§ 2―4 お隣さん



 2030年5月



 GWに静岡の実家に呼び出され、卒業後の進路やら、結婚はどうするのやら、うんざりするほど聞かれ、ようやく自分の部屋に帰ってきた。


 おれの住んでいるマンションは、大学から歩いて10分ほどの学生向けに賃貸ちんたいしているエスポワール本豪という6階建てのマンションで、その3Fの308号に住んでいる。間取りはLDKで、バスルームとトイレは別れている。学生としては贅沢な広さだ。家賃はそれなりに高いが、大学からの補助金が出ているので、普通のアパートに住むのと変わらない家賃で済む。


 自分の部屋に着き、荷物をその辺にほっぽりだして、涼が以前、レポートを手伝ってくれたお返しにと勝手に買ってきたソファに座る。


「結婚か……。薫先輩はどう思ってるのかな……」


 まだ付き合ってすらいないのに、そんなことを考えてしまう。


「結婚なんて、とりあえず卒業してからの話だよなー」


 と疲れからか問題を先送りして、ボーっとしていた。



 そんなときだった。


「ピンポーン」


 とインターフォンが鳴る。誰だろう、涼かな? とインターフォンに出る。


「すいません。夜分遅くにー」


 画面には赤い髪の女性が映っている。


「昨日、お隣に引っ越してきまして、その挨拶にきました」


 そういえば、隣の部屋は3月から空き部屋になっていたな、と思い出す。


「そうですか、今、出ますね」


 と答え、ドアを開ける。鮮やかな赤いロングヘヤーで、左耳に赤いイヤリングをした若い女性が立っていた。顔を見ると、彼女は目を丸くして、こちらを見ていた。なんとなく薫先輩に似てる。


「マスター……」


 ん? マスター? 何のことを言っているんだ。よくわからないが、挨拶をしておこう。


「あの、この部屋に住んでる建早と申します」


「あ! 建早様ですね。私は、イヴ・ナンバーズ・ヨッドギメルと申します」


 『様』? それに、イヴなんたらって名前からして、留学生かな? 


「留学生の方ですか? それにしては日本語お上手なんですね」


「え! ……ええ、そうなんです。この度、留学してきまして」


 こんなに流暢にしゃべる留学生もいるんだな、と感心した。


「えーっと、イヴさんでいいのかな?」


「いえ、イヴではなく、ヨッドギメルとお呼びください」


 ファーストネームで呼ぶのは失礼だったか。


「わかりました。ヨッドギメルさんですね。えーっと、ここに住むってことは同じ大学ですよね?」


「そ、そうです。同じ大学に通うことになりますね」


 流暢りゅうちょうにしゃべる割には、ところどころ、たどたどしくなる。


「とりあえず、同じ大学の生徒どうし、よろしくお願いします」


「イエス、マスター。こちらこそ、よろしくお願いします」


「はい。まぁ、困ったことがありましたら、何でも聞いてくださいね」


「そうさせていただきます」


 と挨拶を済ませ、ドアを閉めた。なんか変わった外国人だな。髪があんなに赤い国ってあるのかな? 日本のアニメ大好きなフランス人だったりして。それに『様』とか『イエス、マスター』とか、なんのアニメの影響を受けたんだ? 


 そんなことを思って、彼女とこれから始まる1日目が終わった。




   ♦   ♦   ♦   ♦




 次の日の夜、ピンポーン、とインターフォンが鳴る。


「こんばんは、建早様。少しよろしいでしょうか?」


 お隣のヨッドギメルさんだっけ。何だろう。


「こんばんは。ヨッドギメルさん。どうされたんですか?」


「晩御飯を作り過ぎてしまいまして、おすそわけにまいりました」


 彼女の両手は、お鍋を握っている。


「そ、それはありがとうございます。何を作ったんですか」


「肉じゃがです」


 肉じゃが! 一昨日引っ越してきたばかりの留学生が、肉じゃがを作るなんて。


「ヨッドギメルさんは、日本について詳しいんですね。肉じゃがなんて、よっぽど日本に精通しているんですね」


「え! ええ、そうそう、精通しているんです」


「へ、へぇー。とりあえず、ありがたくいただきますね」


「はい。建早様のお口に合うと思いますので」


「あー、『様』なんてつけなくていいですからね。アキトって呼んでください。みんなそう呼ぶので」


「イエス、マスター。アキト様ですね」


 はぁー。会話がみ合っていない気がする。もう、肉じゃがを受け取って会話を終わらせよう。


「それでは、ありがたくいただきます」


「はい。お召し上がりください」


「あ、ありがとうございます」


 そう言って、鍋を受け取りドアを閉めた。なんとも言えない人だな、ヨッドギメルさんは。それにしても、言いにくい名前だ。そんなことを思いつつ、鍋の蓋を開けてみると、確かに美味しそうな肉じゃがが入っている。

 恐る恐る、指で一摘み口に運ぶ。……上手い! これは驚いた。おそらく今まで食べた肉じゃがの中でも、断トツに美味しい。空腹だったのも相まって、一息に食べきってしまった。また作ってくれないか、お願いしてみようかな。



 彼女が挨拶に来てから2週間、彼女は必ず毎晩、おれの部屋を訪ねてくる。バイトやゼミで遅くなっても、帰ってくるのを確認しているのか、部屋に入ってしばらくすると、訪ねてくるのだ。毎度見る度と薫先輩に少し似ているなと感じる。それに、肉じゃが、すき焼き、煮物、手作りコロッケなど、どれもこれも、非常に上手い。食費もかからずに済むし、彼女が訪れてくるのも悪くない、と思っている自分もいた。



 今日はレボートをやるために早めに帰ってきた。案の定、10分ほどしてインターホンが鳴る。


「こんばんは、アキト様」


 そう言われて、ドアを開ける。


「こんばんは、ヨッドギメルさん」


「はい、こんばんは。アキト様。今日はカレーを作りすぎてしまいまして、おすそわけにまいりました」


 と言われたところでエレベーターから出てくる涼の姿をチラッと確認した。


 マズイ! こんなところを見られて、薫先輩に知られることにでもなれば、無用な誤解をまねいてしまう。


 とっさに彼女の腕を引き、部屋に入れ、鍵を閉める。小声で囁く。


「すいません。ちょっとだけ静かにしていてもらってよろしいですか?」


「イエス、マスター」


「シー! 静かにー」


 人差し指を口の前にもっていき、静かにするようポーズをとる。これに彼女はうなずく。


「ピンポーン」


 玄関で、彼女にさらにポーズで静かにするよううながす。


「ピンポン。ピンポーン」


 いいから早く帰れ。こういうときの涼の洞察力は尋常じんじょうじゃない。細心の注意を払わなければ。

「あれ? いないのかなー」と、ひとり言が聞こえてくる。もう少しだ。と、今度はスマホが反応しだす。


「ブウゥゥゥ、ブゥゥゥゥ」


 ナイス! マナーモードにしておいてよかった。これでなんとかなりそうだ。


「買い物にでも行ってるのかな? しょうがない。今日は帰るかー」


 そうそう。後でコンビニにでも行って、本当に買い物に出ておこう。まったくの嘘はやつには通じない。


 諦めたのか足音が遠ざかっていき、エレベーターに乗る音がした。念のため、ドアを少し開けて確認する。どうやら、ホントに帰ったらしい。ふぅー。一安心だ。


「なんかすいませんでした」


 と、彼女を見ると、カレーを持ったまま、腕をつかまれて立ちすくんでいる。


「あ、ごめんなさい。連れ込もうとか、変なことしようとかしてるわけじゃないですからね」


 と赤くなって鼻の頭を掻いている。


「マスター……」


 彼女が小さくつぶやくのが聞こえた。


「あの、その『マスター』っていうのは何なんですか?」


「口癖です」


「そ、そうですか。あの、すいませんでした、お詫びといってはなんですが、お茶でも飲みますか?」


「はい、ありがたくいただきます」


 彼女は笑顔で答えた。



 ダイニングのソファに彼女を座らせ、電子コンロでお湯を沸かす。


「なんかすいませんね。あと、持ってきてもらってるご飯、とっても美味しいです」


「お口に合うと思ってましたので、よかったです」


「本当に美味しいです。そのカレーも楽しみですよ」


 と彼女のほうを見ると、机の上のレポートを見ている。


「A型インフルエンザウイルスH1N2の研究をなされてるんですか?」


 え? レポートには、その名称の記載はないはずだ。


「あの、なんでわかるんですか?」


「えぇ、こちらに書いてある特徴を読めば、わかりますよ」


 驚いた。あのレポートの内容だけで。正式な名称をきっちり答えた。


「ヨッドギメルさんは、ウイルスとか詳しいんですね」


「それなりに解かっているとは思いますよ」


「すごい。いろいろこれからも伺ってもいいですか?」


「はい、答えられる範囲であれば、お答えしますよ」


 これは心強い隣人だ。ものすごい天才なのかもしれない。


 お湯が沸いたので紅茶を入れて、彼女に出そうとしたら、彼女はソファーから移動し、今度はTVの下の棚を見ている。紅茶を机の上に置く。


「なにか気になるブルーレイでもありましたか?」


「えぇ。見てもよろしいですか?」


 ガラスの扉を開き、彼女が何枚かブルーレイを取り出す。


「これはどんな内容なのですか?」


「それは、正義のヒーローが仲間と力を合わせて、悪の魔王を倒す、ていうよくあるアニメですよ」


「では、こちらは?」


「それは、どうしようも無くなった現実を、タイムリープして過去を変える、ていうアニメですよ」


「タイムリープ……面白いんですか?」


「よかったらいくらでも貸しますので、観てください。勧善懲悪のわかりやすいファンタジーものも、こういうシリアスなSFものも、どっちも好きなんですよ」


「それでは、これらはお借りしますね。次にこちらは?」


「それはですね……。あぁ! それは、あの、なんというか、ちょっと……」


 と言ってあわてて彼女の手からブルーレイディスクを乱雑に取り上げる。


「『美人家庭教師、禁断のレッスン』とは何ですか?」


「あー。そう、それはですねー。あ! そうそう、大人になるためのバイブルですね」


「そうですか。わかりました」


 笑顔の彼女に、鼻を掻いて照れていたが、なんとか話を変えようとする。


「そういえば、あの、ヨッドギメルって名前、呼びづらいですね」


「そうですか? アキト様のお好きな呼び方でよろしいですよ」


「ん……。じゃぁ、『メル』さん、と呼んでもいいですか? 呼びやすいですし」


「イエス、マスター。メルとお呼びください」


「マスターって。まぁ、分かりました。では、これからはメルって呼びますね」



 アキトとメルはお互いに笑っていた。


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