武蔵野異界のむさしのぎかい
鈴ノ木 鈴ノ子
第一話
「とても、きれいだよ」
彼は私を引き寄せて抱きしめると耳元でそう囁いた。
心地よい声色でそう言われると、この人に愛されて、そして、愛することができたことに、私は満遍の安らぎを得ることができる。
「ありがとう」
私も両手を回して彼をしっかりと抱きしめた。
その体温が心地よく伝わってくると、私の中に蜜のように甘露な幸せが満ちてゆく。彼は私を畏怖せず、それどころか、出会った時から私を全身で受け入れてくれた。
噂通りの斬りつけも、込みの話だけれど。
「口づけしていい?」
真剣な面持ちで彼が私を見つめている。もう、こうなってしまってはどうしようもない。
私は蛇に睨まれた蛙のようになりながら頬を真っ赤に染めた。
「聞くな、ばか」
そう照れ臭くそう言って目を瞑る。
もう、何度となくする行為だけど、その度に、いつか私の口元を見て、彼が目を背ける時が来るのではないかと不安を感じる事がある。でも、その都度、その不安は彼によって払拭された。
彼の柔らかな唇が私の唇に優しく触れ、背中に手を回して私を逃すまいとする。
噂話から生まれ落ちた私に、こんなに暖かな抱擁を与えてくれるのは彼だけだ。
この抱擁力は怪異の私が言うのも変だが、本当に化け物じみている。
まるで春のうららにいるようだ。
手放したくないと何度も思い、私もさらに抱擁に力を込めた。
数秒ほどお互いにそのままで幸せの時を過ごして、やがて、名残惜しいけれどお互いに手を解いていく。
「さ、帰ろう」
そういって彼が買い物袋を私から受け取ると空いた手を伸ばしてきた。
「ありがと、気がきくじゃない」
強がりなことを言いながらも、表情も心も染めたままでその手をしっかりと握ると、少し硬い彼の手が私の手を優しく握り返した。
「素敵な怪異を見せてくれたからね」
そう言って彼が微笑んだ。その笑顔に私の染め色はさらに増してゆく。
でも、私は頭の片隅では理解している。
怪異 の私が永遠の幸せを得ることはないのだ。今のこの幸せも彼が寿命を全うすれば消えてしまう。当たり前の話である。噂がある限り生命のある 怪異 と、生物として生命のある 人間 なのだから。
でも、それを理解していても、それでもなお、彼と刻を過ごしていたいと願うのだ。
「鍋、作らないとね」
マスクをして手を繋いでゆっくりとアパートまで歩いていく。
付近の家々から夕食を作る素敵な香りが風に乗って流れてくる。
季節ものの香りや、ちょっとエキゾチックな香り、そして定番のカレーの香り。各家庭の夕食を彩る素敵な香りたちだ。そして楽しそうな笑い声や嬉しそうにはしゃぐ子供達の声も合わせて聞こえてくる。宿題しなさい!なんて怒鳴り声も、たまに・・・いや、よく聞こえてくる。
「私も宿題しないでよく怒られたなぁ」
近所のその声に彼が懐かしそうに言った。
「そうなの?」
「うん、漢字と算数の宿題が苦手だったなぁ」
彼の子供の頃の写真を見たことがあり、怒られている姿を想像して思わず笑ってしまう。
「ふふ、相当怒られたんでしょうね」
「いやぁ。怒られた、怒られた」
思い出し笑い浮かべながら彼が笑ったが、ふと、何かを思いついたような表情を見せた。
「あ、そういえば、怪異にも宿題はあるのかい?」
「宿題ね・・・。あ、花子がやってたわよ」
深夜の学校に遊びに行くと、誰もいない教室で花子が机に向かって、一心不乱に夏休みの課題をこなしていた。声をかけることができないほど、真剣な眼差しでそれに挑んでいた姿を、窓から微笑みながら見ていたのを思い出す。
「宿題するの?」
「ええ、たまにあの子クラスに加わったりしてるわよ?。ほら、集合写真で1人増えることがあったりするでしょ?あれよ」
「あれ、そんな理由なの?」
「そうよ、どうしても思い出せないクラスメイトが居たりすると、それはあの子よ」
「そうなのか・・・、でも、あの服装は・・・」
「小学校・中学校なら体操服で過ごしていても問題ないでしょ、たまにファッション誌を読んで勉強して、同学年の友達と一緒に買い物行って、オシャレしてるわ」
ファッションの聖地で同学年の友達と一緒に、今時の服を買って楽しむ姿を想像して、彼はなるほどと頷いた。それならば廃れることはないだろう。
「私のこのコートも、あの子が買ってきてくれたのよ。もちろん支払いはしたけど」
「どうりで、大学で色違いの同じコートをたまに見かけるわけだ」
「そうなの?」
「うん、女友達から言わせれば、流行りらしいよ」
「そういえば、あの子もそんなこと言ってたわね」
そんな会話をしながら2階建の鄙びたアパートの前まできて、ふと、違和感を覚えた。部屋は1階の角部屋の3号室、その窓に明かりが灯っている。
「電気消し忘れた?」
「いや、2人で確認したよね」
「う、うん」
2人で恐る恐る部屋に近づく、玄関横のキッチンの横窓が少し空いていて、そこから美味しそうな香りが漂ってくる。
こっそりと覗くと老婆が1人で、包丁を使って何かを切り分けて、鍋で何かを煮込んで料理を作っている姿が目に入った。
絶妙のタイミングでガチャリと玄関の扉が開くと、中から噂していた子が顔を出した。
「おかえり」
ウエーブのかかった少し染めたロングヘアをポニーテールにまとめ、清楚系で有名なブランド服に身を包んだ、なんとも 美少女 と呼ぶにふさわしい、綺麗で可愛らしい女の子がそこにいた。
「いや、おかえりじゃないわよ。何してるの花子?」
さすがの彼もその姿に目を点にして絶句していた。
「ごめんね、お腹減ったから上がらせてもらったの」
「お腹減ったからって・・・」
握っていた手を離して、私は顔に当ててため息をつく。この子は、少々、自由奔放なところがあることを思い出した。呼ばれればどこへでも行ってしまうのだ。
「そんなことより、これ渡しとく」
差し出されたそれは純白の和紙だった。
絹のように白く美しい和紙に同じ材質の紙紐が両端に長く結ばれている。
それは顔を隠すためのもので、ある議会の御役になったものが着ける お顔隠し だ。
「私が 御役?」
コクンと彼女が可愛らしく頷いた。
「そうよ、引き継ぎにきたの」
そう言って果物がらのタブレットも差し出してきた。
「もうそんな時期なんだ、で、開催はいつなの」
受け取って期日を聞くと花子は申し訳なさそうな顔をしてこう言った。
「今日、忘れてたの、ごめんね」
宿題を忘れた子供のような言い方に思わず呆れ果てる。
「今日なの!?なんで早く言わないの!メールでもなんでもすればいいじゃない!」
私は少し声を荒げながら、タブレットを開くと画面に予定表が表示されていて、そこに 武蔵野議会 と表示されていた。部屋に駆け込んで時計を見る、すでに夜の部が始まるまでに10分を切っていた。
この会議は必ず出なければならないと私たちの中では決まっている。
そう、この いわゆる、武蔵野議会 と呼ばれるものには、日本に住むすべてのモノが出席するのだ、そして、そこで色々な議論が繰り広げられる。
それは今後の日本全体のモノたちの過ごし方をも決めるのだ。
「えっと、お詫びと言ってはなんだけど・・・。移動する準備は整えた」
「お詫び?」
「うん、会場近くまで連れて行く、時間がないもの。彼氏も出席できるようにしておいた」
話を黙って聞いていた彼は一瞬驚いた表情をしたが、諦めたようにため息をつきながら頷いた。
こういう時の彼は本当にありがたい、質問攻めも、不用意な会話への割り込みもない、関心はあるようなのだけど、私が話すまで待ってくれる。
「さ、こっち!」
花子は私と彼の手を引くと、そのままキッチン横にあるユニットバスへと強引に誘った。扉を閉める直前に、老婆が私たちが玄関で脱いだ靴を放り込んでくる。
都会によくあるユニットバスで、トイレとお風呂が一緒になったものだ。汚れとカビがひとつもない、白く輝く室内は、彼が時折に精魂込めて掃除しているおかげでもある。
「こんなとこ連れ込んでどうすんのよ」
私が声を上げると口元に指を押し付けられた。
「しっ!黙ってて!」
しばらくすると、声が聞こえてきた。それは名前を呼ぶ声だった。
「はーなこさん、遊びましょ〜」
「はーぁーい」
とてもその容姿では想像できないほどの、おどろおどろしい声色で、花子は返事をした。
とたんに、白く輝く室内はどんどんと薄暗くなり、ついには漆黒の闇となってその場にいる全てのものを飲み込んでいった。
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