第114話 12日目④おっさんは餅の絵を描く
シーラカンスから脂を取ることは出来たが、これにはまだ肉片や水分が混ざっているのでそれらを取り除かないと腐敗の原因になる。
肉片などの固形物は不織布を敷いた篭で濾すだけで取り除けるが、水、特に脂と混じりあっている水分は取り除くのは難しい。
こういう場合に有効な方法が
飲料水用の2㍑のペットボトルを空にして、そこに固形物を濾した液体脂を入れる。
ボトルのキャップを締め、そのままボトルのネック部分をしっかり握ってグルグルと振り回す。ドレッシングのボトルのように上下に振るのではなく、あくまでも遠心力を発生させることが目的なのでイメージとしてはハンマー投げだ。
「ちょ、ちょちょ、ちょっとガクさん! なにやってんすかぁ?」
精油の材料として少し離れた場所でハマナスの花を集めていた美岬が俺の奇行に慌てて駆け戻ってくる。
「んー? 遠心分離で脂と水を分離してるだけだぞ」
ペットボトルをぶんぶん回しながら説明する。
「へ? 遠心分離ってそんな簡単なことでできるんすか?」
「おう。ほれ見てみろ」
ペットボトルの口を下にして見せれば、比重の軽い脂は上に、重い水は下にくっきりと2層に別れている。
「あ、ほんとだ。すごい!」
「で、このペットボトルの口をちょっと緩めると……下に溜まった水が出てくるからそれだけ捨てる」
ペットボトルとキャップの隙間から水がちょろちょろ流れ出ていき、脂が混じり始める直前でキャップを締めれば、ペットボトルの中に残るのはほとんど脂となる。
残った脂を綺麗にした大コッヘルに戻して火に掛け、僅かに残った水分を蒸発させれば脂の精製は完了だ。ここまですれば、生臭さなどもなく、腐りにくくなっているので様々なものに利用できる。
ちなみに水がかなり混じった状態の脂を加熱したら爆発して危険なので遠心分離で余分な水をあらかじめ抜いておくことは大事だ。
「とはいえ、この脂にはまだ
「ふむふむ。脱ろう処理ってどうやるんすか?」
「そもそも
説明しながらまだ温かい脂をこぼさないように気をつけつつペットボトルに戻す。
「んー……ということは冬にごま油が固まってるのもそれなんすか?」
「おう。まさにそれだな。蝋の主成分の1つのオレイン酸がオリーブオイルとかごま油には多く含まれているから冷えると固体化するんだよ」
「なるほど。勉強になったっす。……っていうかガクさんと一緒にいると学校に行ってるよりずっと勉強になってる気がするっす」
「あー……まあ、毎日が理科の実験とフィールドワークみたいなもんだからな。しかも学んだ内容が今の生活に直結しているから、役に立つ実感も伴えばなお一層きちんと身に付くよな」
「ほんとそれっす。今日だけでもシーラカンスの解剖と採油と遠心分離と脱ろうという一連の実験をやってるっすけど、学校の授業で学んでいてもたぶん『こんなことやって何の意味があるんだろ?』って他人事になってて真剣には取り組まなかったと思うんすよね。……てゆうか高校生が授業でやるような実験じゃないからそもそも学ぶ機会もないかもっすけど」
「違いない。俺たちがここで経験している内容を知ったら、有名大学の優秀な研究者たちがこぞって悔しがるだろうな」
「……今までも思わなかったわけじゃないんすけど、ここでの生活は経験値がヤバいんすよね。いうなれば、オンラインゲームの
「分かるよ。上手い例えだな」
「学校って、社会に出る前のチュートリアルみたいなものなんだなってこの状況になってよく分かったっす。そんなチュートリアルの途中でハイレベルなフィールドに放り込まれて鍛えられてしまったあたしは、社会復帰できたとしても学校に復学する意味はあるんすかね? 今はともかく、この調子で数ヵ月間鍛えられるとしたら」
「なるほど。そこに繋がるか」
「……ねぇガクさん、真面目な話、嫁が高校中退だと風聞悪いっすか? せめて高校ぐらい出ててほしいっすか? あたしがこれから先の人生をガクさんのパートナーとして共に歩んでいくのに高校での教育って必要っすか?」
真剣な表情で問いかけてくる美岬は、きっと自分なりにこの事を一生懸命に考えていたんだろう。それなら俺も真面目に答えないとな。
作業の手を完全に止めて椅子に座って向かい合う。
「つまり美岬は、高校に復学するのは人生を無駄にすることになるんじゃないかと心配してるわけだな。そもそも留年したらまた高一からのやり直しになるわけだし」
「そうっす。確かに普通に就職することを考えるなら高卒資格は必要だと思うっすけど、ガクさんと結婚してガクさんのお店を切り盛りするのに必要な知識や能力はガクさんに直接教えてもらえばいいかなって思うんす」
「おや? 美岬は俺の店を一緒にやってくれるつもりだったのか。実家の島で親父さんの事業を手伝うつもりじゃなかったのか?」
「……ガクさんと出会う前はそのつもりだったっすし、今でも父ちゃんの事業を手伝いたいとは思ってるっすよ。でも、ガクさんと結婚するならガクさんのお店の経営を支えるのが妻として当然だと思うんす。それともあたしがそっちに関わるのは迷惑っすか?」
へんにょりと眉を下げる美岬の頭をポンポンしてやる。
「そんな顔をするな。困らせるつもりじゃなかったんだ。俺は美岬がちゃんと将来の事を考えてることに感心してるよ。ただ、俺が考えてたのとはちょっと違ったもんでな」
「ほえ? じゃあガクさんはどうしようと思ってたんすか?」
「まず、社会復帰後に高校に復学するかどうかって話だが、俺は美岬は当然復学するものだと考えていた。将来的に結婚するにしても、高校を出てるかどうかで社会人として選べるオプションはずいぶん変わるからな。でも、今の美岬の話を聞いて、美岬が一般的な就職をしないで俺と一緒に店をしてくれるつもりでいるなら、まあそれはそれでありだとは思ったよ。店の経営に関する知識や技能は確かに俺が教えてやれるしな」
「いきなりな話で戸惑わせちゃったんすね」
「それも踏まえてちょっと考えたんだが、俺としては美岬が社会復帰後に高校に復学するか中退するか、どっちを選んでもいいと思う。この件に関しては美岬の決定を尊重するつもりだ。美岬がどっちを選んでも全面的にサポートするし、もっと言うなら、仮に中退を選んだとしても、将来的に何か専門的に学びたいことができてやっぱり大学とか専門学校に行きたいってなったら、高校卒業資格を取得させて大学や専門学校の学費の面倒をみるぐらいはしてやるぞ」
「ちょ! さすがにそれは甘やかし過ぎだと思うっす」
「一度決定して選んだ道でも状況が変わったらやり直してもいいと思うし、ぶっちゃけ俺は、美岬にそれをさせてやれるぐらいの金銭面での余裕はあるんだ。家は親から引き継いだ持ち家だし、ジビエ料理店もそれなりに人気で流行ってたし、俺自身も若い頃からずっと仕事はしてきているし、印税収入もあるし、両親と妹の生命保険も完全に手付かずのまま残ってるし、そもそも元々が自給自足に近い生活だからほとんど金を使う必要がなかったからな」
「え? 今までまったく気にしてなかったっすけど、ガクさんて実はお金持ちだったんすか?」
「そこまでではないが、美岬を養っていけるぐらいは十分あるから心配しなくていい。俺も美岬と一緒にこれからの人生を歩んでいくことについてはちゃんと考えていたから、美岬が望むなら店の方は廃業して美岬の実家の島に拠点を移すことも検討していたんだ。だからこそ美岬が俺の店を一緒にやってくれるつもりだったと知ってちょっと驚いたわけだがな」
「おうふ。こ、これが男の甲斐性ってやつっすか! スパダリすぎるっすよ。ガクさんがあたしのためにうちの実家の島への移住まで考えてくれてるのはすごく嬉しいっすけど、でもそのために人気があるお店を廃業しちゃうのは嫌っすねぇ」
「んー、それなら二拠点生活にするのもありだぞ。うちの店は高原の別荘地にあるから、1年のうちの繁忙期だけそっちで営業して、それ以外の時期は島で暮らしてもいいと思うが」
「あ、なるほど。それはすごくいいっすね。あたし、ガクさんと一緒にお店をやるのも実は楽しみなんすよ」
「じゃあ、社会復帰後の生活についてはそういう予定で考えておこうか。といっても今はまだ無事に社会復帰できるかも分からないから絵に描いた餅でしかないけどな」
「取らぬ狸の皮算用っすねー。まああたしはこのまま島への永住エンドになってもそれはそれで充実してていいかなーとも思うっすけどね」
「それもそうなんだよな。だんだん身の回りが充実してきて、この生活にも愛着が沸いてきてるからな。……まあ、まだ先のことは分からないから、今話し合った内容はとりあえずは心の中に留め置いていて、実際に社会復帰できてから真面目に考えたらいいさ」
「そっすね。でも、あたしは今回こういうことをちゃんと話し合えてよかったと思うっすよ。いつもあたしのことを優先しようとしてくれるダーリンのスパダリっぷりにまた好きになっちゃったっす。えへへ」
「それは俺もそうだ。美岬がこれから先のことをどう考えているのか知れてよかった。嫁の健気さに惚れ直したぞ」
すると美岬が椅子から立ち上がり、ててっと駆け寄ってきて、腰を屈めてチュッとキスしてきた。そのまますぐに離れてにへらっと笑う。
「えへへ。じゃああたしは精油の材料集めに戻るっすね!」
ご機嫌な様子でハマナスの花を集めに向かう美岬の後ろ姿を見送り、俺は小さくつぶやく。
「ああもう……可愛いすぎるだろ」
一頻り悶えてから、俺はペットボトルに入った脂を小川の冷水で冷ますべく、ついでに俺の頭も冷やすために立ち上がって小川に向かった。
【作者コメント】
今回はペットボトルを使った遠心分離をご紹介しましたが、これを生クリームでやるとバターが作れます。生クリームは高いのでわざわざやる人はいないかもですが、一応知識としてね。
市販の生クリームはだいたい40%ぐらい乳脂肪分なので、遠心分離すればだいたい4割の脂肪が分離するのでそれを集めれば無塩バターとして使えます。
分離した60%の水分はバターミルクといって普通の牛乳と同様に使えますが、バターの製造のために脂肪分が持っていかれているので、牛乳より脂肪分がかなり少なく低カロリーです。牛乳1杯のカロリーがおよそ157kcalで脂肪分が8.9gなのに対して、バターミルクは99kal、脂肪分は2.2g程度です。
お菓子作りをする時、生クリームを泡立て過ぎるとバターとバターミルクに分離してしまうことがあります。こうなってしまうともうホイップクリームとしては使えないので、諦めてバターミルクは飲料として、バターはすでに砂糖を入れていると思うのでシュガーバターとして活用することをお勧めします。シュガーバターはフランスパンに塗ると最高なのですよ。
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