天文十三年
1話 前世の記憶を思い出しまして
ぱち、ぱち、と瞬きを二度繰り返す。
生まれてから9年間見続けてきた、見慣れた天井のはずなのに、どこか違和感がある。
もうひとつ、見慣れた狭い天井が記憶の中にあるのは、なぜだろう。
ふたつの天井の違いに困惑しつつ、布団の中で両手指を握っては閉じ、開いては握って。
これが自分の身体であることを確かめながらもうひとつの、もうひとりの“私”の記憶を縫い付けるように思い出していた。
最後の記憶は、明日の仕事のためにスマホのアラームをセットして、無料アプリの漫画を読んでいた。
仕事に疲れたOLが、料理上手な
初回は豚の角煮だった。
最近の少女漫画でありがちな展開。面白みも興味もそこまであったわけではないけれど、ついつい読み進めてしまった。
出てきた料理が、思い出すだけで涎が口の中にたまるほど美味しそうだった。
明日、会社帰りに駅前のお総菜屋さんで角煮があったら、ぜったい買って帰ろう。
そう考えながらスマホから手を離して、起きたらここだ。
見慣れた鉄筋コンクリートの、無機質なアパートの天井ではない。
異様に高いし、なんというか、違和感があるほどにすべてが木造なのだ。なぜか天井に電気がない。
布団はずいぶんとふかふかしている。もう少しぺっちゃんこの布団をベッドに敷いていたはず。
寝巻も、よく着ていたジャージやスウェットではなく、肌触りのよい着物だ。こんな純和風なパジャマは持っていなかった。
布団の中でもぞもぞと身じろいで、その身体の小ささに、ようやく気づいた。
ああ、そうだ、私は今、角煮が食べたい廃れたOLじゃ、ないんだった。
「姫様、お気づきになられましたか?」
「あ、えーと……」
姫様、と呼ばれたのは、私だ。
問いかけたのは、いつも側に仕えてくれている、お世話係の
物心ついた時からそばにいるので、召使いというよりは姉代わりのような存在。
うん、“こっち”の記憶もある。
あるけど、こっちとは別にもうひとつ、
そう、2種類あるのだ。
どちらかを鮮明に思い出そうとすると、頭の中にごちゃまぜの情景が一気に浮かんできて、ぐわんと目が回る。さらに後頭部がひどく痛む。
思わぬ痛みに、うぐ、と顔がひきつった。
「姫様、やはりお加減が……顔色が悪うございます」
「あ、いや……大丈夫。えっと、鈴加。今って、何年だっけ?」
「…………
上半身を起こしつつ聞くと、鈴加は神妙な顔をして出て行ってしまった。
そりゃそうだ。木に登って頭から落ちた姫が、後頭部にたんこぶをつくったまま、「今何年?」などど聞いてきたのだから。
打ちどころが悪かったのかと心配にもなる。
お、無理矢理記憶を引っ張り出そうとしなければ、頭は痛くならないのかも。頭痛はもう平気だ。
ここに寝かされる少し前のことは、覚えてる。
私は9歳の、この城のお姫様。
ついさっきまで木登りして、そして見事に頭から落ちた。
その瞬間色んな記憶が頭の中に飛び込んできて、目を回して倒れたのだ。
そこから考えるに、これは完全に異世界転生。
異世界転生ものの漫画は、暇な通勤時間にけっこう読んだ。
鈴加も質素な着物だったし、私が今着てるのも
さしずめ、和風ファンタジー風異世界ってところか。
前世でなんで死んだのかはわからないけど、持病も特にない若者だったし、ありがちな交通事故ってところかな。
頭を打ったのなら、死んだときの記憶が吹っ飛んでいてもおかしくない。
「赤ちゃんからスタートの方が楽だったかもなー……ま、断罪直前に思い出すのとかじゃなくてよかったけど」
異世界転生したのなら、まずは状況と世界観の把握が大事だ。
魔法があるのかとか、婚約破棄されるのか、とか。
天文十三年。
平成でも令和でもない。
この世界のオリジナル歴だろうか。
お姫様である現在の私は、勉強をサボっていたせいか、9歳にしては、自分が生まれ育った世界に関しての知識があまりない。
深いところを思い出そうとすると後頭部が痛むのでしばらくはやめとくけど、現状知識としてあるのは今いるこの城の名前と、国名くらい。
それ以外の、世界に関する情報はほぼ皆無だ。要するに、ちょっとおつむの出来は良くない……。
「
キョロキョロと部屋を見渡していたら、
四十代半ばくらいの、背は低いけれど威圧感たっぷりなおじさんは、私のそばに腰を下ろすと心配そうに顔を覗き込んできた。
この、一度睨まれたら心臓まで凍ってしまいそうなコワモテは私のお父さんで、私が今住んでいるお城の主。
ちなみに「小蝶」はこの父上が名付けてくれたという、父の顔に似合わずかわいい、今世での私の名前。
「父上、大丈夫です。こぶはできましたが……」
「医者も
「はい」
低く呼ばれた鈴加は礼をすると、静かに下がって襖を閉めた。
これは、物心ついてから何度か経験がある。無理に思い出そうとしなくても、身体に染みついているので雰囲気でわかるのだ。
これから起こることに覚悟を決めて父へ向き直ると、カエルくらいなら睨みだけで殺せそうだった目が、とろけたように目じりを下げて緩む。
整えられた口髭の下できゅっと結ばれていたへの字の唇が開き、赤子に対するような甘ったるい声が飛び出した。
「小蝶ちゃあん?わかったらもう、お城の生垣に登って抗議するなんて危ないこと、やめてねえ~?父上、心配で心配で……」
「うっ、ご、ごめんなさい」
父はその細い顎をぐいぐい押し付け、私のやわらかな頬をこそげるかのごとく頬ずりをしてきた。
子どもの力で抗えるわけもなく、私はなされるままに腕の中で力を抜く。
父は周囲には厳しい人間だが、身内、こと娘に対してはめっぽう甘いのだ。
一応、部下や使用人のみなさんがいるときには「子どもにも厳しい父親」という態度を徹底しているようだが、毎回のことなので鈴加あたりには薄々気づかれていることだろう。
「嫁入り前のかわいいお顔に傷なんてできたら、
「はっ!そうだ、嫁入り!結婚!!」
そうだった。
私が前世の記憶を思い出したのは、登っていた木から落ちて頭を打ったせい。
木に登ったのは、親の決めた婚約が嫌で逃げ出したから。
なるほど、異世界転生感が出てきたぞ。もう少し絞り込むヒントがあれば、なんのゲームだか作品がわかるかも。
父上は甘々
袴姿なのも相まって、とても姿勢が良い。
「それについては諦めろ。もうほとんど決まったことだ」
「で、でも!私、まだ9歳ですよ?はやくないですか!?」
「まあ向こうもまだ元服しとらんから、まずは婚約と言ったところだな。状況が変われば、破談もあり得る。本当は
弧を描いた口元から、草食動物を、いや肉食動物をも噛み殺しそうな鋭い牙が見えた気がした。娘の私でも、背筋が少しだけ冷える。
「あ、あの、父上……お相手は、なんてかたでしたっけ?」
「
「きっぽうし……?」
変な名前。こっちでは普通なのかな?
ごちゃつく前世の記憶の中にはなさそうだけど、こっちの記憶では聞いたことがある、ような。
隣国の国主の長男だったか次男だったか。いや三男だったかもしれない。なにしろ私は、現世でも前世でも、政治に興味がない。
婚約するくらいだから、歳の近い子だろうか。一応私もお姫様なんだし、向こうもきっと王子様……若様ってところかな?
親の決めた相手と9歳で婚約、政略結婚。
年代物の少女小説っぽいんだけど、世界観がちゃんとわからないから、この婚約を破棄すべきか受けた方が良いのか、今の段階ではわかりかねるな……。
「父上、では私、吉法師くん?に一度お会いしてみたいです!」
「ならん」
即答。
「お前はいつも突拍子のないことを言うな。婚姻前の
そういうものなのか。困ったな。
会ったこともないよく知らない子供と婚約なんて。前世でも未婚だったのに。
せめてどんな子か会ってから見極めないと。なんの作品かも、まだわからないんだし。
「お会いできないのなら、結婚は嫌です!一目お会いできたら考えます!」
「ほう。そうか、“考える”か」
「えっええ、まあ」
「……そうだな、うむ。難しいかもしれんが、伝えておこう」
そう、謎の笑みを残し、父上は満足げに部屋から去って行った。
なんだか丸め込まれた気がするけど、ま、いっか。
会ってみて、破滅フラグが立ちそうな相手だったら、婚約破棄の方向へ持っていけばいいし。
まだ9歳なんだもん。時間はあるよね。
その後、本当に結婚前に
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