◇僕と彼女の出会い


 その声が僕の耳に届いたのも、言葉通りに身体を動かせたのも奇跡と断言していい。

 頭を下げた瞬間、つむじの上を冷たい風が吹いた。


「グゥ⁉︎」


 一瞬遅れてガシャン、と車が踏み潰された音がする。化け物が退けられたのだ。僕は何がなんだかわからないまま、命を救ってくれた相手を認めるべく顔を上げて、息を呑んだ。

 そこに立っているのは少女だった。

 祭祀服カソックのような軽装に身を包んだしなやかな体躯たいく

 触れれば砕ける氷細工のような眩しい肢体。

 その背に流れる未踏の氷雪が如き白銀の髪。

 小さな白い手には刃から血を滴らせる長槍が握られていて。


「立てる? 立てるなら今すぐ逃げて」


 鋭い氷を削ぎ落としたような、涼んで聴き心地の良い声音が耳を刺す。


「む、無理です。彼女をなんとかしないと……」


 痛ましい姿になった伊丹さんを置いて逃げることはできないと僕が言えば、少女は半身をこちらに向ける。鮮血のような虹彩と目が合った。


「……それは確かに無理そうね。なら――」


 少女が目をすがめて呟くように言う。

 その瞬間、視線が外れたのを隙とばかりに化け物が飛びかかった。

 僕が気づいて声をあげようとした時にはもう目前にいて、間に合わないと悟る。

 けれど少女はくるりと身体を前に向き直し、



「――――私が、話している途中でしょうが‼︎」


 

 長槍一閃、化け物を真正面からぶっ飛ばした。

 それだけでは終わらず、長槍のなぎ払いをおこりに化け物が吹っ飛んだところへ急接近。追撃とばかりに八の字を描くように槍を振るえば、化け物の両腕が肩口から切断された。


「ギャアアアアアッ!」


 両腕を失くした化け物が盛大に血と雄叫びを撒き散らす。けれど、少女はまるで聞こえていないとでもいうように冷徹な表情のまま化け物を踏み押さえる。


「……こいつも違う」


 ガヅンッッ、と強烈な音がして、槍が化け物を貫き通してアスファルトへと突き刺さる。化け物は激しく身悶みもだえていたが、大量の血を流すと次第に動きを止めていった。


 後に残ったのは凄惨せいさんたる状況と、ぜるような炎の燃える音だけだった。


 一瞬にして化け物を仕留めてしまった少女はなおも表情を変えないまま槍を引き抜き、左耳のインカムに手を当てると、どこかしらに通信を取り始める。


「こちら非番隊員。行政区本部前スクエアにて発生したテロに緊急対応。流れによりグールと交戦し、処理しました。

 ……はい。怪我人は少なくとも蘇生処置の必要な者が一名。その他にも不特定多数いるものと思われます――」


 その後、何回かやりとりをしていたと思えば、ぼう然とその場にへたり込む僕の元まで歩いてくる。僕は少女の顔を初めて正面から見た。

 一言だけ言わせてもらうと、とんでもなく可愛かった。

 少女は僕の前まで来ると、しゃがみこんでわざわざ視線を合わせてくれる。


「あなた、怪我はない? 喋れる?」

「えっと、はい……」


 水晶のような瞳に射抜いぬかれて受け答えがふわふわしたものになってしまった。けど、正直こればかりは仕方ないと思う。ただでさえ色々起きた後なのに、目の前に絶世の美少女が現れて僕の命を救ってくれたのだ。そりゃあ誰だってテンパるだろう。


「なら、この辺りに怪我人は?

 車両に巻き込まれたり、炎に巻かれたりしている人はいない?」

「怪我人じゃないですけど、さっき母親と別れた少年を一人逃がしたので保護してあげてください」


 僕がそう言うと、少女は小さく目を見開き、微笑みながら立ち上がった。


「わかったわ。救助隊に伝えて保護してもらうようにする。私はほかに怪我人がいないか捜索してくるから、あなたはその子と一緒に救助隊が到着するまでここにいて」

「で、でも彼女はもう……」


 すぐ横にいる伊丹さんは完全にことれていた。

 血の海で静かに眠る彼女に、僕は小さく歯噛みする。


「隣、いいかしら」


 少女は手と膝が血に濡れることもいとわず、伊丹さんの元に再び膝をつく。そして血に濡れる彼女の胸元をまさぐり、開いた胸の中を確認すると、小さく息をはいた。


「このくらいなんてことない。時間はかかるかもだけど、蘇生できるわ」

「えっ……?」

魔臓アニマが傷ついてないもの。然るべき処置を受けさせれば大丈夫。……安心して」


 僕の困惑を驚喜と捉えたのか、少女はおかしそうに微笑んで、今度こそ己の役割のために立ち上がった。


「あ、あのっ!」


 放心気味だったけれど、僕は一世一代の気力を尽くして彼女を呼び止める。

 なんとしても、このまま別れるわけにはいかない。


「うん? なにかしら」


 少女は血に濡れた手で槍を持ったまま振り返る。サイレンの音が近づいていた。


「な、名前を教えてもらえませんか」

「はっ?」


 少女の整った眉目が歪み、形の良い唇が開く。当然の反応だった。


「いやっ、変な意味は無くって。ただ、その……お礼がしたくて!

 助けてもらったのにこのまま何もせず終わりなんて、いやなんです」


 全て本心だった。正直に言ってしまえば、下心がないわけじゃない。というか半分はそうだ。でももう半分は純粋な恩義だ。なんにせよ、このまま別れてしまえば今後一生会えないかもしれない。〈終局都市〉でそれは流石にないと思いたいけど、このまま彼女の名前を知らずにさよならするつもりは微塵みじんもなかった。


「……気持ちはありがたいけど、それはできないわ。

 私は自分のやるべきことをやっただけでお礼をもらうためにやったわけじゃないから」


 少女はゆるゆると首を振るけど、そんなの想定内だ。


「僕がしたいんです。そっちにそのつもりが無くても。だからお願いします」

「でも……」

「どうしてもダメならせめて所属先を教えてください! 後日伺います!」

「所属先はそこだけど……わざわざ後から呼び出されるくらいなら……」


 少女はヴィーゲ本部の方を見やり、それから困ったように僕を見る。

 迷ったような表情で少しの間考え込んでから、おずおずと口を開いた。


「……じゃあ、あなたの名前を教えて」

「え、僕? 僕の名前なんて聞いても意味ないと思いますけど……」

「等価交換よ。こんな熱心に名前を聞いてくる人なんて初めてだもの、覚えておくに越したことはないでしょう」


 変なことされてもかなわないし、というぼやきを聞いてようやく理解する。要するに僕の名前は彼女の脳内要注意ブラックリストに加わるということだ。

 まぁ、覚えてもらえるならいいか。悪名は無名に勝ると言うし。


「私は久世くぜアリシア。ヴィーゲ所属の戦闘員だけど、部隊はまだ未所属だから後で訪ねてこられても名前は出てこないわ。だからとつしてくるのはやめてね」

「久世……アリシア……」


 頼むからお願いね?という彼女の声もスルーして僕は彼女の名前を噛みしめる。

 久世アリシア。良い名前だ。彼女の神秘的な雰囲気によく合っている。


「なんて呼べばいいですか? 久世さん?」

「別になんでも構わないけれど――」

「じゃあ下の名前で呼んでもいいですか⁉︎」

「すっごいグイグイ来る⁉︎ なんなのこの人……まあ、良いけど。うん」


 本当に良かったのかしら、とアリシアが呟く横で思わず小さくガッツポーズを取ってしまう。下の名前呼びが許されたのは大きい。とても大きい。


「ほ、ほら、今度はあなたの番。さっさと教えてよ」

「あ、そうだった。僕は出雲サヨって言います。以後お見知り置きを……」


 そう名乗ると、アリシアが目を見開く。

 僕は本能のまま、真横に退すさっていた。

 次の瞬間には僕のいた空間を長槍が横切っていて、横倒しになった車体がえぐかれていた。燃料タンクに亀裂が入り、漏れ出す血油ブラッドオイルの臭いが鼻をつく。


「出雲……サヨですって……?」


 アリシアはで、僕をにらみ殺す勢いで見つめる。

 槍を握る手は万力で震え、足元からピシリと音が鳴る。

 彼女から伝わる殺気によるものか、周囲の空気が冷えていく気がする。

 いや、気がするじゃない。本当に冷えているのだ。その証拠に、彼女の細く長い吐息は白く染まっていた。踏み込みで音が鳴ったのも凍結した氷を踏み砕いたからだ。

 いったいどんな原理なのかと僕が頭を回す暇もなく、アリシアは口を開く。


「――出雲サヨは、のよ!」


 今度は僕が目を見開く番だった。


 これが僕と、アリシアの出会いだった。

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