第57話 6日目⑫おっさんは灰をかぶる

 食事を終え、後片付けも済んだので俺も水浴びしてこようと立ち上がる。


「俺もちょっと汗を流してくるから火の番頼むな」


「あいあいー。お任せられー」


 すでに残照も消えてすっかり暗くなっているので、一度拠点に入って着替えとLEDライトを取ってくる。あと、かまどの灰を小さいコッヘルで掬って持っていく。

 そのまま小川の方に向かおうとするが、ついでなので先にトイレに寄って用を足していくことにした。葛の葉はトイレットペーパーの代用品としてそれなりに使えるが、用を足してすぐに水浴びする方が衛生的だし快適なのは言うまでもない。


 トイレを使ってみての感想。やっぱり個室のトイレは落ち着いてできるからいいな。かなりのハードスケジュールではあったが、美岬の希望通り出入り口にすだれを作ったのは正解だったと思う。

 トイレの使い勝手がいいのはもちろんいいことだが、俺としてはこうしてこの島に着いて2日目という早い段階でトイレを整備できたのが嬉しい。


 今のように拠点を定めて定住する場合、まず問題になるのが排泄物の処理だ。毎日出るものだし、適切に処理しないと病気の発生源にもなりうる。

 難民キャンプなんかではしばしばチフスやコレラなどが蔓延して多くの死者が出るが、その原因は適切に処理されていない排泄物、いわゆる野糞にたかったハエが食料に病原菌を運んだり、雨で溶けて水源地を汚染したり、という場合がほとんどで、排泄物をきちんと埋め、事後に手を洗うだけで状況は劇的に改善する。

 とはいえ、排便のたびに穴を掘るのも大変だし、埋めるのが浅いと雨で露出する場合もあるからやはりこのように決まったトイレがある意義は大きい。


 ちなみにこのトイレは肥溜めが一杯になったら埋めて、別の場所にまた穴を掘って小屋を移設するというスタイルでちょこちょこ場所を移動させながら使うつもりだ。……蛇足ながら、自然災害などで街中で水洗トイレが使えなくなった場合の代用トイレとしては、バケツにごみ袋を被せ、中に猫のトイレ砂を入れて使うのがお勧めである。俺が考える災害時の最強トイレは“おまる”だな。

 


 トイレで用を足してから小川の洗濯物が干してある辺りに移動し、服を脱いで、一掴みの灰を頭に軽くまぶして小川に踏み入る。


「……くっ……冷てぇ」


 ここの水はせいぜい足首ぐらいまでしかないが、かなり冷たい。水源地ほどの掬った手のひらが痺れるほどではないが。

 片膝を立てた状態でしゃがみ、両手で掬った水を頭に掛け、まず頭髪をワシャワシャとかき混ぜて灰と水を馴染ませ、すぐに水で洗い流した。


 皮脂でべたついていた髪があっという間に脂っ気を失ってキシキシになる。石鹸を使わずとも、このとおり木灰でも皮脂汚れは落ちるのだが、石鹸に比べるとアルカリが強すぎて髪や肌を傷めやすいので、扱いが難しい。

 やはり灰は基本的に俺だけが使って、美岬にはなるべく石鹸を使わせてやった方がいいな、と改めて思う。


 次いで灰と水を混ぜて練ったペーストを薄く伸ばして全身に擦りつけ、すぐに水で洗い流したが、それでもアルカリが強すぎてちょっと肌がヒリヒリしたので、もっと薄めて灰ペーストではなく灰入り水ぐらいでよさそうだと実感した。

 むしろ灰入り水に浸した布で全身の汚れを拭き取るぐらいでいいかもしれない、と考えて、実際に灰入り水をセームタオルに染ませて顔を拭いてみればほどほどに皮脂汚れが落ちてちょうどよかったのでこれからはこれでいこう。


 灰が残っていると肌がアルカリ負けしてしまうので、最後に水でしっかりと洗い流してさっぱりする。夏なのでこの冷たい水でも水浴びできるが、秋になったらさすがに寒すぎて無理だろうな。それまでに風呂をなんとかしたいところだ。


 その後、汚れた衣服を灰水でもみ洗いしてすすいで干し、持ってきた服に着替える。上はインナーとして2枚持っている速乾素材のTシャツのうちの1枚で、下は今日洗濯したばかりのカーゴパンツだ。うん。やっぱりカーゴパンツの安心感はいい。


 拠点に戻ろうとして、ふと思い立ってLEDライトを消してみる。一瞬真っ暗になって何も見えなくなるが、すぐに目が慣れて周囲の様子が判るようになる。

 嵐の夜のような本当の闇ではなく、今日のような星明かりの夜は月が出てなくてもそれなりに明るい。

 この場所は拠点から200㍍ほど離れているが、かまどの火明かりとそのそばにいる美岬の姿もちゃんと見えている。これぐらいの明るさのある夜なら別にライト無しでも水浴びに来るだけぐらいなら問題なさそうではあるな。


 そのまま拠点に歩いて戻る。近づくと美岬はぼーっとかまどの火を眺めていてこちらに気づいていないので、驚かせないように声をかける。


「美岬」


「……あ、ガクさんおかえりっす」


 気づいた美岬がこちらに振り向き、そして俺の姿を上から下まで眺め回して眉を八の字にする。


「ガクさん、ひどいっす!」


「なんでっ?」


 思わず身構えるが――


「あたし、ガクさんと同じ格好に着替えてせっかくお揃いになったのに! あたしとお揃いになってすぐに別の服に着替えるなんてイケズっす!」

 

 本当にしょうもない理由だった。そしてこのやりとり、既視感デジャヴを感じるというか昨日も同じやりとりしたな。


「あー、そうだなー、俺ってイケズだな」


「むぅ。彼女の扱いが雑っす!」


「うーん、そんなにお揃いって大事か?」


「大事っす!」


「……うん、そうか。それなら、拠点の中に今俺が着てるのと同じTシャツあるけど」


「着替えてくるっす!」


 食い気味に立ち上がって拠点の中に駆け込んでいく美岬。俺はとりあえず丸太椅子をかまどのそばに移動させて座り、大きいコッヘルにペットボトルから飲料水を流し入れ、美岬が脱穀して取り分けておいたジュズダマの殻を入れて火にかけ、煮出しながら待つ。

 やがて、長袖のラッシュガードの代わりに今の俺と同じ黒のTシャツを着た美岬が照れ臭そうにモジモジしながら戻ってくる。


「え、へへ……どうっすか?」


 ラッシュガードは伸縮素材で肌にピッタリとフィットするサイズだったから俺のものを美岬が着ててもジャージっぽくてそこまで違和感はなかったが、身長差が20㌢以上ある俺のTシャツを美岬が着るとさすがにダブダブだ。襟ぐりから鎖骨とスポーツブラが見えてるし、裾も丈の短いワンピースみたいになっている。下はレギンスだからエロくはないが。


「……さすがにサイズがでかすぎないか?」


「それがいいんす。そう、それが彼シャツの醍醐味なんす。えへへ……」


 美岬本人がめちゃくちゃ嬉しそうなのでよしとしておく。照れている顔も可愛いし。


「作業するにはあれだが、寛いでいる時ならいいかもな。……その、可愛い、とは思うぞ」


「おふっ! 可愛いっすか! えへへ……あたしは彼シャツを堪能できて、そんなあたしをガクさんが可愛いと思ってくれるならwin-winっすね」


 テレテレしながら近づいてきた美岬が自分の丸太椅子を俺のすぐ隣に移動させてきて、俺にピッタリとひっついて座る。そんな美岬の肩に手を回して抱き寄せる。


「win-winか。そうだな、美岬は笑ってる顔が一番可愛いし、美岬の笑顔が今の俺の原動力になってるから確かにそうかもな」


「はわわっ。そんなに可愛いと連発されると嬉しすぎてにやけてしまうっすよぅ」


 両手で顔を覆い隠そうとした美岬の手首をそっと掴んで引き剥がす。


「隠すの禁止。照れた顔も可愛いからちゃんと見せて」


「ふえぇ? か、顔近いっす! ドキドキがヤバイことになってるっす!」


「奇遇だな。俺もそうだ」


 そう言いながら美岬の唇を奪う。

美岬の両手がそろそろと俺の背中に回されてぎゅっとハグしてきた。服越しではあるが美岬の柔らかい胸の感触と激しい鼓動が伝わってくる。

 唇を離すと、美岬が熱の籠ったトロンと潤んだ瞳で俺を見上げてきた。その色っぽさに思わずゴクリと息を飲み込む。


「……――っ! ダメだ。このままだと抑えが利かなくなるから、ここまでにしよう」


 慌てて美岬と身体を離す。美岬もハッと正気に戻る。


「……あっ! そ、そうっすね。甘々な雰囲気につい流されてしまったっす。……もぅ、今のはガクさんが悪いっすよ」


「そうだな。今のは俺が悪かったな。すまん」


 夜にロマンチックな雰囲気になるのは気を付けた方がいいな。美岬が魅力的なのが悪いなどと言い訳をするつもりはない。リスクを考えた上で今はセックスはしないと決めたのだから、大人である俺の方が節度を持って行動すべきだった。


 気持ちを切り替える為に立ち上がり、かまどでグツグツと煮えているコッヘルを火から外し、クーラーボックスの上のまな板に鍋敷代わりに並べた小石の上に下ろした。

 お玉で煮出し汁を掬ってハマグリの殻に注ぎ、美岬に差し出す。


「ほれ。熱いから気をつけてな」


「あざっす。お茶っすか?」


「おう。たぶん飲み慣れた味だとは思うぞ」


「ほほう。……ずず、え? 爽健○茶!? あ、そうか。ハトムギ茶っすね」


「正解。煎ったジュズダマの殻を煮出せばハトムギ茶になるからな。これ以外の薬草や香草もブレンドしてオリジナルの健康茶を作ってみても面白いかもしれんな」


「あ、いいっすね。あたし、そういうの好きっすよ。せっかくだからこの島で手には入る生薬を色々ブレンドしてみて美味しい煎じ薬を目指してみるのもありっすね」


「うん。それはありだな。普段から飲み続けることができて、健康にも良い影響があるなら言うことなしだ」 


「よーし、じゃあ色々実験してみるっすね」


 盃のように両手で持ったハマグリの殻からハトムギ茶を啜りながら無邪気な笑顔を見せる美岬。つい今しがた美岬が魅せた色っぽい表情と妖艶な雰囲気はすっかり影を潜め、俺は密かにほっと安堵していた。

 美岬の“女の顔”は思っていた以上に魅力がありすぎて常にあれでは俺の身がもたない。


 俺もハトムギ茶の入ったハマグリの殻を手に美岬の隣に座る。

 それからはちびちびとハトムギ茶を啜りながら他愛のない会話に興じ、まったりと島での2日目の夜は更けていった。

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