第59話 幕間12 カルヴィン・ロード
「……やってしまった?」
唐突に俺は我に返り、目の前の惨状に途方に暮れた。
浴槽もそうだが、その周りに置いてあった数少ない家具や、床すらにも亀裂が入っていていかにも廃墟といった様相を呈している。
というか、カッとなって思い切り魔力を放出させてしまったんだが、これって追っ手――アンドレアや幼女に感じ取られてしまうだろうか……?
「逃げた方がいいのか……?」
自分でもどうしたらいいのか解らずおろおろと左右を見たり、逃走経路を確認しようと背後を見たりしているうちに、やっと気づく。
「ウェンディ……」
割れた浴槽にしがみつくようにしていたヴァレンが、掠れた声を上げていた。震える手を差し出したその先は、俺が立っている位置からではちょうど見えない角度であったけれど、確かに聞こえたのだ。
けほ、と咳き込む少女の声。
「戻ってきた。戻ってきた?」
ヴァレンの声はどこか夢の中で聞こえるような感じだった。茫洋として、得体のしれない感じが。
俺は恐る恐る、彼らの方へ近づいた。
「げほっ」
俺が覗き込んだ浴槽の中で、僅かに残った紅色の液体に横たわりながら、彼女はその細い腕を上げて自分の喉に手を当てていた。薄い胸が数度上下して、さらに咳き込み方が激しくなる。
その膝が震え、両足も苦し気に動く。ぱしゃり、という水音を響かせながら、少女はゆっくりと目を開かれる。彼女の瞳は淡い紫色だった。
「ウェンディ?」
ヴァレンのその声にはまるで気づいていないかのように、少女は数度瞬きを繰り返した後、ゆっくりと上半身を起こした。紅色に染まった長い銀髪、血の気のない真っ白な頬。
それでも、少しずつ彼女の表情に動きがあった。
困惑。まさにそんな顔だ。
そして、何かに驚いているように自分の身体を見下ろす。自分の胸元に手を当てたかと思えば、その手に驚いたかのように手のひらを見つめる。さらには自分の頬に手を当て、鼻、唇、瞼、眉の形、とそれぞれ触れる。
そして。
「……は?」
彼女は初めて、そこで声を発した。
「ウェンディ。私……僕のこと、解る? ずっと、ずっと君が目を覚ましてくれるのを待ってたんだ」
恐る恐るといった感じで、ヴァレンが少女――ウェンディの手を取ったが、それは彼女自身の手で振り払われてしまった。そこでやっと、彼女はこの空間に他人がいるということに気づいたらしい。
そして彼女は眉間に皺を寄せて言った。
「誰、お前」
ヴァレンの肩が震えた。
俺はそんなヴァレンのすぐ後ろに立ち尽くしたままだ。
「誰って。僕だ。ヴァレンタイン……ヴァレンタイン・スイフト」
「知らねえ」
少女はどこか忌々しそうに顔を歪めた後、乱暴な口調で吐き捨てる。「畜生、身体が重い。っていうか、何で俺、女の身体になってんだ?」
「え?」
ヴァレンが言葉を失っている目の前で、少女は濡れた服を気持ち悪そうに指先でつまんで揺らした。さらに、まるで犬や猫みたいに首をぷるぷる振って髪の毛の水滴も辺りにまき散らした。
その動きだけ見ただけでも解る。
まともな女の子がする仕草じゃない。
言葉も乱暴すぎるし、『俺』って言ってるし。
俺は思わず、ヴァレンの肩を叩いて言った。
「失敗したな?」
「だ、誰のせいだと……っ!」
ヴァレンが俺の手を振り払い、勢いよく立ち上がって浴槽から逃げた。現実から逃げるかのように、顔を両手で覆って低く呻く彼。
「何で……何故こんなことに? 私はっ、ウェンディの復活のために……」
そう自分に問いかけていた彼だが、すぐに俺に向き直って睨みつけてきた。まるで憎い仇でも見るかのような、凄まじい恨みが込められた双眸。
「あ、あなたは何をしたんですか!? あなたは魔女だったんですか!? 先ほどの魔術、いえ……秘術で、ウェンディに何をしたんですか?」
「いや、覚えてないんだよ」
俺は素直にそう言った。肩を竦めながら、仕方ないよなー、って照れたように笑う俺に怒りを強めたのか、彼は唐突に俺の胸倉に掴みかかってきた。
「覚えてないって! ウェンディに、あの浴槽に仕掛けた魔術はもう使えない! 私は魔力を封じられているんですよ!? こうなってしまった私に、どうしろと言うんですか!?」
「……諦めたら?」
「よくも……っ!」
「うるせえ」
ウェンディ――の、肉体の中にいる誰かが乱暴に言った。そちらに目をやると、少女が浴槽に手をかけて立ち上がろうとしているところだった。どうやらずっと寝ていた(?)からなのか足に力が入らないらしく、立ち上がることに難儀していたが、それでも時間をかけて床に素足を下ろす。そして、ふらつきながらも何とか立ち上がり、ぎこちなく歩きだした。
「……おお、歩ける」
「君は誰ですか」
ウェンディが自分の足で歩いて喜んでいる様子を見ながら、我に返ったらしいヴァレンが問いかける。「それはウェンディの肉体なんです。ウェンディの……」
「誰だよ、そのウェンディって」
「私の婚約者で……」
――ほお。
何だかよく解らないが、修羅場なのかもしれない。
このどさくさに紛れて、俺は勝手に逃げようかな、と考えて階段の方へ歩き出す。
が、服の裾を掴まれて引き戻された。
「放せ」
「待ってください! どうしてくれるんですか!? 元に、彼女を元に戻してください!」
「どうやって?」
「知りませんよ! あなたは魔女なんでしょう? 何とかしてください!」
いや、無理だろ。
そう突き放したかったが、気が付いたら目の前の男の目には涙が浮かんでいた。
「私は! このために生きてきたんです! 禁術を使ったのも、何もかもウェンディのためだったんです! それが、それが……全部無駄になったと……嘘でしょう!?」
「いやあ……」
「どうして……どうして」
腰の引けている俺の服の裾を掴んだまま、ヴァレンは鬱陶しいことに本格的に泣き始めてしまった。男の涙ほどみっともないことはない。っていうか何故泣く。狙った彼女の魂は戻ってこなかったとはいえ、肉体は動き出してるんだからよしとしとけよ。
まあ、さすがにそんなことを言ったら殴られそうだから言わないけれど。
「とにかく、俺は逃げるから。よく解らないけど、俺が全力で秘術をぶっ飛ばしたのは間違いないし、俺を探している奴にここが見つかる可能性が高い。お前も逃げたら? 俺を追ってる奴はとんでもない連中だし、もしかしたら拷問してまで俺の行き先をお前から聞き出そうとするかもしれない」
「拷問……」
信じられない、と言いたげな彼の目が俺を見つめる。泣いたせいで目元が赤いけれど、全く慰めようという気にはなれない。これが女の子だったら……名前も知らない俺の想い人が相手なら、全力で慰めてやるんだけどなあ。
「魔女なのか?」
こちらはこちらで修羅場になりつつある俺たちに、偽者のウェンディが問いかけてくる。僅かに警戒したようなその声は、見た目の可憐さとは全く似合わない。
「お前たちは魔女? 男の魔女なのか?」
「いや、魔女は俺だけな」
俺は縋りつくヴァレンの腕を振りほどこうとしながら笑う。「こっちの情けない男は魔術師……だったヤツな? もう魔術も使えない一般人らしいけど、あんたの力になってくれるんじゃないかな?」
「そんな無茶な! ちょっと待ってください!」
「待たない」
「魔女……、魔術師」
少女は眉根を寄せて何か考え込んでいるようだったが、すぐに困ったように笑いながら言う。「俺、魔力がないみたいなんだが、何が原因か解るか? っていうか、俺は死んだはずなんだよ。死んだはずなのに生きてるというか、蘇ってるというか、おかしいだろ? しかも見知らぬ女の身体でって本気で困る」
「いや、それはこいつが」
――変な魔術で魂を呼び戻したから。
と、考えながら俺はヴァレンを見やる。当のヴァレンはただ呆けたように彼女を見つめ、そして力なく首を横に振る。
「あなたを呼びたかったわけじゃありません。私はウェンディを呼び戻したかった。魂を呼び戻すための術が不完全だったのかもしれないですが……でも、何故?」
「んー?」
少女は首を傾げつつ、疲れたように壊れかけの浴槽に腰を下ろした。「そう言えば。よく解らないが血の匂いがした。少なくとも、俺を呼び戻したのはそのせいだと思う」
――血の匂い。
浴槽に入れられたのだろう、俺の……魔女の血。
「魔女の血、が原因なのか?」
俺はそう呟きながら少女と同じように首を傾げた。すると、少女は何かに納得したように頷く。
「俺もお前と同じように、男の魔女だったからな。何か関係しているのかもしれねえな」
「男の魔女……」
ヴァレンが力なく呟いているのが聞こえた。
ちょっと酷だったかもしれないが、彼に言っておくことにする。
「なあ、ヴァレン。あんたが俺の血を使わなければ、こんなことにならなかったんじゃないかな?」
それを聞いた彼は――。
――泣くなよ。
もう逃げてもいいだろ。
とにかく、俺は頭を掻きながら少女に訊いた。
「で、あんたの名前は? こうして蘇って、帰る場所ってあるのか? 家族のところとかさ」
「んー? どうだろうな? そこら中に血縁者は残ってるだろうけど、俺が死んで何年後に蘇ったかにもよるだろう」
「あー、なるほど」
俺は一を聞いて十を知るという感じに、『血縁者』が残っているというのは『そういうこと』なんだと理解できた。
だが。
「俺はイリヤ・ノヴァ。これでも、かなり魔力の強い男の魔女だったんだぜ」
そう言いながらニヤリと笑って見せた少女を見つめながら、俺は少しだけ動きをとめた。
イリヤ・ノヴァ。
イリヤ・ノヴァ。
それって、俺がさっき魔力を爆発させる寸前に、殴ってやりたいと怒りを向けていた顔も知らない父親の名前なんだけど、同姓同名なんだろうか?
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