第23話 4日目③おっさんは自分の大事なものを差し出す

 とりあえずいつもの日課としてウェットシートで身体を拭くが、俺も美岬も自然といつもより念入りに清拭してしまったのは、これはもう仕方ないだろう。

 それから交代でトイレを使うが、便も尿もほとんど出ない。摂取する量が少ないのだから当然だが。だが、これから嵐が来ることを考えるとスタミナを持続させる為にも少しカロリーの高いものを食べる必要があるかもしれない。

 そんな訳で温存していた高カロリー携帯食を食べることにする。1本を半分こにした高カロリー携帯食とヨコワジャーキーを1枚ずつと飲料水を150ccずつ、それとプランクトン採取器に溜まっていた大さじ1杯分ぐらいのプランクトンが今朝の食事となる。


「さて、だんだん天気が悪くなってきて海のうねりも大きくなってきているわけだが、美岬の意見は?」


「考えたくないっすけど、たぶんこれ台風の前兆っすよね」


 食事が終わってから美岬に訊いてみれば予想通りの答えが返ってくる。島育ちの美岬が言うのだからほぼ間違いないだろう。


「やっぱりそうだよな。フェリーに乗る前にチェックした広域天気図にマリアナ近海で発達中の熱帯低気圧があったからそいつがこっちに来てるんじゃないかと思ってるんだが」


 俺の予想に美岬が嫌そうな顔をする。


「マリアナっすか。だとしたら一番やばいやつっすね。この時期は太平洋高気圧が不安定なんで、マリアナで生まれた台風はどこに向かうのかまったく予想できないんすよ。一気に北上することもあれば、停滞したり迷走したりすることもあるし。一昨年だってうちの島を通過していった台風が戻ってきて反対側から再上陸して大変だったんすよ」


「ああ、あの発生してから20日ぐらい太平洋を迷走しまくったあげくに最後は伊勢湾から三重に上陸して大阪、京都を通って日本海に抜けて行ったやつか。変な台風だったから覚えているが……そうか、影響が長引くのは勘弁して欲しいな」


「うねりは出てるっすけど、風はまだそんなに強くないっすからまだ離れてるとは思うんすけど、楽観はできないっすね。足が速い台風だと一気に嵐になるっすし」


「そうか。じゃあ最悪それも想定しつつ備えをするとしようか。とりあえず、俺としてはまず何よりも優先的にしておきたいことがある」


「お、おお? それはなんすか?」


「落水への備えだ。あの夢で起きたことは実際にありえることだからな。海に落ちても生き残れるように準備しておこう」


「了解っす。とりあえず何からするっすか?」


「……そうだな。とりあえず、美岬が何も持たずに手ぶらで単独漂流なんて事態にならないように、いくつかサバイバルツールを譲るから、それの使い方をしっかり理解して肌身離さず身に付けておくんだ。とりあえずはこいつだな」


 そう言いながら俺が取り出したのは、すでに美岬の前でも何度も使うのを見せてきた大型のアーミーナイフだ。

 スイスのビクトリノックス社製のレンジャーグリップ78。折り畳んだ状態で130㎜で重さは約170㌘。12の機能が使える優秀なマルチツールナイフだ。

 1㍍ぐらいで切ったパラコードをナイフのキーリングに通して結んで輪にし、紐の長いペンダント状にして美岬に渡す。


「これは美岬にやる。首から下げるにはちょっと重いからたすき掛けにして常に身に付けておいてくれ。これが一本あるかないかで生存率が断然跳ね上がるから」


 美岬はそれを受け取ったものの、戸惑いを隠せない表情で言う。


「……でも、これガクさんの大事なナイフっすよね? あたしは正直、物の良し悪しは分かんないっすけど、このナイフがすっごく良い物なのは分かるっすよ。貰っちゃっていいんすか?」


「そこは気にするな。良いものだからこそ美岬に安心して持たせられるし、それのお陰で美岬が助かるなら本望だ。……ただ、彼女への最初のプレゼントが実用ナイフってのがちょっと微妙だけどな」


 俺が苦笑しつつ肩を竦めると、美岬がふるふると首を横に振る。


「この状況で大事なナイフをくれるのがどれほど大変なことか分かるっすし、ガクさんがそれだけあたしのことを大事に思ってくれてるのが伝わってくるっすから、どんなプレゼントよりも嬉しいっすよ! あたし、このナイフ一生大事に使うっす!」


 そう言いながらさっそく美岬がナイフの紐をたすき掛けに身に付け、ナイフを両手で大事そうに持って嬉しそうに笑う。


「そっか。喜んでもらえたなら嬉しいな。そのナイフは文字通り一生使えるナイフだから大事にしてやってくれ。とりあえず機能を説明するな?」


「はい! お願いするっす」


「まず、ブレードに楕円の穴が開いてるがそれはサムホールだ。右手で本体を握った状態で親指をその穴に入れて動かせば片手でブレードを展開できる。両手が使えなくても片手でナイフを開いて使えるようにするための機能だが、使い慣れるとかなり便利だぞ」


「ふむふむ……おぉ、片手で開けたっす!」


 美岬が言われた通りに片手でナイフを開いてみて、うまくいって喜んでいる。折り畳みナイフを片手で開けるかどうかは地味だがかなり重要な要素になる。ビクトリノックス社のアーミーナイフは高品質だが、このサムホールを取り入れているモデルは多くない。俺がこのレンジャーグリップ78を選んだのはこのサムホールの存在が大きい。


「ナイフを必要な時にいつでも片手で開けるように、見ないで開く練習もしておくといいぞ。……ブレードの隣に収納されているのはノコギリだ。大きいものは切れないが、細目の薪や竹や枝なんかを切るのにはぼちぼち使えるから工作には便利だな」


「ほうほう。なかなか可愛いサイズのノコギリっすね」


「缶切り、栓抜き、マイナスドライバー、プラスドライバー、ワイヤーストリッパーはぶっちゃけ現状ではほぼ使わないと思うから詳しい説明は省くが、まあ何かをこじ開けたりするのには使えるかもな」


「そっすね」


「地味に役立つのは穴の開いた尖ってるツール、穴開けリーマーだな。ミシン針みたいに糸を通す穴があるから、例えば革みたいな硬い素材に穴を開けて紐で縫い合わせるのにも使える」


「なるほど」


「あとオマケみたいな扱いだが、ピンセットとプラスチック製のつまようじも収納されている。つまようじは使ったことはないが、ピンセットは手に棘が刺さった時なんかに棘抜きとして重宝するぞ」


「おー、それは地味に便利っすね。あたしも学校の農作業とかで手に棘が刺さる度に毛抜きを探し回りますもん」


「……ちなみにこのナイフを学校に持っていったら銃刀法違反で捕まるからな?」


「…………わ、分かってるっすよ?」


 美岬が露骨に目を泳がせる。こいつ、普通に学校にも持っていくつもりだったな。


「……本土に戻ったらもっと小さいキーホルダーサイズのビクトリノックスのアーミーナイフをプレゼントしてやるから。それなら普段から持ち歩いてても問題ないし、これと同じようにピンセットも付いてる」


「おぉ! それは楽しみが増えたっす!」


「とりあえずナイフの説明はこんな感じで、次はこれだな」


 俺が次に取り出したのはファイアースターターだ。サバイバルで有用な火起こし用のアイテムだ。


「これなんすか?」


「ファイアースターターっていう火起こしの道具だ。火打ち石みたいな使い方をするんだが、とりあえず一つずつ説明していくな」


 このファイアースターターは三つの部品から成っていて、紐で1セットにまとめてある。俺はまず黒い円柱状の金属棒に木の柄の付いた物を手に取る。


「これは発火棒だ。この黒い棒は低温で発火するフェロセリウムという金属だ」


「ふむふむ」


 次にノコギリのようにギザギザになっている板ガムサイズの鉄の板を手に取る。


「こっちは火打金ひうちがねだ。このギザギザ部分で発火棒を一気に擦ると高温の金属火花が散る。基本的にファイアースターターというのはこの発火棒と火打金のセットのことを指すな」


「なるほどっす。じゃあもう一つはなんすか?」


 俺はマッチ箱サイズの鈍い銀色の金属の塊を手に取る。


「これは着火材のマグネシウムだ。マグネシウムは火をつけると高温で燃え上がる性質があってな、こいつの削りカスにファイアースターターで火花を飛ばして点火してだんだん火を大きくしていくんだ。……まあ口で説明するよりちょっと実演して見せた方が早いな。見ててくれ」


 火花がエアーマットレスに飛ぶと穴が開くから、クーラーボックスの上にコッヘルの蓋を皿がわりにして置き、その中にマグネシウムを火打金のギザギザ部分でガリガリと削って欠片を落としていく。


「マグネシウムは見てのとおりの柔らかい金属だから簡単に削れる。これに火をつけるんだ」


「ふむふむ。火薬みたいな物と思えばいいんすね?」


「そうだな。実際花火とかにも使われてはいるな。じゃ、やってみるぞ」


 マグネシウムの削りかすに向けてフェロセリウム点火棒を火打金で勢いよく擦れば、シュバッと激しく火花が散り、その火花で点火された削り滓が眩しいほどの白い炎で瞬間的に燃え上がるが、すぐに燃え尽きて消える。


「すごっ! かなり眩しいんすね」


「そうだな。この一瞬で眩しく光りながら燃える性質は昔のカメラの使い捨てストロボなんかにも使われてたらしい。ま、とにかくマグネシウムだけだとこの通り一瞬で燃え尽きるから燃えやすい紙とかにこれでまず火をつけて、だんだん大きくしていくって感じだな。海で漂流している間は使わないと思うが、運よく陸に上がれたら火起こしは必須だからこれも持っておくといい」


「あざっす! これはバッグの方に入れといたらいいっすか?」


「そうだな。それと焚き付けもセットにしておくか」


 食品用のビニール袋にノートの紙を裂いて入れ、その中にウォッカを少し流し込んで紙に染ませ、揮発しないように口を結ぶ。


「それ、昨日もページを燃やすのに使ってたっすけど酒っすよね?」


「こいつはポーランドのスピリタスってウォッカだが、これは飲むためというより消毒とか燃料の為に持ってる感じだな。なにしろアルコール度数が96°もあるほぼ純粋なエタノールだからな。そのままじゃとてもじゃないが飲める代物じゃない」


「96°ってそんなものがあるんすね」


「市販の酒では最高のアルコール度数だ。例のパンデミックの時は消毒液代わりに使えるってんで値段が高騰してたな。それはさておき、このウォッカを染ませた紙にファイアースターターで点火すればいい焚き付けになる。引火しやすいから扱いは慎重にな?」


「了解っす」


 美岬がファイアースターターと焚き付けの入ったビニール袋を自分のスポーツバッグに仕舞う。


「保存食と飲料水もそれぞれの荷物に分散しておこう」


 現在、手持ちの食料としては高カロリー携帯食5本、ジャーキー15枚、油漬け1袋、魚肉ハンバーグ1袋と玄米があるが、このうちの保存性に優れた高カロリー携帯食とジャーキーをそれぞれの荷物に分散することにする。

 美岬の方に高カロリー携帯食3本とジャーキー7枚、俺の方に高カロリー携帯食2本とジャーキー8枚だ。

 そして飲料水だが、現在容器としては2㍑水筒が1個、2㍑ペットボトルが1本、500ccペットボトルが2本あり、飲料水そのものは3.425㍑ある。

 それで、美岬の方に1.7㍑入りの2㍑ペットボトルと空の500ccペットボトル1本、俺の方に1.725㍑入りの2㍑水筒と空の500ccペットボトル1本をそれぞれ割り振っておく。


 それから、パラコードを2㍍の長さで2本切り、これを命綱として片方を自分の足首に結び、その反対側を俺はリュックに、美岬はスポーツバッグに結わえ付ける。こうしておけば、仮に筏から転げ落ちたとしても、浮力があり、食料と水も入っているそれぞれの荷物に掴まって漂流できることになる。筏に比べると心許ないがそれでも身一つよりは断然ましと言えるだろう。








【作者コメント】


 もし無人島に何か一つだけアイテムを持っていけるとしたら? 私ならビクトリノックスのレンジャーグリップ78を選びます。あともう一つ何かを持っていけるとしたら? 私ならファイアースターターを選びます。この二つがあればかなりの間は頑張れるでしょう。ちなみにこのファイアースターターはなんと最近ではセリアでも買えます。ただし、安い物はフェロセリウム製ではなくマグネシウム合金製で、フェロセリウム製に比べると発火温度が高いのでちょっと難易度高めです。


 あと、今回の話の中で岳人は美岬のナイフに紐を付けましたが、これは実はめちゃくちゃ大事です。ナイフに限らず、すべての道具にちょっと長めの紐を付けてベルトなんかに結んでおけば、手が滑ってうっかり落としても大事な道具をロストせずに済みます。特に海だと落としたらほんとにヤバいので釣りに行く人には必須です。

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