第二章
針村孝士が霊界データバンクの
針村孝士が霊界データバンクの仕事に就いてから、数日が経過した。
前回、ぼろアパートに住み着いた悪霊を退治した際、ひどい目に遭ったにもかかわらず、孝士はいまだ霊界データバンクで仕事をつづけている。
あのあと、孝士は事務所に戻ってから中田支社長に辞職を願い出たのだが、それはあっさりと拒否されてしまった。きみのためだよと中田は言った。退社した時点で孝士は霊界データバンクと無縁になる。すると自分の身柄は、あの地獄の悪魔である簾頭鬼に委ねられるというのだ。もしもそうなれば、簾頭鬼は孝士の蘇りをチャラにして、すぐにでも霊界で閻魔大王の裁きを受けさせる気だろう。契約の落とし穴というやつである。
やはりそういうことだったのか。愕然となる孝士だったが、もはや時すでに遅し。
ただし中田支社長も鬼ではなかった。いまは試用期間であるため、三カ月を過ぎたあと、もういちど辞職の意思確認をしてくれるそうだ。仮にその際、霊界データバンクと関係を解消することになっても、中田は孝士に有利となる計らいをすると確約してくれた。
地獄で仏とはこのことだ。いやほんとに。そんなわけで、今日も孝士は幽霊の姿を求め、臼山町を自転車で巡っているのだった。
*
昼下がりの公園のベンチに、孝士の先輩である折戸謙と、やけに影の薄いお年寄りの幽霊が並んで座っている。
孝士はちょっと離れた別のベンチに腰掛けて、ふたりを横目に見ていた。
いま折戸の隣にいる幽霊は、現世の在留期間が長くのびているため要対処のレーティングに指定されたのだった。なので、折戸はその幽霊が成仏するのを説得中である。要対処の幽霊を霊界へ送るには、なにも霊感少女の覆盆子原れのんが霊子力ビームをぶっ放すだけではない。ときにはこういった穏便な手段も取られるのだ。
「そう言われてもなあ。せめて孫が小学校を卒業するまでは、見届けたいんだよ」
粘り強く説き伏せようとする折戸に、おじいさんの幽霊は渋い表情で言った。
「またあ。ヤスさん、前のときもそうだったじゃん──」
と折戸。いまは孝士が受け持つこの地域は、もともと彼の担当であったから、おじいさんの幽霊とは顔見知りだった。
「そしたらつぎは、孫が中学を卒業するまではってなるんでしょ?」
「いいじゃないのべつに。こっちは悪さしてるわけでもないし」
「いや困るんだよ。おれらの仕事が増えちゃうしさあ」
のらりくらりとした相手に説得は難航している。これでは埒が明かない。さすがの折戸もだんだん焦れてきたようだ。そこで、彼は攻め手を変えることにした。
「言っちゃなんだけど、死んだ人間なんて遺族の思い出になるだけなんだから。それに、あの世でヤスさんのこと待ってる人、いんでしょ?」
「なんだいそりゃ」
「奥さんいたでしょ、名前なんてったっけ?」
「ああ、タマキか……」
「そうそう。亡くなったのいつ?」
「もう八年も前だよ。あいつ、おれより先に逝っちまいやがって」
「何年くらい連れ添ったの?」
「大学出てすぐ結婚したから、四〇年くらいかな……」
「タマキさん、向こうで独りだよ。寂しがってんじゃないの?」
折戸に言われたおじいさんの幽霊は、顔をしかめて呻きはじめた。
どうやら相手の心を揺さぶるのに成功したようだ。そこへ折戸は追い打ちをかける。
「いいよお、あの世は。おれ知ってるもん。だって逝ったことあるし」
「えっ、ほんとかい?」
「ほんとほんと。まっ白でさ、すげーきれいなところだったよ」
おじいさんの幽霊は半信半疑のようだったが、急にしゅんとなり顔を伏せた。そして、
「なあ折戸さん、向こうに逝ったら、あいつに会えるかな?」
「死んだ人はみんなあっちに逝くんだから、会えるに決まってるって。だからさ、逝ってあげなよ。また夫婦水入らずで暮らすのも悪くないっしょ」
「なんか、急にあいつに会いたくなってきたなあ……」
おじいさんの幽霊が空を見あげた。すると彼の半分透けている身体が、ぼうっと白く輝きはじめる。不思議な光景だった。神々しい輝きは徐々に増してゆき、全体の輪郭がぼやけるほどになる。そうして、まもなくおじいさんの幽霊はそのまま光の粒子となって、あとかたもなく消えてしまった。
幽霊がこの世に留まるのは、なにかしらの心残りがあるからだ。理由はそれぞれだが、いまの幽霊の場合、遺した家族のことが心配だったのだろう。説得するには難しいケースといえた。が、折戸は相手の心を先立った伴侶に向けさせ、うまく自ら成仏するように導いたのである。
「見たか、ハリソン。おれにかかればこんなもんよ」
孝士のところまでやってきた折戸が、どや顔でたばこをくゆらせながらそう言った。
「折戸さん、ほんと口だけはうまいですよね」
「言うねえ、おまえも……」
「あっいや、ほめてますから」
と、あわてて孝士。
折戸がどうしようもなくいいかげんな極楽とんぼだということは、ここ数日をともに過ごしていやになるほど理解した。だが霊界データバンクの地域巡回スタッフとして、彼は孝士よりも経験が豊富だ。今日は別々の地域で仕事を分担していたのだが、いまの件も折戸がヘルプにきてくれなければ処理できなかったろう。そこは認めざるをえない事実である。
「あー、おれしゃべりすぎて喉かわいちゃったなー」
しかめっ面の折戸がわざとらしく言った。
「わ、わかりましたよ。そこの自販機でなんかおごりますから」
孝士は公園の外にあった自販機でふたり分の缶コーヒーを買った。折戸はしらじらしくわるいねえなどと言いつつ、そのうちの一本を受け取る。
時刻は昼を回ったころで、ふたりともまだ確認しなければならないチェックエリアを残していた。
折戸が円島支社の社用車で公園をあとにするのを見届けて、孝士はタブレットPCに要対処の件が終了した旨を入力した。残るチェックエリアは通常の確認作業で済みそうなものばかりだ。よって、今日の山場はなんとかしのいだといえよう。
しかし──
試用期間が終わるまで、あと二カ月とちょっと。それまで自分が持ちこたえられるかどうか、不安に思う孝士だった。
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