名由多の深淵
巡屋 明日奈
日差しの章
ぼくは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれません。
今のぼくの隣には美しい妻が居て、まだ嫁に出すには少し若い妹が居て、
その穴を空けたのはきっと恐らくぼく自身なのでしょう。そうとは言え、ぼくがこの手でシャベルを持って穴掘りをしたのではありません。しかし、ぼくのこころを無惨にも取り返しのつかない程までずたずたに掘り返した、そのシャベルを犯人に手渡したのは、間違いなくぼく自身なのでしょう。
今からこんなぼくの書く稚拙な文章を、できればあなたに読んでもらいたいと思っています。あまりにも文が下手で読むのに頭痛さえ伴うと言うのならば、即刻火鉢に放り込んでくれても構いません。けれどももし、もしあなたの気が向いてくれたのならば、この先のぼくの
しかし、これこそがぼくがあなたに隠していた、あなたに
事の始まりは、きっときみも憶えているだろうあの夏の出来事まで遡ります。
*
ぼくが生まれて初めて手に入れたものは「
ぼくの、一等尊敬している六つ上の兄は似たような字を書いて「
その父からの「一等」を授かった兄ですが、彼はこれまたとても優秀で、ぼくの高等学校の学費のため決して裕福ではない我が家は彼を大学へと送り出すことこそできませんでしたが、
大学に生徒として通うことこそなかった兄は、しかし教授先生とやらの助手をしていたようで、彼だけの使える金をそれなりに持っていたようです。兄はその金を
ぼく自身は
そんな頭の悪い高等学校生活の
初めて見たあなたは、桜色の着物に緋色の袴を履いていて、綺麗な黒髪を結いもせず背へと流していて、無礼ながらも「今時髪を結わない女性など珍しいものだなあ」などということを考えていました。しかしよくよく考えてみれば我が家の可愛い末の子、妹も肩を越す程まで伸びた長い髪を結いもせず毛先をちょいと纏めただけでありますし、もしかしたら昨今はこれが流行りなのかもしれませんね。
色々と思うところはありましたが、間違いなくこれがぼくたちの初めての
それから数日後、やっとあなたとお話しすることが叶いましたね。確かぼくは無様にも駆けている最中河原の小石へとその顔面を沈めたりしていたと記憶しています。あれはぼくが悪いのではありません。丁度間の悪い所へ鎮座していたあの憎たらしい白い小石が悪いのです。しかしあの石がぼくの
少なくとも上の様なことがあった
あの時のぼくは、唯見つめるだけであった憧れの婦女子、あなたと初めて瞳が合った驚きで頭が沸騰でもしてしまいそうでした。ぼくの通っていた高等学校は勿論男子校でしたので、ぼくの知っている婦女子というのは妹の
それからというものの、相変わらずぼくは補習へ遅れまいと河原を走り、あなたは日も低いうちから河原の冷たい水へ手を潜らせながら着物を洗っておりましたね。唯一つ変わったことと言えば、互いに余裕のある日は二言三言話をしてから立ち去るようになったことです。実を言うと学校などでまるで自慢のように河原のお嬢さんとお話ししたことをべらべらと喋っていたのですが、当時のぼくはどうも浮かれに浮かれていたのです。もう時効にもなるでしょうから、あの時の様に笑って許してくれることを願います。
そうして何度もあなたと言葉を重ねてゆくうちに、河原などでは足りない、とぼくは思うようになりました。何と浅ましい、何たる強欲さ。ぼくは自分で自分を罵りました。高嶺の花の様に凛と河原で咲き誇る桜と緋色を纏った可憐な花、それをぼくは
ぼくはそんな浅ましい自分のこころを
兄は相も変わらず薄暗い彼の書斎の中央に正座していました。
兄は前に書いた通り殆ど顔の変わらない方で、そして更にとても無口なのです。幼い頃愚かにも「何故兄上は喋らないのですか」と訪ねたところ、兄は困ったように僅かに眉を下げ、黙り込んでしまいました。少し経ってから「……俺が、何を話そうか思案している間に、周りが勝手に話を終わらせてしまうのだ」と
それはさておき、ぼくがこの内側に巣食う烈火の如き魔物の話を切り出したのは兄に部屋へと招き入れられてから数分も経った頃だったと思います。兄の貴重な時間を奪ってまで話し出しもせず戸口で小さくなっていたぼくを、兄は死んだ様な目でずっと見つめていました。これは別段ぼくが兄に嫌われているなんていうことではなく、唯この能面の様な絶対零度の如き顔が兄の普段だったからというわけなのです。とにかく部屋の暗さにあてられて濁り切った兄の目は、静かにぼくに優しく話を促していました。なのでぼくは所々
驚くべきことに兄はその魔物を無理に抑えつけ殺そうとせずとも良いと言いました。ぼくは唯
「……その感情は、『恋情』とでも言い表すべき……だと、思う」
それでもぼくよりかは何万倍も頼りになるのですが、この時の兄は今までになく自信なさげに見えました。後から聞いたことですが、兄は恋愛はおろか友人の一人さえも作ったことがない為、ぼくのこの感情が本当に「恋情」に分類されるのか確信が持てずにいたそうです。しかし兄は経験の無いことでも見事に言い当て、ぼくはこの穢らわしいと感じていた「恋情」というものが自分の内側に燃え盛っていることを認めることにしたのです。
丁度その頃のあなたは四国の親戚の家へと帰っていた様で知りはしないと思いますが、次の日河原にあなたがいなかったことにぼくはかなり落胆しました。自分のこの気持ちを正直にあなたにぶつけ、結婚などを前提としてお付き合いをしていただきたいと土下座もして頼み込む算段だったのです。しかしあなたが河原にいないこの期間は間違いなくぼくにとってはまたとない好機だったのです。ぼくはその間に自分の感情をしっかりと整理しました。燃え盛る炎を奥に隠して仕舞うわけではなく、その炎をしっかりと正面から見つめて分析をする、などということをしていました。勿論途方もない莫迦であるぼくが一人でできる芸当ではないので兄に手伝いはしてもらいましたが、ぼくは何とかやり遂げることができました。そして、その炎の芯には変わらぬ気持ち、あなたとずっと話をして笑っていたいという気持ちが堂々と立っているということに気づいたのです。
そして
ぼくは喜び勇んであなたの元へと走ってゆきました。その後に起きたことは勿論あなたのこと、はっきりと覚えているのでしょう。あの小憎たらしい白い小石は誰の手によって撤去されることもなく、ぼくはまたしてもそれに
*
かくしてこの様な物語があった数年後、ぼくたちは晴れて結ばれたわけです。ぼくは今とても幸せです。冒頭にも書いた通り、ぼくの隣には美しい妻、あなたがいます。今この手紙を書くのにぼくは兄の文机を借りているのですが、後ろで奔放な妹が兄の書棚を漁っています。この兄の部屋の
この穴はぼくへの罰です。無知で無邪気であった、愚かなぼくへの罰なのです。
ぼくは絶えず後悔しています。毎晩懺悔をしています。床へ入り、乙女のように枕を涙で濡らしながら、ぼくのこころは空いた穴から深紅の涙を絶えず流し続けるのです。
この手紙を書いているこの文机は、つい数刻前まで血糊で汚れていたのです。父の書斎へ続くあの襖には、未だ勢いよく血潮が貼り付いているのです。兄が何年もかけてこつこつと集めた古本は、乾いた血のせいで殆ど開かなくなってしまったのです。
ぼくのこころの穴と同じように、その小さくも鋭い小刀を兄に刺し込んだのは、ぼくではないのかもしれません。けれども、その小刀を一等尊敬する親愛なる兄へと手渡したのは、間違いなく無知で愚かなぼくとこの妹なのです。兄をこの暗く本に囲まれた部屋の中央に殺したのは、きっとぼくたちなのです。
明日、兄は燃やされ、小さな白い小箱として返ってくると聞いています。顔を動かすこともなく、言葉を紡ぐことも少なかった兄は、とうとう何より雄弁に彼の感情を語っていた動作までも奪われてしまうのです。
ぼくは後悔しています。あなたとの結婚が兄を死へと駆り立てた原因の一つになっていたと知っているからです。あなたと結ばれたことを後悔しているのではありません。しかし、あなたと結ばれたことにうつつを抜かして、今まで疎かにすることのなかった兄との繋がりを
ぼくは兄は強い人だと思っていました。それと同時に、兄は本当は弱く、それを一握りの人以外に知られまいとあの薄暗く濁った書斎に閉じこもっていたことも知っていました。
ぼくはあの日細く開けた書斎の襖を閉じてしまいました。それを開いたままでもあなたと過ごすことはできただろうに、ぼくはごく当たり前とでも言うようにその襖をぴしゃりと閉じてしまったのです。兄は閉ざされた襖を見て、いつもの鉄面皮の下で何を思ったのでしょうか。その閉ざされた襖こそが、兄にとっては小刀を刺し込まれることに等しかったのではないのでしょうか。
兄を照らす日差しは永久に襖の向こうへと閉ざされてしまった。ぼくは、今でも死ぬ程にひたすら、唯それだけを後悔しているのです。
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