第175話 カタブツ子爵と憂鬱な朝

 わたし、ジルベルト・プレヴォはハラハラしていた。なにしろ、敬愛する主様が国内有数の重鎮貴族の屋敷から朝帰りしてきたのだ。心配にならないはずがない。やはり、主様がアデライド宰相やスオラハティ辺境伯に身体を求められているという噂は本当だったのか……?


「……」


 パレア大聖堂へ向かう馬車の車内で、主様は物憂げな様子で窓の外を眺めていた。午後からは王城に参内よていなので、今日の主様は礼服姿だ。ただし、ガレア王国では男性武官用礼服の規定がない。そのため、着用されているのは女性武官礼服を小改造した代物だ。

 いわゆる女装に近い服装だが、なにしろこのお方は戦装束慣れしているからな。実用性皆無のヒラヒラした男性用礼服よりは、余程似合っている。


「……」


 わたしは無言で考え込んだ。ジョゼット卿の代わりに王城参内時のお供に指名された時は小躍りしそうなほど喜んだものだが、いまのわたしの心の中はドロドロしたもので一杯になっていた。

 むろん、噂としては知っていた。身体を使って宰相や辺境伯に取り入り、不自然な出世を遂げている男。周囲からは、主様はそういう風に見られている。しかし……ただの噂だと思いたかった。これほどの軍才を持ったお方が、なぜ体まで差し出さねばならないのか。まったく、やはり上級貴族連中は腐っている。比喩ではない、本物の吐き気を感じた。最悪の気分だ


「なんだか、勘違いされているような気がする」


 怨恨じみた思考を脳内でグルグルと回していると、主様が苦笑を浮かべながらそう言った。


「勘違い、ですか……」


「そう、勘違い。あの噂を真に受けているんだろう? 辺境伯様の愛人とかなんとか」


「……はい」


 少し躊躇してから、わたしは頷いた。否定すべきだというのは分かっていたが、できなかった。主様の身体からは、華やかな石鹸の香りが漂っている。朝から風呂を浴びねばならないようなことを、昨夜の主様はやっていたのだろう。そう思うと、心がきゅっと締め付けられるような心地になった。


「冷静に考えてほしい、僕の副官は誰だ?」


「ソニア・スオラハティ様です」


 彼女は彼女で、主様とは別の意味で有名な人物だ。ガレア屈指の大貴族の長女として生を受け、王国最強と呼ばれるほどの剣の腕を持ちながら、男騎士に仕えることを選んだ変人中の変人……。


「で、僕が昨夜泊ったお屋敷の主人は?」


「カステヘルミ・スオラハティ様です」


「その通り。そして両者は親子だ」


「はい、存じております」


「よく考えてみるんだ……自分の幼馴染兼親友が、自分の実の母親とそういう・・・・関係になっているという状況を」


「さ、最悪すぎる……」


 言われてみれば、とんでもない話だ。わたしだったら、怒りと絶望のあまり母を殴りに行くかもしれない。


「そうだろ? 僕にとっても辺境伯様にとっても、ソニアは大切な相手だ。彼女の気分を害するような真似はしないよ」


「そ、そうですか……」


 なるほど、一理ある。しかし、風呂上り特有の血色の良い主様の顔を見ていると、どうにも不安になってくる。辺境伯様は、十年以上前に夫を亡くされているのだ。性欲を持て余しているにちがいない。そんな彼女がこんなスケベな男を前にして、襲わずにいられるものだろうか?

 ……い、いや! 何がスケベな男だ! 相手は大恩ある主様なのだぞ! それをスケベだなどと……この不忠者め!! ああ、もうっ! わたしのバカ!


「ど、どうしたんだ」


「いっ、いえっ! なんでもございません!」


 わたしはブンブンと首を左右に振った。……はあ、ストレスと共に性欲が溜まっているのだろうか? まったく、不味い状況だな。今回の件で婚約も解消になってしまったし、さりとて今さら娼館を利用するのもなんだかコワイ。今まで通り、性欲は自分で処理するしかあるまい……。

 ……しかし、この年齢で婚約解消か。別に愛し合っていた仲というわけではないので、心情的にはむしろ清々しているのだが……今のわたしの立場を考えれば、新たに結婚相手を見つけるのは極めて難しいだろうな。世継はまあ、親戚から養子を貰うという手があるが。

 そんなことを考えつつも、自然と視線は主様に向かっていた。脳裏に、あの夜の抱擁が蘇る。情けなくも涙を抑えられなくなってしまった私を、この方は優しく抱きしめてくださった。それだけで、どれほどわたしの心が救われた事か。不遜だとは理解していても、この想いを完全に封じ込めることはできなかった。


「そういえば、よろしければソニア様について、お話を伺ってもよろしいでしょうか? おそらく、わたしにとっても重要な上官になられる方でしょうし」


 どんどん思考が妙な方向に行ってしまうので、私は話を変えることにした。実際、ソニア・スオラハティは主様の幕下でも最重要といっていい人物だ。新参者たるわたしにとっては、嫌でも関わっていかなければならない相手と言える。直接挨拶を交わす前に、ある程度の情報を収集しておく必要があるだろう。


「そうだな。まだ大聖堂に到着するまでは、しばらくかかるだろうし……」


 窓から周囲の様子を伺いつつ、アル様は頷く。我々の馬車は、渋滞に巻き込まれていた。ここは大都会たる王都パレアの中心街である。その混雑ぶりは尋常なものではない。


「ソニアと直接会ったことはあるかな?」


「パーティで顔をお見かけしたことは、何度か。しかし、直接会話したような経験はございません」


 いち子爵に過ぎないわたしからすれば、辺境伯の娘など雲の上の存在だ。向こうから話しかけてこない限り、こちらから声をかけることすら憚られる相手なのである。


「そうか。しかし、彼女についての噂はいろいろと耳にしているだろう。剣を握れば天下無双、机上演習では敵なし。智・武・勇を兼ね備えた、まさに英傑と呼ぶほかない女」


「ええ、もちろん」


 ソニア・スオラハティは、幼いころからその神童ぶりで有名だった人物である。大人になった今でも、その才能は色あせるどころか輝きを増している。ガレア貴族の貴族社会では、トップクラスの有名人と言っていい。

 

「それらの噂はおおむね真実だ。太古の英雄譚から飛び出してきたような人間だよ、彼女は。正直に言えば、なぜ僕の副官などに収まっているのやら、当の僕ですらよくわからない」


 自らの武勇伝を語るときよりもよほど自慢げな表情で、主様はそう言い切った。その顔を見て、わたしの心がじくじくと痛み始める。……考えずとも、この感情の正体には見当がつく。ああ、どうやらこの私は、あのソニア・スオラハティを恋敵だと認識しているらしい。

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