宵闇の夏色
古井論理
宵闇の序幕
夕暮の薄色
駅の救済論
大会が終わってから、もうすぐ一時間が経つ。ほとんどの参加者が去り、人がほぼいなくなった駅の構内で私はベンチに座る。隣にいるはずのコウくんは、そこにはいないかのようだった。私はコウくんの方を見ることなく、茜色の空をただ眺める。ぬるくなったスポーツドリンクのペットボトルが私の手の中でグシャリと音を立てる。うるさく騒ぎ立てる蝉の声とホームに残る昼間の日差しが、足下から日差しを浴びているかのように肌にまとわりついた。
「そんなにため息ばかりついていても始まらないよ。大会の結果はただの結果だ。アヤナが負けたわけじゃない」
コウくんが不意に存在を取り戻し、半ば独り言のように言った。
「そう、かもしれないね」
私は泣きそうなのをこらえ、やっと言葉を発した。ジージーという音を立てる何かの機械と一緒になった蝉の声が、音の壁のように私とコウくんを取り囲む。
「演劇同好会はこれからだ。これからまだなんとかなるかもしれない」
コウくんはいつものように穏やかな口調でそう言って私を励ます。励まされる気なんてないのも知っているのだろうけれど。
「だけど……もう僕は終わりだ」
コウくんがぽつりと不穏な言葉を零した。蝉の声がすっと遠のき、空が心なしか色あせたような気がする。似つかわしくない発言が頭の中で反響し、ため息が出かかっていた口から疑問が漏れた。
「え?」
いまにもあふれ出そうだった涙は一瞬で引き、訳が分からなくなった私は目を細めて、コウくんが次の言葉を発するのを待ちながら、さっきまで眺めていた空を見上げた。茜色に染まっていく雲は知らん顔で晴れた空を横切って、紺青が少し混じり始めた夕焼けは沈んでいく太陽の照り返しを受け、少しずつ、しかし確実に暗くなっていく。
「ああ、独り言だから気にしないで」
コウくんはそう言ってお茶を濁す。これ以上聞いたとしても何もないかもしれない。私が知っていいことかどうかもわからない。それでも私は反射的に質問していた。
「どういうこと?」
コウくんはしばらく沈黙していたが、やがて小声ではっきりと言った。
「僕はもう脚本が書けない。それだけ」
私はコウくんの方を向いた。そこにはいつものようにネタ帳を持ち、背筋を伸ばしたコウくんがいる。けれど、その瞳は輝きを失っていた。
「僕は、精神安定剤を飲んでる。僕の想像を制限する薬だ。そして、長く使えば想像が思うようにできなくなる。もう二ヶ月もネタ帳すら書けてない。物語が浮かんでこないんだ」
私は衝撃を受け流そうとして、なんとか言葉をコウくんに投げかける。
「でも……もしかしたら」
コウくんは頷いたあと首を横に振った。
「ああ、薬を飲むのをやめれば物語は浮かんでくるかもしれないね。でも薬がなければ僕は感情に呑まれて、どうしようもなくなるんだ」
「そうなんだ……」
かける言葉が見つからず、私は黙ってしまった。コウくんは何か言おうとするが、声にならないため息をついてうつむき、気配を徐々に消していった。まるで私が一人だけになったのような気まずい沈黙が流れる。踏切が音を立てて閉まり列車が思いのほか静かな音とともにぬるい風を切って走り去る間、定まらない視線はコウくんの横顔と列車とを行き来していた。
「そういえばさ」
言葉が口をついて出てくる。コウくんがこっちを向いた。
「どうしたの」
もうすでに希望は見えない。見えないものには縋れないなら、もうこの場で全てをぶちまけた方が楽だろう。チヒロのことが解決しない問題だとしても、それを話さないでどうしろというのか。
「チヒロ……戻ってくるかな」
コウくんは暗い表情のまま、口角を上げた。
「……戻ってくるといいね」
そう言ったコウくんの顔からは、少しずつ作り笑いが剥がれていく。
「チヒロが入院しなければ結果も変わってたのかな」
私の問いに、コウくんは予想通りの答を提示した。
「変わってたかもしれない。でも結果に『もしも』はない」
残念そうに顔をうつむけたコウくんに、私は悲しい一抹の安堵を感じた。いつものコウくんだ。
「まあ……そうだね」
安心した矢先、コウくんはまた不穏な話を出した。
「僕はここで終わりだから偉そうなことを言えた立場ではないけどね」
私は何も言えなかった。さっきとは打って変わって、コウくんからの励ましを待っている自分がいるのが嫌だったから。
「……」
「まあ春の大会には出られるかもしれないね。春になる頃には一年生も上手くなっていると思う。だから、アヤナは新しい一歩を踏み出していかないと」
コウくんが何かを察したのか、突然私の願望に応えようとする。
「全然励ましになってないんだけど」
「ごめん」
コウくんは落ち着いた声で謝りながら頭を下げた。私は話題を変えようと、レールに視線を落として問いかける。
「電車が来るのって何時だっけ」
「七時三十二分……あと二分ぐらい」
あと二分ならもう長話はやめた方が良いだろう。またジージーと音を立てて機械が鳴き始め、蝉の声は山の輪郭が曖昧になっていくにつれ小さくなっていく。
「なら続きは電車の中かな」
「そうだね」
一分ほどの沈黙のあとに、コウくんは再び口を開いた。
「電車が来る前に、これだけは言っておくよ」
コウくんはゆっくりと立ち上がると私の前に回り、大きく息を吸い込んで、いつもよりかしこまった口調になった。
「どんなに絶望的な状況であっても、あなたが生きている限り明日は必ず待っています。明日が絶望的すぎたら逃げてもいい。でも、逃げ続けるのはおすすめしません。逃げ続ければ、明日を二度と拝めなくなりますから」
「どういうこと?」
戸惑う私に、コウくんは静かな、そして自然な笑顔で微笑んだ。
「頑張ってくださいね」
コウくんの声は、初めて会った頃の敬語で話す彼を思い出させた。私は少し懐かしい気分で頷き、立ち上がった。
「電車が来ますね。乗りましょうか」
見れば電車のヘッドライトが夕闇を切り裂いて近づいてくる。夕日が照りつける七月最後の一日、私にとって最後の夏大会が幕を閉じた日。そのエンドロールを引きずるように、列車がホームに止まってドアを開けた。
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