第03話 魔王召喚 #3

――五百年前。

この世界にはひとつの予言があった。


【終焉の魔王】が降臨して――世界を滅ぼすであろう、と。

人間を、魔族を、地と海と空に生きるあらゆる生命を、そして世界そのものすら。

すべてに終焉をもたらす魔王が現れると。


――五百年前。

人間と魔族は、互いを討ち滅ぼすべく闘争を繰り返していた。


その始まりがいつであったのか、どれほどの命が失われたのか。それを覚えているものが誰一人いなくなってもなお勢いは衰えず、延々と続く争いから無関係でいられる生命は皆無であった。

魔王は終わりのない戦争を終結させ、さらに世界すらも終焉に導くであろうと考えられていた。

魔族は王の降臨を、来たるべき審判の日を、すべてが無と帰すその瞬間を、待ち望んでいた。


だが――





「……魔王様は、現れませんでした」


ハデスは五百年前の絶望を追体験しているかのように、沈痛な表情でそう告げた。

校庭の木の枝が変化した大樹のふもとでルナは、小柄な身体には不釣り合いな、巨大で豪勢な椅子に座らされていた。


ハデスとオシリスは王に謁見する騎士のように、ルナの前に跪いている。

彼らは、ここを「魔王城」と呼んだ。

室内は長い年月で劣化してボロボロになり、大樹によって天井すらも破られたいま、ルナは「ここ」が城と呼べるとは到底思えなかったが。


「じゃあ、今も……戦争が続いて?」


ルナの問いに、ハデスは首を横に振る。


「いいえ……予言とは異なる形で、人間との戦いは収束に向かいます。【終焉の魔王】が降臨しなかったことで――ゆっくりと世界の魔力総量が減少して、我ら魔族が弱体化したためです」


ハデスによれば。


この世界には魔力と呼ばれる、万物に宿る根源的な力が満ちているという。

そして魔族は、生きるために魔力を消費するらしい。つまり新たな魔力が世界に追加されなければ、魔族が生き続けているだけで、世界に存在するトータルの魔力量は減り続けることになる。


そして、世界に魔力を注ぎ込むことが出来るのは魔王だけである、と、ハデスは語った。


「……あたしが?」

「はい。魔王様だけが、新たな魔力を生み出せる――おそらくは、無尽蔵に。先程あなた様が発動した【渦】も、この【大樹】も、新たに創造されたもの。魔力の新生は、私たち魔族には五百年かかっても不可能でした」

「ハデスの炎とか、オシリスが、その、傷を回復したのは……?」

「私の炎は、あくまで世界に漂う魔力を操作しているに過ぎません。この技術は【魔法】と呼ばれます。オシリスは……」と、ハデスは横目でオシリスを見る。「元気がいいだけですね」

「ハデス! オシリスの扱いが雑ではありませんか!?」


と、オシリスが抗議するが、ハデスはそれを見事なまでにスルーした。


「だからこそ、魔王様の降臨は、我々魔族の悲願であったのです。私は五百年のあいだ研究を続け、ようやく――こうして、魔王様をお呼びすることができました」


……五百年。


この、外見上は人間と何の違いもないように見える神父――ハデスは、この世界で、想像できないほどの長い年月を過ごしていることになる。隣のオシリスも同様だろうか。

だが、ルナは――


「……ひとつ、わからないんだけど」

なんなりと」

「あたしまだ十五歳だし、五百年前なんて……。ご先祖様とか、そういうやつ?」

「いいえ。のです」

「……時間?」

「私の五百年間の研究によると」と、ハデスはどこか得意げな表情を浮かべる。「こちらの世界の一年が――魔王様の世界では、おおよそ一週間といったところです」


一週間。

ルナが月曜から金曜まで学校に通い、ささやかな休息を経て再び月曜日の憂鬱さを感じているころには、ハデスたちの暮らすこの世界では一年もの時間が経過している、と。

そんなことが、あり得るのか。


「じゃあ……五百年前ってことは、えっと……」

「魔王様の世界では、九年と、すこし」

「……六歳のとき」

「覚えていらっしゃらないのですか」と、嘆くような声色で、オシリスが口を挟む。


ルナは。


「……そ」


ごくり、と、唾を飲み込み、


「――」と、ぶっきらぼうに吐き捨てた。

「……魔王様?」


ハデスは怪訝そうに、ルナの表情を覗き込む。

ルナはふるふると首を振った。


「そうだよ。――魔王を召喚してどうするの? また……人間と、戦うの?」


緊張を孕んだ声色のルナに向かって、ハデスは笑みを浮かべた。


「いえ、それこそ……いまさら、なのです。魔王様」

「え?」


ハデスは視線を上げ、魔王城を見渡した。

ひどく寂れた、王の城を。


「既に魔族は、人間と共存の道を歩みはじめています」

「……共存?」

「はい。魔力の減少によって滅びの瀬戸際まで追い詰められ、我らは学びました。人間が自然と共存しているように、我々も、人間とともに生きるべきである、と」

「……」


人間との――共存。


ハデスはルナの心に驚きが浸透するのを待ったあと、静かに言葉を続けた。


「我々はもはや、魔王様に【終焉】を望みません」と、ハデスはうやうやしくルナに手を伸ばす。「ただ――魔族の王として我らに魔力を与え、共に生き、導いて頂きたいのです」


だがルナは、


「……え、それはヤだけど」と、素朴な拒絶を返した。

「……な」ハデスは冷静さをかき集めてルナに問う。「――何故……でしょうか?」

「ナゼって……」


ルナは、ハデスの漆黒の瞳から目をそらした。


「いきなり呼びつけて魔王になれ、とか言われても」

「突然のことで混乱されるのはわかりますが、しかし――」

「だってこんなの……勝手すぎる」

「……」

「五百年間あたしのことを待ってて、大変なのはわかったけど。これまで生きてきた世界をぜんぶ捨てろなんて――ずるいよ」

「……魔王様、それは……」

「部室に居たら、友達の目の前でいきなり召喚されたんだから」

「ブシツ?」首をかしげるオシリス。

「とにかく」


と、ルナは玉座から立ち上がった。


「――


オシリスとハデスに、ピリ、と緊張が走る。

最初に口を開いたのはハデスであった。


「……申し訳ございませんが、魔王様をお返しするわけには……」

「……」


ルナはハデスの拒絶を無視して眼を閉じ、右手を前に差し出した。


イメージするのは、最初にこの世界に【召喚】されたときの感覚だ。周囲から切り離された道が現れ、その先に、異なる世界が広がっている。

あれを、もう一度――


ルナの身体が紫に輝く。

バチバチと稲妻が走ったかと思うと――固唾を呑んで見守るハデスたちの目前で、ルナの手の先に、紫の魔法陣が現れた。

ルナは瞼を開ける。

魔法陣の向こう側には、見慣れた華道部の部室が確認できる。部室は無人のようだった。


「……できた」


オシリスとハデスは呆気にとられ、その光景を見ていた。


「そんな……ハデスで五百年かかった世界間転移魔法が、こんな簡単に……」と、オシリス。

「――じゃあね」


ルナは歩みを進め、魔法陣の中に入って行こうとする。


「――ま、まままま待って待って待ってください魔王様ァァァ!」


オシリスは恥も外聞もなく「ぶわっ」と涙を振りまいて、全身でルナにすがりついた。

その背からうねうねと触手が伸び、ルナの四肢を絡め取る。


振り向いたルナの瞳が紫に光ると、オシリスの触手はあっけなく爆発してあたりに飛び散った。

爆炎に気圧されたように、オシリスがルナの身体から離れた瞬間、ルナの周囲に淡く光る壁が張り巡らされる。それは、外界からの接触を全て拒絶する【バリア】のように見えた。


ハデスはルナの異能を漆黒の瞳に映し、敬服したように呟いた。


「さすがは魔王様……。転移ゲートを開いたのみならず、魔法則もなしに魔力障壁を形成できるとは……」


夢見心地といった表情のハデスを、オシリスががくがくと揺さぶる。


「ハデス、感心してないで魔王様を!」

「――え、ええ」


冷静さを取り戻したハデスは、ひとつ咳払いをする。

そして、今にも魔法陣に入ってこの世界から出ていこうとするルナに、ある提案を持ちかけた。


?」


ルナは足を止めて目をパチクリさせる。


「――週、イチ?」


それは、異世界で聞くにしては俗っぽすぎる響きの単語だった。

だが少なくともハデスは、決してふざけている様子ではない。


「魔王様のお考えは理解しました。こちらの世界で生きて頂こうとは、もう、申しません」

「ハデス……!?」と、オシリスが声を上げる。

「幸いにして」と、ハデスは大樹を仰ぎ見る。「この樹には、魔王様が生み出した魔力が満ちています。魔王様が元の世界に帰還されても、しばらくは生き延びることができるでしょう」

「……」

「――ですが、延命できて、一年」

「一年……」と、ルナはハデスの言葉を繰り返した。


こちらの異世界における一年は、ルナの世界で言えば……


「魔王様には一年後、つまり――魔王様にとっての一週間後に、再びこの世界に戻ってきて頂きたいのです」

「それで、また一年分の魔力を……」

「仰るとおりです」と、ハデスは頷く。「こちらの世界に残って頂く必要はありません。一週間に一回だけお越し頂き、我々が一年間生きていけるだけの魔力を与えて頂けないでしょうか」

「……」


ハデスはルナの迷いを見越したように、寂しげな微笑みを浮かべた。


「我々魔族は、もはや滅びゆく種。せめて最後だけは、それにわずかでも抗いたいのです」

「……」


ルナはハデスの漆黒の瞳を見つめ、考える。


生命。

滅びゆく種族。

生きようとする意志。

大地から切り離された枝。

枯れてゆく宿命にある「いのち」を最後に美しく飾りあげる、華道の精神。


ルナの脳裏には、とりとめもなく、そんなイメージが浮かんでいたのだった。


しばらく沈黙したあと、ルナは「ふ」と息をつく。


「……わかった。学校があるから、週末だけね」


とたんに、張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。


「ま、魔王様ぁ……うう……。たとえいつもお側にいなくても、オシリスは寂しくは……いえ、オシリスわぁぁ……!」オシリスは嬉しいのか寂しいのか、うるうると赤い瞳を潤ませる。

「――感謝致します……魔王様」


とハデスも瞳に歓喜を浮かべ、頭を垂れた。


「我ら魔族の命は、あなた様にかかっています。これまでも、そして――これからも」


――こうして、ルナの【週末異世界】が始まったのだった。

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