第96話 温水浸り

 小夜とは別れて、月夜はフィルと一緒に自宅に帰った。何のために小夜に会ったのだろう、と月夜は自問した。もしかすると、世の恋人たちも、そんな動機で会っているのかもしれない。要するに、会いたかったから会った。それだけのことだ。


 一応、小夜には分かったことを伝えたし、彼女からもまだ問題はないとのお墨付きを貰ったので、成果はあったといって良い。お墨付きは貰えるものなのか、と一瞬疑問に思ったが、今はその問題について考えられるキャパシティーがないように思えたので、月夜は思考をシャットアウトした。


 ……一体、何のキャパシティーだというのだろうか。


 フィルと一緒に風呂に入った。風呂に入るとは、比較的温度の高い水の中に浸かる、ということだ。それ以上でもそれ以下でもないし、その中間でもない。入って、温かいなあ、と感じることが目的とされる。湯に浸かっただけでは汚れが落ちないので、それからさらに身体を擦る必要がある。ここでいう身体の中には、頭と顔も含まれる。そして、頭という言葉には、顔の意味が含まれることもある。


「あわあわで、なかなかいい感じだ」


 お湯の中でぷかぷか浮かびながら、フィルが奇妙なことを言う。


 月夜はシャンプーであわあわな頭を擦りながら、横目で彼を見る。


「いい感じで、よかったな、と思う」


「お前のそういう感想が、一番安心する」フィルは話す。彼の声も天井や壁にきちんと反射する。何がきちんとなのかは分からないが。「社交辞令は、ない方が効率的だ、と考えていたときもあったが、あると安心するものなのかもしれないな。挨拶なんかもそうだろう。皆、安心するために挨拶をするんだ」


「何に対する安心?」


「安心は、生きることに対するもの以外ありえない」


 頭をシャワーで流す。シャワーで流すとは、もちろん、シャワーから流れるお湯によって流す、という意味だ。それ以上でもそれ以下でもないし、その中間でもない。そして、その中間の中間でもない。


「風呂から出たら、何をするつもりだ?」


 フィルに問われ、月夜は身体を洗いながら答える。


「勉強」


「いつもそれじゃないか。たまにはほかのことをしたらどうだ?」


「テレビを観ている人も、テレビを観ながら、色々と考えているんだと思う。つまり、勉強している」


「勉強という言葉に、意味を背負わせすぎだ」

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