第2話

 窓から聞こえるセミの鳴き声で目が覚めた。外から薄黄色の柔らかい光が差し込んできている。少しの立ち眩みを覚えながら僕はベッドを抜け出し朝食を食べるために1階へと降りて行った。

「おはよう、■■■」

 母が朝食を作りながら僕に挨拶した。リビングにはほんのり焦げた食パンの匂いとその上に塗られているであろうバターの香りが漂っていた。僕は眠い目をこすりテレビリモコンの電源ボタンを押した。

「続いてのニュースです。野党は本日中にも内閣不信任案を…」「…です。念のため傘を持ち歩くと良いでしょう…」「…座のあなた!今日は一日何をしても…」

 半覚醒の状態でチャンネルを目まぐるしく変えながら制服に着替えていると母が食器を洗いながら話しかけてきた。

「今日から新学期でしょう?がんばってね」

 そう、きょうは9月1日だ。何をするわけでもなく怠惰に過ごし浪費した夏休みが終わり煩わしい学校生活が再開するあの日だ。そのことを再認識させられ僕は母の問いかけを返す気力を失った。沈黙したままテーブルにつき朝食を口に頬張った。焦げたパンは苦かった。

 朝食を食べ終えた後、すぐに家から出て学校に向かった。


「おはよう、■■■」「久しぶり、■■■」

教室に入り席に座ると両隣のクラスメイトに挨拶された。僕は「おはよう、久しぶり」とだけ返しそれ以上会話が続くことはなかった。いつものことである。


 始業式が終わり教室に戻ると教師の話が始まった。宿題はちゃんとやってきたか、受験勉強は進んだか、悔いなく部活を引退できたか、友達と思う存分遊べたか…という内容をだらだら喋っている。そんなことを僕らに確認してどうしようというのだろうか。早く家に帰してくれ、と思いながら眼だけでぐるっと教室を見回した。クラスメイト達も長話に辟易としているようで本を読んでいるもの、隣の席の奴とひそひそ話している者、ぼぅっと窓の外を眺めている者など各々の方法で暇をつぶしていた。

しかしただ一人前を向いて話を聞いている者がいた。学級委員の菊本である。僕と同じ中学校の出身ではあるが大して仲良くもない。顔を合わせれば一応挨拶するくらいの仲だ。

 そういうわけで、と教師が話をまとめ始めたその時だった。勢いよく教室のドアが開き学年主任の女教師が慌てた様子で入ってきた。彼女は教室を見渡し僕の方を向くと

「■■■くん、すぐ来てくれる?」とよく通る声で言い放った。言われるがまま教室の外に出て真剣な顔の彼女と向き合った。

「■■■くん、落ち着いて聞いてほしい

「あなたのお父さんが、あなたのお母さんを

「包丁で刺したらしい



 母の葬儀が終わってもまだ僕は父が母を殺した、という現実を受け入れることができなかった。祖父母のすすり泣く姿やただただ戸惑った様子の親戚連中もどこか別世界の出来事であるかのように感じられた。

 ちなみに父とはあれから一度も会ってない。最後に会ったのは...事件の前の日の晩だろうか。その時だって別に会話を交わしたわけではなかった。

特に仲良くもなく不仲でもない親子関係だった。少なくとも自分はそう思っていた。でももっと話せていれば...もっと父のことをよく知っていればこんな事にはならなかったのかもしれない。そう思わなければいけないような気がした。僕に責任があってほしかった。


「■■■くん」 

 2つ驚いた。まず1つはいきなり後ろから僕の名前を呼ぶ声が聞こえたこと。そしてもう一つはその声の主が菊本だったこと。

「その...大丈夫?」

 僕を気遣ってくれているんだろうか。

「うん...まぁ」

 もちろん大丈夫なはずがない。母は死に、父は刑務所行き。いろんな感情が沸いては混ざり合ってを繰り返して心の中がぐちゃぐちゃになっている。その後に続ける言葉を失って口ごもっていると菊本がすっと僕の右に移動してきた。

「家まで送るよ。確かこっちだったよね?」

 菊本が優しく微笑みながらそう言った。

「母が死に、その葬儀の帰り道に大して仲良くもないクラスメイトと帰宅する」という状況をうまく呑み込めないまま、僕は菊本と一緒に歩いていた。菊本はいつの間にか僕の前に行き、しっかりとした足取りで僕の家を目指していた。


 思えば迂闊だった。どうして僕は「なぜこいつが僕の家を知っているんだろう」という疑問を持てなかったのだろう。この予測不可能な状況に対し僕の思考はまったくのノーガード戦法をとってしまっていた。

「ねぇ■■■くん」

 菊本が振り返った。

「人生、やり直したい?」

 僕はその質問に答えることができなかった。なぜなら口を開く前に菊本が何かで僕の頭を思いっきりぶん殴ったからだ。真っ赤な液体が顔を覆いつくし、道路に血の雫が大量に落ちた。

「頑張ってね」

 菊本がそうつぶやいた。僕にはその意味が分からなかった。僕の頭を割ったのは鉄パイプのようだった。どこに隠してたんだろう、と考えながら僕の意識は徐々に消えていった。

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