名由多の深淵

巡屋 明日奈

日差しの章

ぼくは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれません。

今のぼくの隣には美しい妻が居て、まだ嫁に出すには少し若い妹が居て、しばらく顔を合わせてはいないが奥の書斎にはきっと父が居ます。けれどもぼくは、まるでこころに穴でも空いているかのようにただ茫然と日々を過ごしています。

その穴を空けたのはきっと恐らくぼく自身なのでしょう。そうとは言え、ぼくがこの手でシャベルを持って穴掘りをしたのではありません。しかし、ぼくのこころを無惨にも取り返しのつかない程までずたずたに掘り返した、そのシャベルを犯人に手渡したのは、間違いなくぼく自身なのでしょう。

今からこんなぼくの書く稚拙な文章を、できればあなたに読んでもらいたいと思っています。あまりにも文が下手で読むのに頭痛さえ伴うと言うのならば、即刻火鉢に放り込んでくれても構いません。けれどももし、もしあなたの気が向いてくれたのならば、この先のぼくの懺悔ざんげを読んでほしいのです。懺悔と言えるほどの体も成してやいないかもしれません。唯の子供の反省文なんかよりもよっぽど汚く不揃いな文かもしれません。

しかし、これこそがぼくがあなたに隠していた、あなたに何時いつか話さねばならないと考えていたことなのです。

事の始まりは、きっときみも憶えているだろうあの夏の出来事まで遡ります。



ぼくが生まれて初めて手に入れたものは「名由多なゆた真二しんじ」という名前と、このやたらと頑丈で病気知らずの男の肉体でした。少々背丈は短く、そのことで兄に揶揄からかわれることも多々ありましたが、それでもぼくはこの生まれ落ちた境遇に大いに満足していました。

ぼくの、一等尊敬している六つ上の兄は似たような字を書いて「一真かずま」と言います。そこにおまけとばかりにちょいと棒を一本足して、ぼくの名前「真二」は出来上がるのだそうです。父は「二人分合わせて『唯一無二の真実だ』」などと言っていましたが、おそらくは兄が一等、ぼくが二等だと簡単にわかるようにつけたのでしょう。生まれた時から二等だというのは多少腹も立ちますが、あの敬愛する兄と同じ字を授けてもらえたことだけは感謝してもしきれない、と今でもそう思っています。

その父からの「一等」を授かった兄ですが、彼はこれまたとても優秀で、ぼくの高等学校の学費のため決して裕福ではない我が家は彼を大学へと送り出すことこそできませんでしたが、其処そこらの大学生などより兄はずっと優秀でした。

大学に生徒として通うことこそなかった兄は、しかし教授先生とやらの助手をしていたようで、彼だけの使える金をそれなりに持っていたようです。兄はその金をほとんど古本や新書などに宛てがい、ページのくすんだ本の山に囲まれながら、その切れ長の瞳をすと細めて見せるのです。兄は表情の変わらない人でありましたから、そのような些細な変化でさえもぼくからしたら一大事で、兄がその古い本から知識を得ることに途方もない喜びを見出していることが手に取る様に判ったのです。

ぼく自身はもっぱら勉学は苦手の二文字に尽きるもので、いつも学科試験の直前に兄になじられつつ教本の範囲頁を頭に詰め込んでいたものでした。しかしその兄の鬼の様な教えのお陰で、こうして高等学校も無事卒業でき、それなりに良い頭を持って社会へと出ることができたのです。こればかりは兄に感謝してもしきれません。兄は父にとっての一等であった様ですが、間違いなくぼくの中でも一等中の一等でありました。

そんな頭の悪い高等学校生活の最中さなか、ぼくはある一つの出逢いをしました。裏の裏の通りに住み、毎朝お洗濯物を抱えて河原まで歩いていた少女、そう、あなたと出逢ったのです。その頃のぼくは学校の早朝補習が増えたなどと愚痴愚痴言いながら河原をぶらぶらと歩いていたものです。ですから今まで逢うことのなかったあなたと、あの河原で出逢うことができたのだということなのです。

初めて見たあなたは、桜色の着物に緋色の袴を履いていて、綺麗な黒髪を結いもせず背へと流していて、無礼ながらも「今時髪を結わない女性など珍しいものだなあ」などということを考えていました。しかしよくよく考えてみれば我が家の可愛い末の子、妹も肩を越す程まで伸びた長い髪を結いもせず毛先をちょいと纏めただけでありますし、もしかしたら昨今はこれが流行りなのかもしれませんね。

色々と思うところはありましたが、間違いなくこれがぼくたちの初めての邂逅かいこうであったのだと思います。勿論もちろんこの日はぼくが一方的にあなたのことを見つめていただけなのであなたは知りもしないのでしょうけれど。

それから数日後、やっとあなたとお話しすることが叶いましたね。確かぼくは無様にも駆けている最中河原の小石へとその顔面を沈めたりしていたと記憶しています。あれはぼくが悪いのではありません。丁度間の悪い所へ鎮座していたあの憎たらしい白い小石が悪いのです。しかしあの石がぼくのなまくらな足を引っ掛けでもしようと企んでいなければ、きっとぼくとあなたは相も変わらず同じ河原にいながら一言も言の葉を交わさない関係にいたでしょう。その点に関してだけはあの白い小石を神棚にでもまつりあげてやりたい気分です。勿論あなたに呆れられるのは目に見えていますし、やるつもりもありませんが。あの時転げた傷がこの膝小僧に残っている限り、天地がひっくり返ろうともあの石を許すなんて有り得ませんので。

少なくとも上の様なことがあったため、ぼくとあなたの所謂いわゆる世間一般的に言う「出逢い」はかなり悲惨なものだったと記憶しています。しかしその緋色の袴が砂利にまみれることも気にせずぼくに手を伸ばしてくれたあなたの姿は、今でも昨日のように思い出すことができるのです。

あの時のぼくは、唯見つめるだけであった憧れの婦女子、あなたと初めて瞳が合った驚きで頭が沸騰でもしてしまいそうでした。ぼくの通っていた高等学校は勿論男子校でしたので、ぼくの知っている婦女子というのは妹の真理まり、先程も少し触れましたがあの髪も性格もやんちゃで奔放に育ってしまった可愛い妹しかいなかったわけです。あの時の様に少し顔を合わせただけで達磨だるまのように赤くなってしまったのはそれが理由でして、決してぼくが悪いわけではないのです。あの時のぼくは全くどうかしていて、あなたに助け起こされた礼もそこそこに「あなたは何という名前なのですか」などと訊ねましたね。とても無礼なことだとは当時も思っていましたが、あなたは笑いながら「高宮たかみや鈴葉すずはでございます」と返してくださりましたね。途端にきまりの悪くなったぼくは脱兎の如くその場から逃げ出してしまいましたが、あのような無礼な問いにも返答をしてくださったことがとても嬉しかったのです。

それからというものの、相変わらずぼくは補習へ遅れまいと河原を走り、あなたは日も低いうちから河原の冷たい水へ手を潜らせながら着物を洗っておりましたね。唯一つ変わったことと言えば、互いに余裕のある日は二言三言話をしてから立ち去るようになったことです。実を言うと学校などでまるで自慢のように河原のお嬢さんとお話ししたことをべらべらと喋っていたのですが、当時のぼくはどうも浮かれに浮かれていたのです。もう時効にもなるでしょうから、あの時の様に笑って許してくれることを願います。

そうして何度もあなたと言葉を重ねてゆくうちに、河原などでは足りない、とぼくは思うようになりました。何と浅ましい、何たる強欲さ。ぼくは自分で自分を罵りました。高嶺の花の様に凛と河原で咲き誇る桜と緋色を纏った可憐な花、それをぼくは如何どうしてか自分一人だけのものにしてしまいたいと思う様になってしまったのです。鈴の葉の名前に劣らないほど軽やかに美しい鈴の音の様な声、理知的な話題、よく笑う花の様に美しいかんばせを全て自分のこの掌の中へと収めてしまいたいと思ってしまったのです。河原の様な所では話も思いも水の流れに乗って流れていってしまう。抜ける様な青空へと飛んでいってしまう。だからこそ、まだ足りないと思ってしまったのです。河原のお嬢さんでは足りない、あなたをぼくのお嬢さんにしてしまいたいと思う様になってしまったのです。

ぼくはそんな浅ましい自分のこころを叱咤しったしつつ兄へと相談を持ちかけることにしました。先に述べた通り、兄はこの世で一等賢く何でも知っている様な男でしたので、ぼくのこの劣化の如き下賤げせんな気持ちを如何様いかように始末すれば良いかも知っていると思ったのです。

兄は相も変わらず薄暗い彼の書斎の中央に正座していました。文机ふづくえを前にしていたので、恐らく何か書き物でもしていたのでしょう。不安定な行燈あんどんの光に照らされて、兄は何時かの様にその瞳を柔らかく細めて笑っていました。教本も持たずにやって来たぼくの姿を見て勉学の相談でないことを察してくれたのでしょう、兄はその柔らかい笑みをふと消すとゆっくりとその女とは違った細さをした手を出してぼくを部屋の中へと招き入れてくれました。

兄は前に書いた通り殆ど顔の変わらない方で、そして更にとても無口なのです。幼い頃愚かにも「何故兄上は喋らないのですか」と訪ねたところ、兄は困ったように僅かに眉を下げ、黙り込んでしまいました。少し経ってから「……俺が、何を話そうか思案している間に、周りが勝手に話を終わらせてしまうのだ」とおっしゃりました。どうやらぼくの兄はその頭に知識を詰め込みすぎた様で、話すべきことを取捨している間に短絡的な周りの人々は兄に話す意思がないと見做みなして話を終わらせてしまうそうです。かく言うぼくもその短絡的な莫迦ばかの一人であるので、頭に詰め込まれた知識や言葉もどれも大したことがなく、選ぶ手間もなくぽんぽんと言葉を紡ぐことができるのですが、その時ばかりは哀れな賢い兄にどう言葉をかけたら良いか迷い、結局ぼくまで口を閉ざしてしまった様に記憶しています。

それはさておき、ぼくがこの内側に巣食う烈火の如き魔物の話を切り出したのは兄に部屋へと招き入れられてから数分も経った頃だったと思います。兄の貴重な時間を奪ってまで話し出しもせず戸口で小さくなっていたぼくを、兄は死んだ様な目でずっと見つめていました。これは別段ぼくが兄に嫌われているなんていうことではなく、唯この能面の様な絶対零度の如き顔が兄の普段だったからというわけなのです。とにかく部屋の暗さにあてられて濁り切った兄の目は、静かにぼくに優しく話を促していました。なのでぼくは所々どもりながらも先のことを兄へとお話ししたのです。

驚くべきことに兄はその魔物を無理に抑えつけ殺そうとせずとも良いと言いました。ぼくは唯吃驚びっくりして、首を傾げた兄を見つめていました。この様な浅ましい濁った感情は早急さっきゅうに捨ててしまうべきだと考えていたからです。そもそもぼくが兄に相談を持ちかけようと考えた理由も、このどろどろと濁ったこころの内の浅ましさを一人で斬り伏せることなど不可能に思えたからなのですから、それはそれはぼくの驚きっぷりは大袈裟で、兄も内心笑っていたのではないか、と思えてしまう程でした。兄は暫く言うべきことを探すかの様に顎に指を当て考え込んでいました。やがてその八百万やおよろず叡智えいちの詰まった頭から納得のいく単語を引き出せたのか、兄はゆっくりとぼくの方を向いて言いました。

「……その感情は、『恋情』とでも言い表すべき……だと、思う」

それでもぼくよりかは何万倍も頼りになるのですが、この時の兄は今までになく自信なさげに見えました。後から聞いたことですが、兄は恋愛はおろか友人の一人さえも作ったことがない為、ぼくのこの感情が本当に「恋情」に分類されるのか確信が持てずにいたそうです。しかし兄は経験の無いことでも見事に言い当て、ぼくはこの穢らわしいと感じていた「恋情」というものが自分の内側に燃え盛っていることを認めることにしたのです。

丁度その頃のあなたは四国の親戚の家へと帰っていた様で知りはしないと思いますが、次の日河原にあなたがいなかったことにぼくはかなり落胆しました。自分のこの気持ちを正直にあなたにぶつけ、結婚などを前提としてお付き合いをしていただきたいと土下座もして頼み込む算段だったのです。しかしあなたが河原にいないこの期間は間違いなくぼくにとってはまたとない好機だったのです。ぼくはその間に自分の感情をしっかりと整理しました。燃え盛る炎を奥に隠して仕舞うわけではなく、その炎をしっかりと正面から見つめて分析をする、などということをしていました。勿論途方もない莫迦であるぼくが一人でできる芸当ではないので兄に手伝いはしてもらいましたが、ぼくは何とかやり遂げることができました。そして、その炎の芯には変わらぬ気持ち、あなたとずっと話をして笑っていたいという気持ちが堂々と立っているということに気づいたのです。

そして一月ひとつきが経った頃、河原にはいつもの様にあなたが座り込んで着物を川の水に潜らせていました。

ぼくは喜び勇んであなたの元へと走ってゆきました。その後に起きたことは勿論あなたのこと、はっきりと覚えているのでしょう。あの小憎たらしい白い小石は誰の手によって撤去されることもなく、ぼくはまたしてもそれに蹴躓けつまずき、今度はそれに気付いたあなたの胸へと思い切り突っ込むこととなってしまいましたね。普通は逆でしょう、と笑うあなたの言葉を遮って、ぼくはただ一言だけ伝えました。伝える、と言うよりも叫ぶ、と言った方が正しいかもしれません。あれはきっとぼくのこころの底からの叫びだったのですから。一月の間用意していた言葉も、飾った言い回しも、ぼくの中身のない莫迦な頭からは全て吹き飛んでしまっていましたので、仕方のないことでした。



かくしてこの様な物語があった数年後、ぼくたちは晴れて結ばれたわけです。ぼくは今とても幸せです。冒頭にも書いた通り、ぼくの隣には美しい妻、あなたがいます。今この手紙を書くのにぼくは兄の文机を借りているのですが、後ろで奔放な妹が兄の書棚を漁っています。この兄の部屋のふすまをさらに開けると、奥の部屋にはきっと父がいます。けれどもぼくはどうしても満たされないのです。ぼくの手渡したシャベルを受け取ったのが誰なのかは全くさっぱり知りません。しかしその人にぼくが空けさせたぼくのこころの穴は、きっとあなたでも妹でも、父でも埋めることはできないでしょう。

この穴はぼくへの罰です。無知で無邪気であった、愚かなぼくへの罰なのです。

ぼくは絶えず後悔しています。毎晩懺悔をしています。床へ入り、乙女のように枕を涙で濡らしながら、ぼくのこころは空いた穴から深紅の涙を絶えず流し続けるのです。

この手紙を書いているこの文机は、つい数刻前まで血糊で汚れていたのです。父の書斎へ続くあの襖には、未だ勢いよく血潮が貼り付いているのです。兄が何年もかけてこつこつと集めた古本は、乾いた血のせいで殆ど開かなくなってしまったのです。

ぼくのこころの穴と同じように、その小さくも鋭い小刀を兄に刺し込んだのは、ぼくではないのかもしれません。けれども、その小刀を一等尊敬する親愛なる兄へと手渡したのは、間違いなく無知で愚かなぼくとこの妹なのです。兄をこの暗く本に囲まれた部屋の中央に殺したのは、きっとぼくたちなのです。

明日、兄は燃やされ、小さな白い小箱として返ってくると聞いています。顔を動かすこともなく、言葉を紡ぐことも少なかった兄は、とうとう何より雄弁に彼の感情を語っていた動作までも奪われてしまうのです。

ぼくは後悔しています。あなたとの結婚が兄を死へと駆り立てた原因の一つになっていたと知っているからです。あなたと結ばれたことを後悔しているのではありません。しかし、あなたと結ばれたことにうつつを抜かして、今まで疎かにすることのなかった兄との繋がりをないがしろにしてしまったことは後悔しています。

ぼくは兄は強い人だと思っていました。それと同時に、兄は本当は弱く、それを一握りの人以外に知られまいとあの薄暗く濁った書斎に閉じこもっていたことも知っていました。

ぼくはあの日細く開けた書斎の襖を閉じてしまいました。それを開いたままでもあなたと過ごすことはできただろうに、ぼくはごく当たり前とでも言うようにその襖をぴしゃりと閉じてしまったのです。兄は閉ざされた襖を見て、いつもの鉄面皮の下で何を思ったのでしょうか。その閉ざされた襖こそが、兄にとっては小刀を刺し込まれることに等しかったのではないのでしょうか。

兄を照らす日差しは永久に襖の向こうへと閉ざされてしまった。ぼくは、今でも死ぬ程にひたすら、唯それだけを後悔しているのです。

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