【Session52】2016年06月19日(Sun)父の日
今日はあいにくの梅雨空で、朝からしとしとと雨が降るそんな日である。外は蒸しており、まさに梅雨の真っ只中と言う感じであった。
学はと言うと、今日と言う日を迎えるのが嫌だった。それは話題にして欲しく無いNGキーワードがあったからだ。その言葉とは父の日だった。そう、学にとって父との関係は、一生向き合いたくないことだったのである。それは学が幼い頃に受けた父からの虐待に関係する。学は今でも当時のことを思い出そうとすると、自分の意識が拒絶するのを覚えるからだ。
またこのことに触れないでおこうと意識すればする程、逆に当時の嫌な記憶が蘇って来るのであった。だから学は、そんな時はこころを落ち着かせる為に瞑想を行うのだ。そして自分のこころを中道に置いておくのだった。
学は、何時ものようにカウンセリングの準備をして彩が来るのを待っていたのである。彩は相変わらず約束の時間の少し前に、学のカウンセリングルームに訪れた。
木下彩:「こんにちは倉田さん。宜しくお願いします」
倉田学:「こんにちは木下さん。こちらこそ宜しくお願いします」
木下彩:「倉田さん。今日は父の日って知ってましたか?」
倉田 学:「ええぇ、まあぁ」
木下彩:「倉田さんから父親の話、一度も聴いたこと無いですけど」
倉田 学:「僕の父は自慢できる父親じゃ無かったから」
木下彩:「でも、血の繋がった父親でしょ!」
倉田学:「だから逆に難しいんです。この話はもう止めましょう」
学はこの話題には触れて欲しく無かった。それは自分が父親や母親から捨てられ、そしてもう一生両親に会うことは無いだろうと思っていたし、これから先ももう一生愛されることは無いと確信していたからだ。このことを自分自身でも記憶の奥底に閉じ込め、今まで観て見ない振りをして来たからだった。そんな学にとって両親、そして父親の話は、とても耐え難く自分のこころを揺さぶるのだ。だから学は父の日と言う今日を迎えたくなかったし、また誰にも合わずにひとりやり過ごしたかったのであった。
こうして彩とのカウンセリングが始まった。彩自身も中学三年の時に父親から性的虐待を受けていたので、学の気持ちを察することが出来たのである。その学の弱さを知った彩は、次第に学に惹かれて行くようになっていった。ある種、二人は両親からの愛情をちゃんと受けず、ここまで成長して来たと言っても良い。そしてそれが二人を今、強く結び付けているよう感じられてならない。学は気を取り直し、何時ものように彩に「催眠療法」を行い、ひとみへと人格を入れ替えて行ったのだ。そしてこう尋ねた。
倉田学:「あなたの名前を教えてください」
綾瀬ひとみ:「せんせ、お久しぶり」
倉田学:「あなたはひとみさんですね」
綾瀬ひとみ:「ええぇ、そうよ。せんせ、ちょっと落ち込んでるのぉ?」
倉田学:「いいえ。そんなことはありませんよ」
綾瀬ひとみ:「ふーん。それなら、いいんだけど」
倉田学:「ところで、こないだ話していた吉岡響と言うひととはどうなったのでしょうか?」
綾瀬ひとみ:「あぁー、あいつね。鼻先であしらってやったわよ」
倉田学:「それはどう言う意味でしょうか?」
綾瀬ひとみ:「この前の15日は、あいつの三十路の誕生日だったの。それであいつのお店で三十路の誕生日パーティーをやったのよ。そこであいつにこう言ったの。わたしのプレゼント欲しかったら『お手をしてくれたら、あ・げ・る♡』って。そしたらあいつマジでお手するんだもん」
これを聴いた学は、彩のもうひとりの人格のひとみと言う人物が、彩の性格とは似ても似つかず、自分の手で彩の人格をひとみに変容させることに心苦しい感情を募らせていった。それと同時にこのひとみの性格であれば、響につけ入る隙を与えることはまず無いだろうと安心したのだった。
こうして学とひとみのカウンセリングはこの後、お香を焚き呼吸を整えマントラを基にした「ババナム、ケバラム」と言う唄を学が歌って、ひとみと彩の統合の為に編み出した「催眠瞑想療法」を行っていったのだ。それは時間にして15分から20分ぐらい行われた。そして一通り「催眠瞑想療法」が終わると、学は彩にこう尋ねた。
倉田学:「あなたの名前を教えてください」
木下彩:「木下彩です」
こうしてもうひとりの人格の綾瀬ひとみから木下彩へと人格を戻したのだ。彩は学に、ひとみの時の自分の様子について学に聴いてきたのだ。学はこう答えた。
倉田学:「木下さんのもうひとりの人格のひとみさんは、とても頭のいい方です。だから前にお話した吉岡響と言うホストに、木下さんの素性を教えることは無いと思います。木下さんも街で偶然会っても知らない振りをしてください」
木下彩:「わかりました。でも、わたしそのひとと一度も会ったこと無いんですけど」
倉田学:「多分どんなひとかすぐわかると思いますよ。ホストの格好をしているはずですから」
木下彩:「ありがとう御座います倉田さん。気をつけますね」
こう言って彩は、学のカウンセリングルームを後にした。学は彩を玄関先で見送ると、響と言う男が彩と偶然遭遇しないことを祈ったのである。
そして夕方、学は自分のカウンセリングルームから銀座にあるみずきのお店『銀座クラブ SWEET』に出張カウンセリングの為に出掛けたのだ。学は何時ものように新宿駅からみずきのお店がある銀座8丁目へと向かうため、電車を乗り継ぎ向かったのだ。そしてみずきのお店へと入って行った。
倉田学:「こんばんは倉田です」
のぞみ:「こんばんは倉田さん。お久しぶりです」
倉田学:「のぞみさん、体調の方はどうですか?」
のぞみ:「そうねぇ。わたしこの梅雨の時期って体調崩しやすいの」
倉田学:「そうですか。どんな症状がでるんですか?」
のぞみ:「うーん。やっぱり肌の調子が悪かったり」
倉田学:「僕は医師じゃないからわからないけど。のぞみさんの場合、前にも話したように発達障害の二次障害の可能性もあるから、もし皮膚科に行ったら、そのことも伝える必要があると僕は思いますよ」
のぞみ:「そうですか。でも皮膚科の先生、発達障害のこと知ってるのかなぁ」
学はこの時思ったのだ。今の医師ってある意味専門分野は詳しいけど、専門以外のことって見えてなかったり観ようとしなかったりして、本当はもっと広い視野で西洋医学・東洋医学の全てと言った「ホリスティック医学」的な視点が必要では無いかと…。
そしてミクロな視点では無く、マクロな視点だからこそ見えることってあるのではないかと…。そう、昔の町医者は全ての治療をひとりで観ていたけど、それってとても重要なことなんじゃないかと学には感じたのだ。
そんなことを学が考えていると、学は昔観た朝ドラの『梅ちゃん先生』を思い出した。そう言えば僕も、最初は古代ギリシア哲学を勉強し、そこから現代哲学まで勉強した後にインド哲学、中国哲学、諸子百家などを学んで来た。だから学は心理学を勉強した時に、心理学の本質を知ることが出来たのだと思っていたのである。
そして今の学があるのは、心理学を勉強する前に大学でちゃんと哲学を勉強していたことが、とても役立っていると学は思っていたからだ。おそらく多くの心理カウンセラーは、スキル、テクニックと言った技術的な要素を欲しがるひとが多いが、学は違っていたのだ。学は心理学の背景にある死生学、哲学、宗教学、神話、民俗学、言語学と言った、そちらの方に興味が向いていたし、また技術的なことから心理学の本質を知ろうとカウンセリングの勉強を続けて来たからだ。
その結果、カウンセリングの心理療法を勉強する中で、今まで学んで来たことの点と点がひとつの線で繋がり、大学時代に哲学を勉強しておいてとても良かったと思っていたのだ。そんなことを考えながら、のぞみとの会話を交わしていたのであった。そこに突然、みずきが現れ学の元に近づきこう言った。
美山みずき:「こんばんは倉田さん。お久しぶりです」
倉田学:「こんばんはみずきさん。お久しぶりです」
美山みずき:「倉田さんって映画好きですか?」
倉田学:「みずきさん、どーしたんですか急に」
美山みずき:「実は、知り合いから映画の試写会のチケットを貰って、良かったら一緒に観に行きませんか?」
倉田学:「えぇー、僕でいいんですか?」
この時、学は高校時代の生物部の後輩の女の子から告白されたことが頭をよぎった。そして学はその時の失敗から、間違っても「何で僕なの…」と言うフレーズを言葉にしないよう注意したのだ。
美山みずき:「皆んな都合悪いみたいで、倉田さん映画嫌いですか?」
倉田学:「そんなこと全然ありません。むしろ好きな方です」
実は学は、最近映画など全然観ていない。しかしこのフレーズが咄嗟に学の口から出たのだ。そしてこの時の学のこころの中は、映画の話題でも振られたらどうしよかとドギマギしていた。また、そのこころをみずきに見透かされないよう注意していたのだ。するとみずきは学に向かってこう言った。
美山みずき:「良かった。まだちょっと先ですけど、7月7日の夜、空けておいてくださいね」
倉田学:「はい。ところで、その映画の試写会というのは?」
美山みずき:「アニメなんですけど、『君の名は。』と言う映画です」
倉田学:「あぁー、あの。あのアニメ映画ですね」
美山みずき:「倉田さん。その映画知ってるんですか?」
倉田学:「ええぇ、まあぁ。こう見えてもアニメは好きな方なので」
美山みずき:「倉田さんの好きなアニメって、どんなアニメですか?」
倉田学:「僕ですか、僕はジブリのアニメが好きかなぁ」
美山みずき:「なんか倉田さんらしいですね」
倉田学:「いやぁー、そうかなぁー」
学はみずきと話を合わすために、ちょっと嘘をついた。実は学は『君の名は。』と言う映画を知らなかった。そして知ったかぶりをしたのだ。だから学はみずきと別れた後、すかさず自分のスマホで『君の名は。』と言う映画を検索して調べていた。ちょうどその様子をみさきとゆきに観られてしまった。そして二人からこう言葉を掛けられたのだ。
みさき:「明後日の弟のゆうきのカウンセリングお願いしますね。ところで倉田さん、珍しくスマホで何観てるんですかぁ?」
倉田学:「いやぁー、明日の天気はどうかなと思って」
みさき:「倉田さん怪しいですよ。みずきママと何話してたんですか?」
倉田学:「いやぁー、のぞみさんの件でね。まぁー、いろいろと」
ゆき :「倉田さん。まぁー、いろいろとって。どー、いろいろですかぁ?」
倉田学:「それはちょっと。大人の事情って言うやつかなぁ」
ゆき :「倉田さん。はぐらかさないでくださいよぉ」
みさき:「そーですよぉ。わたし達、もう成人してるんだから大人の事情は通用しませんよぉ」
その時だ、学のスマホの着信音が鳴った。それに気づいたみさきとゆきは二人揃ってこう学に言った。
みさき:「この着信音聴いたことあります」
ゆき :「この着信音聴いたことあります」
みさき:「これって、もしかしてジブリ映画の曲だったようなぁ」
ゆき :「そうそう、何の映画でしたっけ。倉田さん」
この時、学はみさきとゆきに自分のスマホの着信音を知られ、ちょっと恥ずかしかった。そしてボソッとひと言、言葉を発した。
倉田学:「耳をすませば」
そう学が言うと、みさきとゆきがまた口を揃えたかのようにこう口々に言ったのだ。
みさき:「思い出した『カントリー・ロード』ですよねぇ」
ゆき :「思い出した『カントリー・ロード』ですよねぇ」
倉田学:「ええぇ、まあぁ。そうですが…」
学がまたボソッとそう言うと、みさきとゆきがこう言ったのだった。
みさき:「倉田さんらしいですねぇー」
ゆき :「倉田さんジブリ映画好きなんですかぁ?」
倉田 学:「ええぇ、まあぁ。僕はこの『カントリー・ロード』のような子供時代が憧れだったから」
みさき:「それってどう言う意味ですか?」
倉田学:「僕は人並みの幸せを子供時代に送って来なかったから、僕のこころはずっーとジブリ映画の主人公に憧れ続けてるんです」
ゆき :「だから倉田さん。『形のないプレゼント』を大切にしてるんですかぁ?」
倉田学:「僕もずっーと『形のないプレゼント』が欲しくて、だから『形のないプレゼント』を大切にしてるんです」
みさき:「みずきママが倉田さんのことを気に入ったのは、倉田さんのそう言うところだと思いますよ」
ゆき :「そうだ倉田さん。今の着信音誰からか、わたし達の前で確認してくださいよ」
学はしぶしぶ二人の前に自分のスマホを出し、誰からの着信音だったか確認した。そして、その着信音が大学時代に学と同じ研究室のゼミで卒論を書いた、学の大学時代の唯一の友達とも呼べる峰山一樹からの電話であったことがわかったのだ。二人はこのことを知ると、なぁーんだと思って残念がった。
みさきとゆきは、てっきりみずきママから学への連絡じゃないかと勘違いしていたからだ。すると二人は学を何時ものように奥のカウンターの席に案内して、学の元を去って行った。その時、もう一本の連絡が学の元には入って来た。それはみずきからのLINEメッセージであった。その内容とは次のようなメッセージであった。
美山みずき:「倉田さん。今度の映画の試写会楽しみにしています。六本木ヒルズの前に18時に待ち合わせましょう」
学は嬉しそうな表情を浮かべ、このLINEの内容を眺めていた。それを観たバーテンダーは、学にこう訊いてきたのだ。
バーテンダー:「何かいいことでもありましたか倉田さん?」
倉田学:「ええぇ、まあぁ」
そう学は答え、そのバーテンダーにこう質問した。
倉田学:「みずきさんって、どう言うひとが好きなんですか?」
この質問をされたバーテンダーは、少し困った表情を浮かべこう答えた。
バーテンダー:「そうですねぇ。純朴なひとが好きなんじゃないですか」
倉田学:「そっかー、純朴なひとか。そんなひと、今いないからなぁー」
この学の言葉を聴いたバーテンダーは、目の前に今座っている君がその純朴なひとだよ。と言いたかったが、口には勿論出さなかった。そしてそのバーテンダーの長年のカンから、学とみずきママの間で何かあったんだなと勘付いていたのだ。
こうして学は何時ものようにウイスキーを『三本締め飲み』で飲み、みずきのお店『銀座クラブ SWEET』を後にしたのだ。学は何時もよりお酒の酔いが少し早く、電車の中でウトウトしながら、みずきとの映画の試写会に想像を膨らませていた。その頃、みずきのお店『銀座クラブ SWEET』では、学とみずきがデートをするらしいと言う噂が広まっていたのである。
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