第一話 絡みついた糸
あれから一か月ほどが経っていた。カルトゥに戻ったシドから、虫を連れた奇妙な女の噂を聞いて、もう一か月だ。気もそぞろの一か月だった。
俺はどうすべきか迷っていた。アレックスからの連絡はやはり来ない。アクィラがどうなったのかは分からないままだ。
目の前にドアがある。ガブレス親方の部屋のドアだ。それを開けようかどうか迷って、もう数分経った。このドアを開けるなら、行くとなるなら、相応の覚悟を決めなければならない。
「……よし」
俺は意を決し、ドアをノックした。
「何だ?」
ガブレス親方の返事が聞こえ、俺はドアを開けた。ガブレスは煙草の煙を吐きながら、不思議そうに俺を見た。
「何だ、お前か。カシンダかと思った」
「カシンダはまだ戻ってないぜ。話がある」
「ふん、いいだろう。まあ座れよ」
ガブレスに言われ、俺は客用のソファに腰掛ける。どう切り出すべきかずっと悩んではいたが、結局、単刀直入に言うのが一番だろう。
「暇をもらいたい……」
「暇? はっ! 金がない金がないとピーピー言ってるお前が、暇をくれとはな。まあいい。急ぎの仕事は聞いとらんし……いいだろう。何日だ?」
機嫌がいいらしく、ガブレスは鷹揚な口調で言った。
「……一か月だ」
「何?」
途端にガブレスの目つきが険しくなる。下手なことを言うと怒声と一緒に物が飛んでくるが、しかし、引き下がるわけにはいかなかった。
「一か月だ。暇をもらいたい」
「……お前、分かって言っとるのか?」
「ああ、分かってるよ」
虫狩りは誰にでもできるが、しかし、誰でも勝手にやっていい仕事ではない。虫狩り寄り合い所で人数分の登録書を町に申請し、その登録書を借りた者が正式に虫狩りとなる。寄り合い所は毎月登録書の数だけ町に登録料を支払う必要があり、普通は依頼料の中から天引きされる。もし一か月間虫狩りとしての仕事を行わないとなると、依頼料から支払うことができず、その登録書の登録料は寄り合い所の負担となる。
だから俺が一か月休むというのなら、俺の分の登録書は他の虫狩り志望者に回して働かせた方が、寄り合い所としては損が無い。そして他人のものになった登録書を、俺が一か月後に戻ったからと言って俺に戻す義理はない。俺はもう、ここで虫狩りとして働くことができない可能性が高い。ガブレスが言っているのはその事で、それは先刻承知だった。
「行かなきゃならないんだ。それでも……」
「ふざけてんのかてめぇ!」
ガブレスが机を蹴とばした。重い木の机が浮き上がり、激しく床にたたきつけられる。煙草の灰が散らばるが、ガブレスは気にも留めず立ち上がった。
「どこへ何しに行く気だ、てめぇ! まさか例の女捜しじゃねえだろうな? ぶっ飛ばされてえか!」
ガブレスがソファの隣に立ち俺を見下ろしていた。太い腕だ。もう現役は引退したが、ガブレスは素手でゾウムシを倒したことがあるという噂だった。普通ならあり得ない嘘だと分かるが、ガブレスに限っては本当のように思えた。
俺は気圧されないように、息を整えてから言った。
「例の女を探しに行く。ラカンドゥにな。だから一か月暇をもらいたい」
ガブレスの蹴り足が見えた。その直後に、俺はソファごとドアの辺りまで吹っ飛ばされていた。倒れた俺の上にソファが落ちてくる。
ソファをどけようとすると、ガブレスが俺の足をつかんで振り回した。体が浮く。壁が、本棚が近づき叩きつけられる。そのまま俺は本棚の下に落ち、その上から本がばらばらと落ちてきた。
ガブレスの力は尋常ではなかった。殴り合いなら間違いなく殺されるだろう。俺は次の攻撃に備えようと体を起こしたが、ガブレスはソファテーブルに腰掛け俺を睨んでいた。
「ウルクス……俺はこれでもお前を買っている。ザリアレオスが死んでから、お前は腐ることなく立派に虫狩りに成長した。お前は俺にとって……息子とまでは言わんが、身内のようなものだ」
初めて見るガブレスの顔だった。身内か。確かにそうだ。親父が死んでから、面倒を見てくれたのはガブレスだ。
「あんたには感謝しているよ。俺が今まで生きてこられたのは、あんたのおかげだ。虫狩りになれたのもあんたのおかげだ」
俺は言いながら本をどけ、立ち上がった。ガブレスは視線を落とし俯く。
「……お前のことは分かっているつもりだ。さぼり癖は少々問題だが、お前は一人前の虫狩りだ。腕も悪くはない。そしてお前が、女にうつつを抜かすような馬鹿ではないことも分かっている……」
ガブレスは頭を抱えるように両手で目の辺りを押さえた。
「お前が見世物小屋の女に一目ぼれしたとか言い出した時は、お前も女遊びをするようになったかと思ったよ。しかし妙だった。それにカシンダからも言われたよ。お前は、何かを隠していると……」
ガブレスは大きく息を吐いて、俺の目を見つめた。
「三か月前、何があった? 思えば、お前がおかしくなったのはあの時からだ。あの警護任務から帰って以来……お前の様子はどこかおかしい。この一か月は特にそうだ。何を隠している? 何に巻き込まれているんだ? 一か月の間に何をする気だ? それに……」
ガブレスが悲しそうな表情で俺から目をそらし、言った。
「……お前は、ちゃんと帰ってくるのか? 死にに行かせるわけにはいかん。ザリアレオスに合わす顔がない……」
ガブレスはもう一度俺の目を見つめていった。
「答えろ、ウルクス。お前は何を隠している? 本当は何をする気なんだ?」
答えは決まっている。
「俺は……ラカンドゥまで例の女を探しに行く。それだけだ……」
ガブレスの表情に一瞬怒りがよぎったが、すぐに力が抜け疲れたような表情になった。
「……それは虫狩りとしての仕事か? ……お前でなければ出来ない事なのか?」
「俺がやらなくてもいいことだ。二度と関わる必要もない……だが……行かなければならない。何もできなくても……俺は行かなければならないんだ。約束をした……それを忘れて生きていくことはできない」
俺の言葉を、ガブレスは黙って聞いていた。そしてまた大きく息をついた。
「馬鹿め。何に巻き込まれているのか知らんが……お人好しだな。ザリアレオスに似なかった……」
「親父は冷たい人間だったのか?」
「ザリアレオスはお前と違って責任があったからな。後進を育てて束ねていた。手前勝手な行動は取らなかった」
「責任ね……確かに俺は根無し草だ。何も背負っちゃいねえが……一つだけ背負ってるんだよ」
そう。絡みついた糸のように、俺の心に引っかかっている。けりを付けない限り、俺の人生は前に進まない。つまらない人間の大したことのない人生だが、俺にも意地がある。
「下らん。金にもならなそうだな、その話は」
「そうだな。金は出ない……ただ働きだ」
「よし、よかろう」
ガブレスは机から立ち上がり両手を払った。
「好きにしろ、馬鹿者め。ラカンドゥでも機械の谷でも好きなところに行け」
「ああ、ありがとうよ、ガブレス親方」
ガブレスは右手の人差し指を立てて言った。
「一か月だ。その間は待ってやる。しかしそれを過ぎれば、ここに貴様の居場所はない。せいぜいタルカス爺さんの下働きだな。オサムシでも磨いてろ」
「へっ。そいつは勘弁だな」
「なら戻ってこい。一か月以内に……生きて、な」
「ああ。そうするさ……で、誰が片付けんだ、この椅子やら机」
部屋の中はまだ埃が舞っていた。ガブレスの仕事机の周りには灰も散らばっている。蹴っ飛ばされたソファは側面が割れて壊れているようだった。
「ノーマンにやらせるさ。今日はもう客は来んだろう……いつ発つ?」
「明日だ」
「……まったく、どうあっても行く気だったらしいな」
呆れたようにガブレスが言った。
「ああ、そうだ」
「他の者には……お前は女のけつを追いかけに行ったと言っておく」
「えっ? それはちょっと……」
「うるさい! 文句があるならさっさと帰ってこい!」
「えー……俺の評判が悪くなるぜ」
「元々大して良くない。気にするな」
「ちっ……まあいいか。じゃ、行ってくるぜ」
「ああ。帰ってこいよ、必ずな」
ガブレスと視線を交わす。帰ってくるさ、必ず。アクィラを見つけて。
俺はドアを開けて部屋を出た。もう後戻りはできない。行くだけだ。
階段を降りるとノーマンが受付でウトウトしているところだった。床を踏みつけて音を鳴らすと、ノーマンはびっくりして跳ね起きた。
「はいギンガマス虫狩り寄り合い所です。ご用件は何でしょうか?」
「ノーマン、親方が呼んでるぜ。部屋を片付けろってよ。あと俺は……しばらく留守にする」
「留守? どっか行くの? 仕事?」
まだ少し寝ぼけた目でノーマンが聞いた。
「ラカンドゥに行く。ちょっと訳アリでな……」
「訳アリ? ふーん、そっか、気を付けてね!」
「ああ、行ってくる」
ノーマンの軽いのりともしばらくお別れだ。まあこれは、そんなに名残惜しくないが。
外に出ると日が暮れようとしていた。日が昇る頃には、ラカンドゥ行きの虫車の中だ。
空に月が昇り、明るい星が瞬いている。この星を、どこかでお前も見ているのか、アクィラ? それともお前の中にいるのは別の誰かなのか。いずれにせよ、自分の目で確認しなければならない。アレックスには悪いが、俺は俺で勝手にやらせてもらうぜ。
星が流れた。願うのは、アクィラの無事だけだ。ラカンドゥにいるのかどうかもわからない。だが、必ず見つけ出す。星を見上げ、ウルクスはそう誓った。
※誤字等があればこちらにお願いします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます