§ 1―2 いつもの朝



「お父さーん、早く起きてよー」


 朝の微睡まどろみの中、愛娘イリスの声がかすかに聞こえてくる。


「んん……もう少し……」


「いつも起きないんだから。シャルナお姉ちゃんが来ちゃうよ?」


 シャルナさんが来る? うぅーん……。となるともう8時……。


「はっ! もう8時じゃん。やばい。やばい」


 ベッドから急いで上半身を起こすと、目の前に怒った顔のイリスがいた。


「やぁ、おはよう、イリス」


 頬をリスのように膨らませ目を真ん丸く見開いている。


「おはよう、お父さん。いっつも寝ぼすけさんなんだから」


「ごめん。ごめん。すぐに準備するから」


 はぁー……と溜め息をいていると、ぷいっと顔の向きを変え、イリスは手足を大きく振り居間のほうへ歩いていった。


「ニャァー」


「おはよう、ニャル」


 愛娘に置いていかれ、ベッドの傍らでチョコンと座る黒猫のニャルも、朝から元気そうだ。



 いつも通りの朝。とはいえ、5歳になったイリスは随分と成長したものだ。朝寝坊も度が過ぎると起こしに来てもらえなくなるかもな、と少し反省しながらベッドから出て、出かける準備をする。


 イリスは5歳のおれの愛娘だ。目がクリっとして、アヒル口で、ぷにぷにの頬っぺたをツンツンしたくなる。ツンツンすると怒られるからほどほどにしている。髪は肩ぐらいまでの長さで綺麗に整っている。これもシャルナさんがちゃんと見てくれている証拠だ。表情豊かになってくれて本当によかった……。妻のエリサが亡くなって2年。物心がつく前でよかったのかもしれない。


 寝ぼけまなこで洗面所に向かう。歯を磨いて、顔を洗い、鏡を見ると、相も変わらずの強烈な寝ぐせが目に付く。2、3度、くしを通しても全然直らないので、いつもどおりにあきらめて居間へ向かう。


『今日はヘイゼル領やマルクス領の南部で、午後に一時的に雨が降るかもしれませんが、全国的には晴天で、風も穏やかでしょう……』


 居間に入るとソファーに座るイリスが「今日も天気いいよー」とTVから流れてきた天気予報のとおりに報告をする。


「それはよかった。お昼は、たまには外に食べに行くとするかなー」


 イリスはこっちを振り返り、不満気な顔を向ける。


「お父さんだけお外でご飯食べるのずるいよ。イリスも一緒に食べるー」


「じゃぁ、今度のお休みは、外にお出かけしたときに一緒にレストランでも行こっか」


「やったー。イリス、グラタン食べるー」


「イリスはグラタン、本当に好きだね。うんうん、じゃぁ、グラタンがおいしいところ探しておくからね」


「わーい、はやくおやすみにならないかな」


「ニャァー♪」


「ニャルも一緒に行こうねー」


 さっきまで機嫌が悪かったのが嘘のように、すっかり笑顔になっていた。


 イリスの笑顔が、悲しみを優しく包んでくれる。



 ピンポーン。


 いつもの時間にインターフォンがなる。


「おはようございます。アニスさん。シャルナです」


「おはようございます。シャルナさん。どうぞ」


 電子錠でんしじょうを解除すると、家政婦をしてもらってるシャルナさんが入ってきた。長い栗毛色の髪を動きやすいように後ろで巻いて、うっすら赤く着色された合金の細いフレームの眼鏡をかけている。レンズ越しの優しい瞳には何度助けられたことだろう。


「おはようございます。アニスさん。イリスちゃん」


「おはよー。シャルナお姉ちゃん」


 こちらを見て、彼女は少し微笑ほほえむ。


「ふふ。今日もお寝坊さんだったみたいですね」


「いやいや、いつもお恥ずかしいことで」


 この無邪気な寝ぐせを見て、分かったのだろう。


「はい、サンドイッチ。今日はハムとチーズが挟んでありますから」


「本当にいつもありがとうございます。ありがたくいただきますね」


 サンドイッチなのは、出勤の車中でもまめるようにという気遣いだ。


「イリスも食べるー」


「はい、イリスちゃんの分も今用意するからね」


「うん」


「ニャァー」


 餌がもらえることが解かっているのだろう。ニャルもシャルナさんにすり寄っていく。


「はいはい。ちょっと待っててね」


 シャルナさんはエプロンを着て、袖をまくってキッチンに向かう。



 シャルナさんは、妻エリサの同年代で同郷の友人だ。何度か顔は合わせていたが、エリサの葬儀のときに「イリスちゃんの面倒はどうされるんですか?」と聞かれ、「……そうですね。どうしましょう……。まぁ、落ち着いてから考えることにします」とうつろろに返答したところ、家政婦の仕事をしていますので、お困りでしたら連絡してください。と連絡先を教えてもらった。いろいろ考えた挙句あげく、事情も知っており、イリスとも何度か会っていることから、彼女の提案に甘えさせてもらうことにした。



「大丈夫ですか? 昨日も夜遅くまでお仕事されてたみたいですが。無理しないでくださいね」


「こちらこそ、朝から晩までイリスの相手をしていただいて、ホントに助かります」


「私なら大丈夫です。お仕事ですしね。休みの日をちゃんと取るために、お仕事がんばってらっしゃるんでしょ?」


「イリスと過ごせる日を仕事でつぶすわけにはいかないですからね」


「ふふ、イリスちゃんも、アニスさんと過ごせる日を楽しみにしてますよ」


「そうですか。すこやかに育ってくれてるみたいで、これもシャルナさんのおかげですよ」


「いえいえ。もともとイリスちゃんはいい子ですよ。私もイリスちゃんに救われてますから」


「そうですか……そう言ってもらえると、こちらも気が楽になります」


「そんなに気にしないでくださいね。お仕事でもありますし」


「いえいえ、ありがとうございます。では、そろそろ出かけますので後はお願いします。いってきますね」


「いってらっしゃい。お気をつけて」


 と挨拶あいさつを済ませると、イリスはサンドイッチを食べるのをやめて、椅子から立ち上がり、ニャルを抱っこしながら小走りにけ寄ってくる。


「いってらっしゃーい。お父さん」


「はい、いってきます。イリス、ニャル」


 イリスの頭をでると、満開の笑顔を見せてくれた。


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