第166話 15日目⑫おっさんはグレイビーソースを作る

 夕食用のシャトー・ブリアンは塩で軽く下味をつけてから、レバーのスライスと一緒にクーラーボックスに一旦しまっておき、残りのヒレ肉は今日は使わないので再び袋に入れて小川で冷蔵した。


 そうこうしているうちにテリーヌを焼き始めて50分ぐらい経っていたので、焼き上がりの状態をチェックしてみることにする。


 ダッチオーブンの蓋の上に積み上げてあった炭火を一旦真鍮のバケツに集め、革手袋で蓋を外せば、むわっと熱気が上がり、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。


 コッヘルにキツキツに詰め込んでいたペーストは熱で縮んで少し隙間が出来ており、内部から染み出してきた肉汁がブツブツと沸騰しては縁から溢れ、ダッチオーブンの底に垂れ落ちてはジュウジュウとはぜて煙を立たせていた。


 見たところいい感じだが、とりあえず中心までしっかり火が通っているかを確認するために木串を刺してしばらく待ち、一気に引き抜いて木串を指で直接触れて中心温度をチェックしてみる。指で触っていられないほど熱ければ火は十分に通っている。指先の感覚頼りだが60℃以上にはなっているようだ。

 串を抜いた穴からも透明な肉汁が溢れてきて表面をだらりと流れる。中が焼き固まっていないと濁った肉汁になるので、この透明な肉汁も中心までしっかり火が通っている目安となる。


 高温のダッチオーブンに触れたら大火傷するので注意しながらテリーヌを取り出し、替わりに表面を焼き固めたロースト用のブロック肉を入れ、再び蓋を被せてその上に炭火を積み上げる。分厚い鋳物製のダッチオーブンは保温力が高いので、テリーヌの焼き上がりチェックと取り出しにかかった数分間程度の中断ではほとんど温度は下がらない。


 ロースト用のブロック肉も冷たい状態ではなく、表面を焼き固め、その後もあえて常温に置いてあった肉だから火は通りやすい。

 テリーヌとは違い、ローストは中心部までしっかりと焼き固めるのではなく、火は通っているものの固まってはおらず、内部はピンク色をしているぐらいでちょうどいい。このダッチオーブンの温度なら15分ってとこだろう。


 ローストが焼き上がるのを待つ間に、テリーヌの内部から溢れていた肉汁をスキレットに集め、再び加熱する。

 液体量が少ないのですぐに沸騰し始めるところに、徳助氏秘蔵のブランデーをだらっと入れれば、甘く芳醇な香りを撒き散らしながら一気に沸騰し、蒸発したアルコールに引火してボワンッとスキレットの上に火柱が立つ。

 アルコール分を飛ばすと同時に臭みを燃やしてしまう【フランベ】というフランス料理の技法だ。


 炎が自然鎮火した後のスキレットに残るのは、アルコール分の飛んだブランデーにテリーヌの肉汁、その前のローストの下焼きで出た肉汁、そのまた前の成型肉のステーキを焼いた時の肉汁が溶け込んだ旨味の塊のようなドロリとした黒っぽいソースだ。

 この肉を焼いた時に出た肉汁をブランデーやワインでのばして作るソースがグレイビーソースだ。このソースを作ろうと思っていたからスキレットを洗わずに使い回していたまである。

 グレイビーソースはシャトー・ブリアンを使ったメイン料理に使おうと思っている。ただこのソースにはできればトリュフも使いたいので、作りかけで一旦中断する。


 ちなみにテリーヌの味付けに使った魚介とシイタケのソースもまだ残っているが、こちらは貝醤油を加えてもう少し味を和風寄りに調整してしてからローストの焼き上がりを待つ。


 焼き始めから15分。そろそろ頃合いだろうとダッチオーブンを開けてローストを取り出す。木串を刺してチェックしてみると中心温度は50℃前後。木串を抜いた穴からは赤く濁った肉汁がたらたらと溢れてきてこれもミディアムレアのいい焼き上がりだ。その焼き立てのローストをそのまま小川に運び、ドボンと冷水に落として急速冷却。

 焼き上がったローストが自然に冷めるのを待つと、冷めるまでの間に外側の熱が内部に伝わってしまって焼き過ぎ状態になってしまうのでそれを防止するための処置だ。和食でも刺身の焼き霜造りや湯霜造りでよく使われる技法だな。


 十分に冷めたローストを水から引き上げて表面の水分を洗った不織布で拭き取り、巻き付けてあった葛糸をほどく。

 そして魚介和風ソースをビニール袋に入れ、そこにローストを塊のまま漬け込む。あとは夕食前に薄くスライスして盛り付けるだけだ。


 急速冷却したローストと違い、焼き上がってからしばらくそのまま置いて自然に冷めるのを待っていたテリーヌの粗熱が取れて、型である中コッヘルを素手で触っても熱くなくなったので、まな板に何度かコンコンと打ち付ける。衝撃でコッヘルの底に癒着していた肉が外れ、ポコンと綺麗にテリーヌが型から外れる。

 見た目は茶色く焼けた大きなハンバーグだが、内部は層になっているから切り分けたらなかなか見映えするだろう。だが、美岬をサプライズで驚かせたいから、あえて今は切らずに地味な塊のままで袋に入れて冷蔵しておこう。

 


 夕食の為の仕込みはこれでだいたい終わりだ。時計を確認すると夕方の5時半になっていた。昼食を食べたのが3時前だったからまだ腹は減っていない。

 ちょっと休憩してからの遅めの夕食でもいいだろう。


 そろそろ美岬を起こして交代しようかと思って立ち上がり、何気なく視線を巡らしたところで洞窟の近くに置かれた大型クーラーボックスとそこから顔を出してこっちに向いているゴマフが目に入る。


「あー……ゴマフの奴をずっと放置してたな。そろそろこっちに連れてきてやるか」



 俺が近づいても、ゴマフは美岬に対するようにテンションがぶち上がることもないが、かといって怯えて逃げようとする素振りもない。一応、俺のことを同じ群れに属する仲間とは認識してるってことかな。


「む? ……おぅ、お前なかなか派手にやってるなー」


「キュイ」


 刺激臭を感じて見れば、ゴマフはクーラーボックス内で排便しており、軟便の上で這い回っていたから身体中ドロドロのウンコまみれになっていた。人間ほど臭くはないが、それでもそれなりに臭いし汚い。

 洗ってやりたいがこの状態のゴマフを抱き上げるのは正直遠慮したい。


 幸いクーラーボックスは大きいとはいえ重さはそれほどではないし、ゴマフもせいぜい3kg ぐらいしかないから、クーラーボックスをゴマフが入ったまま両端を掴んで抱え上げ、背り反って腹の上にクーラーボックスの底を乗せるような体勢で支えてえっちらおっちらと海まで歩いていく。


 裸足になって裾を捲り上げ、膝下ぐらいまで海に入り、ゴマフを片手で捕まえてばしゃばしゃと水を掛け、手で擦って付着した汚れを落としてやる。ある程度まで汚れが落ちたら、そのまま海中にリリースして好きなように游がせ、その間に汚れたクーラーボックスを洗っておく。これは風呂桶としても使う予定だから丁寧に。


 洗いながらもゴマフの様子は目で追っている。

 砂地の海底近くをキスと思われる白っぽくて細い小魚の群れが泳いでおり、ゴマフはそんな魚の群れを追いかけ、時々群れに突っ込んだりもしているが、まだ歯が生えてないので捕まえるまではできないようだ。だが、こういう遊びでエサ捕りを覚えていくのだろうから、これからも積極的にやらせた方がいいだろうな。

 ただ、一生懸命に魚を追いかけ回している今のゴマフの様子を見るに、遊びというより本気で捕まえようとしているようだ。おそらく腹が減ってるんだろう。


 洗い終わったクーラーボックスを一旦陸に上げ、ゴマフのエサ用に活かしてある魚を取りに岩場に向かい、浮き篭からアイナメを一匹取り出してその場で〆め、砂浜に戻るとゴマフの姿が消えていた。


「あれ? あいつどこ行った?」


 見回すと、陸に上がってひょこひょことオットセイのような動きで拠点に向かって移動するゴマフの後ろ姿が目に入る。どうやら魚を自力で取るのは早々に諦め、美岬にエサをねだりに行くところのようだ。

 すでに拠点の場所を覚え、しかも美岬がそこにいると理解しているあたり、あいつは本当に賢いな。

 おっと、感心している場合じゃないな。俺は片手にアイナメをぶらさげたままゴマフの後を追う。

 しかしだいぶ先行していたゴマフには追い付けず、とうとうゴマフが拠点の中に入っていってしまう。


「キュイィ!」「くぁwせdrftgyふじこ!?」


 寝入っているところにゴマフの奇襲を受けたのだろう。中から言葉にならない美岬の悲鳴が聞こえてくる。間に合わなかったか。

 ならもういいか、と肩を竦め、俺はゴマフ用のアイナメを捌くためにそのまま踵を反して炊事場に向かったのだった。








【作者コメント】

 グレイビーソースって名前はカッコいいですが、ようは肉汁ソースですね。グレイビー(gravy)とはつまり肉汁なわけで。

 肉料理に使用した後のフライパンにワインやビールなどの酒を入れて肉汁や焦げ付きなどを溶かし込み、玉ねぎなどの香味野菜で味を調えたり、小麦粉でトロミを付けたりします。ただ、場所によってはミルクや生クリームを加えたり、野菜ジュースや肉を加えたり、と定義はかなり曖昧で、日本ではケチャップとウスターソースを加えた簡易デミグラスソースみたいなものが洋食屋とかでグレイビーソースとしてよく出てきますね。かくいう私もハンバーグを焼いた時に出た肉汁にウスターソースとケチャップを入れたデミグラスソースもどきをずっとグレイビーソースと呼んでいました。


 まあ定義が緩いので、とりあえず肉汁を使って適当に味付けしたソースなら何でもグレイビーソースと呼んでよさそうですね。言った者勝ちです。


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