の一つではないでしょうか?



例えるなら


パチンコ店のそばの銀行ATM。

これに近い悪意です。パチンコに負けて「頭に血が上る」人々の前にATM…


マッチポンプです。

自分で付け火をして、後から何食わぬ顔で消火作業をする…


「製作者」の意図したニュースで人々を「駆り立て」、製作者の意図した「方向」に「駆り立てる」。


それが現在善行が悪行と同じく早く伝わる事の一因とも言えましょう。


今現在の物事の「陰に」潜む「悪行」はきっともう大木に育っているでしょう…麻酔薬が効いてますから。



ファナティックな現在…自分が握り拳を振り上げているのか…それとも手を開き握手を求めようとしているのか…




綺麗事です。ですが目を逸らす事はしてはいけないと思います。

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