10 音楽室なんか ④

 一曲につき二回ずつ通しで練習して、この日の練習は切り上げることにした。今日は特に、早めに撤収したい理由がある。


「終わりにするのか? じゃ、俺は職員室に戻るぞ」


 杉浦は机のところへ行って、ノートパソコンを閉じた。


「戻るって、のことはどうするんですか?」


 俺はギターのシールドを抜きながら訊く。


「橘先生とバトンタッチだ。互いに負担を減らすためにな。練習は木曜の放課後と土曜の午前だろ? 都合のつく方が見にくるから、いつも俺がいてやれるわけじゃない。橘先生とも上手くやってくれよ」


「もちろんです。わたし、橘先生とは仲いいですから」


 修善寺が言うと、杉浦は訝しげな顔をした。恐らく、橘先生に嘘の情報を吹き込まれたことをまだ忘れていなかったのだろう。何か言おうと口を開きかけたが、結局すぐに閉じてドアから廊下へ出ていった。


 俺たちは撤収作業を急いだ。アンプなどの機材を全て片付ける必要はないので、とりあえず自分が持ち込んだ楽器やシールドからしまっていく。最後に小桜の重い鍵盤をケースに入れる作業を手伝い、五分とかからず帰り支度は完了した。


「よし、忘れもんはないか? じゃあやつらが来ないうちに——」


 菊井が言い終わらないうちに、「やつら」はやって来てしまった。音楽室の入り口に現れた三人組、(借)バンドだ。部長の長岡楓佳を先頭に、もうひとり女の先輩——あまり印象に残らない風体だ——が続き、しんがりに楠元という順で入ってきた。


 俺たちが早めに練習を切り上げた理由は、言わずもがな彼らだ。放課後の時間を二等分し、今日はフラパレがその前半を使っていいと楠元からは伝えられていた。俺は壁かけの時計に目をやって確認してみるが、交代まではまだ少し時間があるはずだった。


 部長は俺たちの姿をみとめると、ランウェイを行くように颯爽とこちらに向かってきた。揺れる前髪と、見え隠れする三白眼。


 俺は自分から声をかけておいて逃げ出したときのことを思い出した。何もなくともあの迫力の人なのだ。今回みたいなことがあって、ただで済むとは思えない。


 二メートル先のところまで来て、部長はぴたっと立ち止まった。俺たちは横一線に並び、固唾を呑んで次の動きを待つ。と——。


「すまんかった!」


 部長はいきなり腰を直角に折った。ベースを背負っていたせいで危うくバランスを崩しかけるが、すぐに立て直して最敬礼の姿勢を維持する。


「えっと……?」


 修善寺が困惑の声を漏らすと、部長はようやく頭を上げた。


「きみらには謝らなあかんことが山ほどある。まずは、せやな……」部長は顔にかかった髪を払った。「うちの同期のアホどもがしよったことやな。また部活の評判を下げてもて、すまん」


「いや、それは部長のせいでは……」


 また部長が頭を下げようとするのを、俺は慌てて止めた。想像していたのとは真逆と言っていい展開に、俺を含め、皆が拍子抜けしている様子だった。


「そうはゆうても、部長なんやから言い逃れはでけへんやろ。ちゃんと監督しとらんかったうちの責任や。——それとな、これは二年のきみらに対してなんやけど、去年はつらい思いしたやろ、うちらのせいで」


 部長が「うちら」と言う頃には、いつのまにかもう一人の先輩も来て隣に並んでいた。神妙な面持ちでこちらに会釈する。


「でもな、ただの言い訳にしかならんけど、分かってもらいたいこともあってな、うちらも二年前はきみらと同じやってん。バンド組む相手がおらんくて、先輩らにもほっとかれて。そんときの三年生は杉浦せんせーが顧問やった頃を知っとお世代やったからな。あの人らはなんも悪いことせえへんのにペナルティ食らった、ただの被害者みたいなもんやったから、うちらも文句言いずらかったわ」


「ああ……」


 部長に言われて、俺は初めて気づかされた。そうだ、本人から直接聞かされずとも察して当たり前のことではないか。自分たちがそうなら、先輩も同じ扱いを受けたはずだと、なぜこんな単純な事実にすら思い至らなかったのか。やはり俺は、現実をよく見ているつもりで、都合のいい部分以外は何も見えていない。


「せやから、去年はやっと組めた自分のバンドのことで頭がいっぱいで、後輩のことまで気にかけてられんかった。でもな、今年はうちが部長になったし、なんとかこの部活を良くしてこう思っててん、けど……。もうひとつ謝らなあかんことがある。——奏太ぁ! こっち来い!」


 ピアノの椅子にギターを立てかけてあらぬ方を向いていた楠元の肩が、びくっと跳ねた。それでも勿体つけて緩慢に振り向き、不貞腐れた態度でこちらに歩いてくる。と、部長がその頭を鷲掴みにして無理やり低く押し下げた。


「このドアホが嘘の報告をしよって! 謝れ!」


 楠元は抵抗しながらも、消え入るような声で「悪かった」とだけ呟いた。五秒後に部長の手から解放されると、すぐさま逃げるように離れていった。


「嘘の報告?」


「ああ。今年の始めの頃に、あいつが部室に来たことがあったんとちゃう? あれな、うちが偵察に行かせてん。自分で行くのはちょっと気まずいとゆうか……分かるやろ。それで奏太にやらせてどうなっとおか訊いてんけど、その報告が滅茶苦茶やったっちゅうことやな。うちはつい最近まで、きみらがバンドをやっとおことも、練習したがっとおことも知らんかってん。ほんまにすまんかった」


 部長はまた頭を下げつつも、ピアノの向こう側に隠れた楠元を睨みつけた。


「全部あの人のせいだったんですか」


 俺の右隣で修善寺が小さく言った。声に怒りがこもっている。顔は見ないようにしよう。


「あいつも可愛いとこはあるんやけどな……。たぶん今回のことも、ただうちらと練習する時間を減らされたくなくてやったことやろし。ま、うちらがきつく叱っとくから許したってや。今後はあいつになんかされたらうちにゆうてな? 次は口も聞けんくなるまでしばいたるわ」


 部長は八重歯を覗かせてニッと笑った。


 怖い人、という印象自体は変わらなかったが、それだけでないこともよく分かった。本当に俺は、大切な部分ほど何も見えていなかったらしい。

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