三人を乗せた軽四が

 三人を乗せた軽四が向かった先は、臼山町の中心から外れた住宅街である。本日回る予定の最後のチェックエリアがそこにあるのだ。

 二〇分ほど走って着いた場所は、込み入った路地裏の一画。そこにはおそろしく古びたアパートがあった。

 猫の額ほどの駐車場に停めた車から三人が降りて見ると、長い年月を経て全体的に汚れたアパートは、令和のいまより遡って昭和の雰囲気を漂わせている。一階と二階に三部屋ずつあるそこでは、いずれにも入居者の表札が出ていなかった。どうやら住人はすべて引き払っているようだ。部屋の前の通路には型の古い洗濯機、壊れかけた子供用の三輪車、世話されていた植物がとっくに枯れて干からびてしまった鉢植えなどが、放置されている。どこか過ぎ去ったありし日を忍ばせるような、もの悲しげな風景である。

「大家の話だと、ここもうすぐ建て替えるんだとさ」

 両手をズボンのポケットに突っ込んだ折戸が、二階建てのアパートを見あげながらそう言った。

「倒壊寸前って感じですね……」

 孝士の表現は決して大げさなものではない。ぱっと見ただけでも、いま目の前にあるぼろアパートは、ちょっとした台風や地震でばらばらになりそうなのがよくわかった。

「どの部屋?」

 れのんが訊くと、折戸は二階のいちばん端の部屋を指さした。

「203号室。だいぶ前に自殺した若い男の幽霊が、ずっと居座ってるらしい」

「うええ、自殺者の幽霊ですか……」

 顔を歪ませた孝士は絞り出すような声で言った。その隣にいる折戸が肯き、孝士の持っているタブレットPCを手に取った。

「ほら、ルートナビに情報あんだろ。事故物件てやつよ。んで、アパート建て替えたあとにもそいつが出ないように、おれらで対処しろってさ」

「そういえば、チェックエリアの情報には要対処って書いてありますね。それって、なにをどうすればいいんですか?」

「ああ……まあな、いるんだよたまに。あの世に逝くのをぐずって、この世で悪さしてる幽霊がさ。だから、そういうのは除霊して強制的に霊界へ送っちまうの。霊バンの本社が指示してくる要対処ってのは、そのこと」

 それを聞いて孝士があわてたのは当然だったろう。

「除霊? いや、そんなこと言われても、ぼくできませんよ。だって──」

 戸惑う孝士であるが、折戸はそんな彼の肩に腕を回すと、いきなり力を込めてぐっと自分のほうへ引き寄せた。文字通り有無を言わせず。折戸はそうして笑顔で孝士の顔を横から覗き込む。しかし、目が笑ってない。

「ハリソンさあ、ガキじゃねえんだから。ぼくできません、とかすぐに言っちゃだーめ。仕事ってそういうもんだろ? それに、やるのはこいつだから」

 言って、折戸が立てた親指で指し示したのは、ふたりの横にいるれのんである。

「この悪霊と戦う霊感少女さまが、ずばーっとやってくれっから。な、れのん?」

「まあそうだけど、なんかムカつく。いっつも、こういうときだけ頼ってくるよね」

 ふたりを横目で見るれのんは、やれやれといった顔だ。

 孝士はいくらかほっとした。なんだ、はやく言ってくれ。そうだよな、ぼくに除霊とかできるわけないし。なるほど、霊感少女か。どうして女の子が霊バンの仕事についてくるのかと思ったら、そんな理由があったのか。

「あっ、そうだ。おれ、あれやるわ。ほら、あのお札で結界を作るやつ」

 急に思い出したように言った折戸が、れのんの持っているスクールバッグを開けてなかを探りはじめた。

「ちょっと、勝手にさわんな!」

 抗議の声をあげるれのんだが、そのときにはもう折戸は彼女のスクールバッグに入っていた目当ての品を、なかから取り出している。それは細長い紙の束だった。ふにゃふにゃした達筆で漢字が書いてある。神社が参拝者に配る護符のようだ。

 つづいて折戸は孝士にタブレットPCを突き返すと、彼の手に無理矢理アパートの合鍵を握らせた。

「ハリソンおまえ、れのんのサポートな。どんなもんか、一回よーく見とけ。これは命令。おれはほかに重要な任務があるから別行動だ。そいじゃな~」

 そう告げると、折戸はそそくさとアパートの横手へ姿を消した。

 あとに残された孝士とれのんは、どちらともなく顔を見合わせた。

「折戸っちはいつもああだよ。じゃ、あたしらもはじめよっか」

 とれのん。

 問題の203号室は二階のいちばん端にある部屋だ。ふたりはアパートの上階へとあがる階段のほうへ歩いた。トタン板が雨よけの屋根となっている金属製の階段は、いたるところが錆びている。れのんにつづいて、孝士もおっかなびっくりでそこを登りはじめる。

 階段の手摺りは手をかけただけで錆びた部分が脆く崩れ、それが足下にぽろぽろとこぼれた。体重をかけるとぎしっと軋む段板は、いまにも踏み抜いてしまいそうだ。

 おいおい、大丈夫なんだろうなこれ。孝士は不安を感じつつ、ふと上を見た。するとそこには、一〇代の少女の無防備に階段を登る後ろ姿が。制服のミニスカートから突き出たすらっとした二本の白い足が、律動的に曲がったり伸びたりしている。太すぎず細すぎず、とても健康的だ。

 手をのばせば届きそうな距離で、スカートの裾が扇情的に揺れる。

 うお、もう少しで見え、見え──くっ、いかんいかん。鎮まれ孝士、あれはただの布だ。それにいまは仕事中なんだぞ。れのんの背後で必死に平静を保とうと、ワイシャツの胸をぎゅっと摑んだり深呼吸する孝士は、第三者が見れば完全に不審者だった。

 しかしあれだ。いい大人が女子高生の後ろに隠れて付き従うというのも、なさけない光景である。折戸は除霊と言っていたが、いったいこれからなにが起こるのか。孝士はそのへんを、れのんに訊いてみることにした。

「あの、さっき除霊って言ってたけど、どういうふうにやるのかな? 部屋でお経あげるとか、そういう感じ?」

 ちょうど階段を登り終えて二階の通路にたどり着いたれのんは、孝士を顧みてきょとんとなった。そうして彼女は、ぷっと吹き出して笑いはじめる。

「ウケる。あたし、お経とか読めないよ」

「じゃあ、どうやるの? なんか白いギザギザの紙がついた棒を振るとか?」

「それもちがう。使うのはこれだよ」

 言いつつ、れのんは自分が携えるスクールバッグを開けてなかに手を入れた。つぎの瞬間、孝士は彼女が取り出したものを見て自分の目を疑った。

「ちょっ、それ、けけ拳銃!?」

「もちろん本物じゃないよ」

「だよね……」

 こう見えて孝士にはミリタリーマニアとはいかないまでも、それなりに銃器の知識があった。広範囲にわたり不必要でどうでもいい知識を蓄えるのは、オタクの嗜み。いまれのんが手にしているのはコルト・パイソンだ。アメリカの銃器メーカーが製造していた回転式拳銃。使用する弾丸は・357マグナム。銃身長は4インチ。黒光りするリボルバーは、女の子の手にはいささか大きい。

「これはね、ただの焦点具。あたしが精神を集中するためのね」

 れのんのその言葉に孝士は首を傾げた。

「え、それってどういう?」

「信じてもらえるかどうかわかんないけど、あたしさあ、けっこう霊能力があんの。中田の伯父さんがそう言ってた」

「伯父さんてことは、中田支社長と親戚なの?」

「そうだよ」

「じゃ、きみもその、視えたりするんだ……幽霊」

「うん。家系かな、こういう能力を持ってるのは。パパとママも似たような仕事してたし」

 れのんは手首を返すと、手中のリボルバーを孝士によく見えるように掲げた。

「で、これを使ってあたしが幽霊を撃つと、霊子力ビームっていうのが発射されて相手は消えちゃうの。なんかあたしの霊力と反応して、成仏するんだって」

「そうなんだ……」

 と、真顔で孝士が肯く。その彼の反応に、れのんはちょっとおどろいたようだ。

「あれ、あっさり信じちゃうんだ」

「うんまあ、こっちもいろいろ見てきたからね」

 つい昨日までの孝士の非日常は、いまはもうそうでなくなっていた。慣れとはこわいものである。

 へんな人──れのんはそうとでも言いたげな目で、孝士をじっと見つめた。あまりにも真っ直ぐな視線だったので、孝士は思わずひるんだ。しかし最初に彼女と会ったときのツンツンした印象が、いまはずいぶんと和らいだように思える。相手のことを少しだけ知って、距離が縮まった。そんな感じだろうか。

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