第三章

「ただいま~」

「ただいま~」

 事務所のドアを開け、針村孝士が帰ってきた。

「ご苦労さま。ごめんね、針村くん。買い出しなんか頼んじゃって」

 そう言って、外回りから戻った孝士を笑顔で迎えたのは寺石麻里だった。

「いえ、いいんですよ。ついでだったし」

 と孝士。彼は自分の事務机のところまで歩くと、その上に持っているふたつの白いビニール袋を置いた。四人分の昼食。午前中のチェックエリア巡回の途中で、寺石から頼まれた買い物である。

 スーツの上着を脱ぐとエアコンの効いた事務所内の空気が心地よい。だんだんと全身の火照りがクールダウンされ、孝士はほっと息をついた。

 霊界データバンクの八月は忙しい。本日も日曜日なのだが、円島支社は全員が臨時出勤となっていた。この時期は、なんといってもお盆がある。いわゆる地獄の釜の蓋が開き、現世に幽霊があふれるのだ。ほかにも臼山神社では恒例の年中行事として、御招霊や昔の戦争で亡くなった戦没者の慰霊祭などを執り行う。御招霊とは、あの世からこの世へ一時帰宅してくるご先祖の霊を迎える儀式のことだ。ご先祖が迷わぬように焚く迎え火は、昔であれば松明を持って臼山町の住民が町を練り歩いたそうだが、いまは規模が縮小され神社の境内のみで済ませている。戦没者の慰霊祭も、年を追うごとに参加者が減少し、もはや高齢者の寄り合いといった様相である。とはいえ通常の業務と神社の神事が重なるため、今日ばかりは人手がいくらあっても足りなかった。

 席を立った寺石が冷蔵庫に入れてあったボトルから冷えた麦茶をコップに注ぎ、孝士へと差し出した。

「外、暑かったでしょう?」

 肯いた孝士は自分と同じく汗をかいたコップを受け取ると、その半分ほどを一気に飲んだ。

「でもそれより、幽霊がいっぱいでびっくりしましたよ。お盆て、ほんとにあの世から幽霊が帰ってくるんですね」

「うん。でも、ほとんどは幽霊というより安定した魂だから、あんまり気にしなくていいよ」

「うちのご先祖も帰ってくるのかなあ?」

「そうね、転生されてない魂なら、きっと帰ってくるんじゃないかな」

 なるほど。輪廻管理センターで転生が許された魂は、この世で新たな人生を歩むわけだから幽霊にはならないのか。死と再生。輪廻転生。魂のリサイクル。孝士の頭のなかでは、そんなような図式がぼんやりと描かれた。

 事務所のドアが開く音がした。孝士がそちらへ首を回すと、支社長の中田と覆盆子原れのんが姿を見せた。

「おう、針村くん、戻ったか」

 中田はいつもの作務衣ではなく、白い狩衣を着込んで烏帽子をかぶっている。その後ろにいるれのんは巫女装束である。どうやら、夏休みのれのんも今日の神事の手伝いとして駆り出されたようだ。ふたりのいつにない装いに、孝士は新鮮さを感じてちょっと目を瞠った。

「ご苦労さまです。どうでした、慰霊祭のほうは?」

「まあ、毎度のごとく、だな。年々、参加者が減ってさみしいかぎりだよ」

 中田はそう言うと、慰霊祭の参加者から寄進されたのだろう玉串料が入ったのし袋を、寺石へ渡した。

「なに買ってきたの?」

 れのんが孝士の机の上にあるビニール袋を目ざとく見つけた。赤い鼻緒の草履をスリッパに履き替えた彼女は、てててっと事務所内に走り込んでくると、袋の口を拡げてなかを覗き込む。

「うえ……まれび丼」

 そう。孝士が買ってきた昼食は、まれび丼だった。地元の食材──主に日本海で獲れる海鮮──をふんだんに使用した、臼山町のソウルフードだ。まれび丼には定番のサーモンやいくらに加え、アカモク、ボラ、ミズダコ、ヤリイカ、海ぶどう、紅葉子などといった微妙なものが盛られている。当然、うまくはない。はっきり言って残念なご当地グルメである。

 この日曜日は臼山神社以外のお寺や神社でも、さまざまなお祭りが催されていた。で、孝士はたまたま見かけた屋台で安く販売されているまれび丼を目に留め、それを買ってきたのだった。

 期待した昼食がまれび丼だと知り、れのんはほかになかったのかよ、という恨めしい目を孝士に向けた。しかしまあ、ないよりはましだ。れのんはさっそく、ビニール袋から取り出したまれび丼を各自に配りはじめる。昼には少し早かったが、四人は昼食を摂ることにした。

「まれび丼てさあ、なんでまれび丼なの?」

 空いている事務机の椅子に座り、プラスチックの容器にてんこ盛りとなった海鮮丼をまじまじと見つめつつ、れのんが言った。

「名前のこと?」

 と孝士。

「たぶん〝まれびどん〟のことじゃないかしら」

 寺石が言うと、孝士は箸をとめてちょっと考え込んだ。

「ああ、あの妖怪の──」

「妖怪だっけ? 神様、じゃなかった?」

 寺石も自信がないのか、彼女は箸の先を唇にあてて、記憶をたぐるように宙を見つめた。

 れのんはふたりの話を聞きはしたが、どうもピンとこないようだ。

「なにそれ、知らない」

「ほら、天狗ちゃんとまれびちゃんて絵本があったでしょ。あれよ」

 と寺石。

「あの絵がかわいいやつ?」

「そうそう。天狗ちゃんがうちで祀ってる百萬坊さまで、その友達がまれびちゃん」

 自分が小学生のころに読んだ、ふたりのなかよし妖怪が出てくる絵本を思い出し、なつかしそうに寺石が微笑む。そこへ中田が口を挟んだ。

「うん。伝承にあるまれびどんのことだろうな。その昔、天狗の百萬坊大権現と仲違いして、外法古墳に封じられたってやつだ。諸説あるが、おそらくは稀人がなまって、まれびどんとなったというのが定説だ。来訪神の一種だったようだな」

「へえ、そうだったんですか」

 さすが臼山神社の宮司だと、孝士は素直に感心した。中田は仕事柄とはいえ、民俗学にも造詣が深いようだ。まれび丼は町おこしの一面もあるため、きっとご当地の妖怪であるまれびどんにあやかって名付けられたにちがいない、と中田。

 中田とれのんは手早く昼食を終えると、午後からの御招霊の準備のため事務所を出ていった。寺石もあとから彼らを手伝う予定だし、もちろん孝士には午後のルート巡回の仕事が残っている。

 涼しい事務所で名残惜しく麦茶を飲んでいた孝士は、ふと自分の隣を見やる。そこは、彼の先輩である折戸謙がいつも使っている机だった。

「にしても折戸さん、この忙しいときに、いいタイミングで出張にいきましたね」

「出張っていっても、隣町よ。さっき連絡あったわ」

 中田から預かった玉串料の金額を計算している寺石は、その手をとめずに言った。

「なんて?」

「いま警察にいるって」

「えっ、なにやらかしたんです、あの人!?」

 おどろいて孝士が訊ねると、寺石は声を押し殺してちょっと笑った。

「そうじゃなくて。仕事だって言ってた。向こうは向こうで大変らしいわよ」

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