すべてが悪い夢だった
すべてが悪い夢だったなら、どんなにいいか。そんなふうに考えたことは数知れない。
目が覚めると白い天井を見あげていた。
どこだ、ここは?
あの世ではないようだ。控え目な照明の、いずこかの一室。消毒液のような匂いがする。病院だろうか。
孝士は周囲を見るために首を回そうとしたが、コルセットで固定されているせいで頭がどの方向へも動かない。おそらくベッドの上で寝ている彼は、目だけを動かして周囲を探った。
淡いブルーのカーテンに三方を囲まれていた。左側のベッドサイドに医療用のモニター機器が設置してある。孝士の身体や頭部からはセンサーのコードがのびており、いずれもがその機器へ繋がっていた。
頭がぼうっとする。いまが朝か夜かもわからない。とりあえず起きあがろうとしたものの、全身の節々が痛むので早々にあきらめた。
空腹感。いや、それより喉が渇いたな。
病院ならばナースが巡回してきてもよさそうなものだが。孝士がそう思ったとき、タイミングよくこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
孝士の右手にあるカーテンが、いきなりしゃっと音を立てて大きく揺れた。反射的にそのほうへ目をやると、見知らぬ女性が立っていた。
カーテンはすぐに閉じられ、向こう側で誰かが言葉を交わしはじめた。しかし低めた声だったので内容までは聞き取れない。
「ふたりだけにしてくれ」
一方に告げられ、ひとりが去ってゆく気配。そしてふたたびカーテンが揺れて、孝士の寝ているベッド脇にさっきの女性が現れた。
彼女はどう見てもナースではなかった。年齢は孝士よりも上だろう。シックでいかにも高級そうなパンツスーツに身を包んでいる。くせ毛のロングヘア。両腕を胸の前で組み、表情は硬い。射貫くような鋭い視線が孝士を見据える。
「おまえは何者だ?」
だしぬけにそう問われた。
孝士は答えようと口を開いた。が、かすれた呻きが漏れただけだった。
女性がベッドのサイドテーブルにあったプラスチック製の吸飲みを手に取り、孝士の口にあてた。孝士が細長い管を吸うと、ぬるい水が一気に喉へ流れ込んできて、むせた。鼻と口から水をこぼしつつ、激しく咳き込む。
「おい、しっかりしろ。もういちど訊く、おまえは何者だ?」
怪我人に対する心遣いもなにも、あったもんじゃない。女性の尊大な態度に、普段は温厚な孝士も腹が立った。
「そっちこそ、誰だ?」
反発心にまかせて、わざとぶっきらぼうに言った。
すると女性は表情ひとつ変えずに、上着の懐より取り出した名刺入れから一枚を抜いて、孝士の目の前に突きつけた。
幽限會社 霊界データバンク本社
即応対処班 AGAM
班長 四門仁那
よくわからない肩書きだったが、四門というこの女性が霊界データバンクの人間だとはわかった。
「ぼくは、針村孝士ですよ」
と孝士。それしか答えようがなかった。
「名前なら知っている。なぜ臼山町であのような騒動を起こした?」
「なぜって……」
「理由は? 外法古墳のことをどこで知った? どうやって爆薬を盗み出した? おまえが脅迫したうちの社員とは、どんな関係だ? あいつもグルなのか?」
四門は矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。
どうやら孝士は外法壁の崖崩れから、霊界データバンクによって救われたようだ。命を取り留めたのは幸運だったが、いまの孝士は霊バンと無関係──というよりも、この時点では敵対している存在だ。そんな相手に身柄を拘束されたとなれば、状況は決してよくない。
こうなった以上、言い逃れするのは不可能だろう。
孝士は洗いざらい打ち明けた。自分がいちど死んでから霊界データバンクの社員となったこと。いまいる世界で、じきにまれびどんが復活するはずだったこと。そして人類を救うため時間を遡ってきたこと。全部だ。
孝士が話すあいだ、四門はずっと黙って彼の言葉に耳を傾けていた。到底、信じられない内容だったろうが、彼女も霊界データバンクの人間だ。途中で何度か眉をひそめたものの、概ね受け入れたようだった。
「──なるほど」
話を聞き終えた四門は目を伏せた。それから孝士の言ったことを自分のなかで反芻するかに、しばらく黙想した。彼女はそのままベッドの周りを歩いて、反対側にある医療用ポリグラフの前に立った。
「おまえ、霊子波が出ているな」
孝士の生体情報を示すモニターを顎でしゃくり、四門が言う。
「霊子波?」
たしか霊感とか、それに関する言葉だったと孝士は思い出した。この脳波パターンを持つ人間は、同時に身近の霊子波を感じ取れる。つまり霊子の集まりである幽霊の存在を検知できるということだ。
「霊子波の有無は個人差がある。生得的でないなら、おまえがいちど死んでからあの世へ逝って、魂が霊的に変化したことにより体質も変わった証拠だ。ならば、さきほどおまえが話した臼山町にいるまれびどんと、百萬坊のことも信じるに値する。さすがに時間を跳び越えてきたという点には、疑義があるがな」
四門はあらためて孝士に目を向け、語を継いだ。
「まれびどんと百萬坊は、霊界データバンクが危険度の高い監視対象として以前から厳重に管理してあった。にしても、たいした度胸じゃないか。そのうちの片方を爆薬で吹っ飛ばすとはな」
「そりゃ、どうも」
と孝士。そんなふうに言われて悪い気はしなかった。
なにはともあれ、これですべては終わった。自分は生きていて、世界も滅亡から救われた。まさに大団円だ。よかったよかった。
力の限りを尽くした末の達成感に耽る孝士だった。しかし──
そこへ水を差すようなひと言を四門が発した。
「ばか、褒めてるんじゃない」
「え?」
「え、じゃない! おまえ、まだ自分のやらかしたことがわかってないようだな。よく考えてみろ、イースの大いなる種族──百萬坊の言うことをなぜ鵜呑みにした? まれびどんが復活すれば人類が滅ぶだと? そんな与太話を信じる頓痴気がどこにいる!」
えらい剣幕で捲し立てた四門を前に、孝士はぽかんとしている。
ん?
え!?
あっ──
四門の言わんとすることが、ぼんやりとだったが孝士にも理解できた。
顔をしかめ、自分のこめかみに指先をあてた四門が大きなため息をついた。
「騙されたんだよ。百萬坊は大昔に、まれびどんと諍いを起こして弱ったところを封印された。そして長い年月を経てその封印が解けかかったとき、ちょうど手練手管で丸め込めそうなばかが身近に現れた。おまえのことだ。百萬坊はおまえに封印を解かせてから、自分のいた世界を去る前に、まれびどんへ意趣返しをしたんだ。つまり、おまえはその道具に使われた。まんまと嵌められたんだよ!」
鬼のような形相で四門が孝士を睨む。端正な顔立ちの女性が怒ると、普通以上にこわいのである。
それまでの孝士の安堵感が、一転した。
なんてこった。とんだ独り相撲だ。では世界を救うと息巻いていたのは、自分の勘違いだったっていうのか──
孝士は、おのれの浅慮と迂闊さを呪った。これはたぶん、ごめんなさいでは許してもらえない大事になっているはずだ。
訊ねるのがおそろしかった。それでも孝士は四門をおずおずと見やり、
「……あのう、じゃあ、もしかして、なんか大変なことになってるんでしょうか?」
「ああ、なってるよ!! いま円島市の近海でなにが起こっていると思う? 霊界データバンクが石油タンカーの座礁を偽装して、一帯を大々的に封鎖している。日本海にいるFTDSの眷属どもが、崇拝対象であるまれびどんを失って暴れはじめたからな! このままでは直近の陸地に住んでいる人々に危険が及ぶ。現在、わたしの部下がFTDSどもを掃討するのにてんやわんやだ!」
「ふええ……」
未曾有の非常事態である。自分も前に襲われた、白い半魚人みたいなFTDSの姿を思い出し、孝士はぞぞっと身を震わせた。その彼に覆いかぶさるようにして、四門が身を詰め寄らせる。
「針村孝士、覚悟しておけ。これだけのことをしでかしたんだ、各方面からの賠償請求と刑事責任は途方もないものになる。もう元の勤め先には戻れんぞ。いいや、今後まともな人生は歩めんと思え」
破滅。その二文字が孝士の頭に浮かびあがり、がらがらと音を立てて崩れ去った。
一瞬で数十年分くらい老けたような顔で放心する孝士を見ても、四門の怒りはまだ鎮まらない。孝士の胸を指で突き、ドスの利いた声でとどめを刺すように彼女が言った。
「だが安心しろ、死ねとは言わん。おまえは一生をかけて償うんだ。そのために、いい働き口を世話してやる」
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